正林寺御住職指導(H26.11月 第130号)
小松原の法難は、文永元(一二六四)年十一月十一日に、日蓮大聖人が天津の領主工藤吉隆邸に向かう途中、松原の大路で地頭東条景信の率いる念仏者らに襲撃された法難のことであります。
大聖人は、この法難が惹起するまでの弘長三(一二六三)年二月、北条時頼の赦免状により、伊豆から再び鎌倉の草庵に戻られ、翌文永元年の秋に、御母・妙蓮が危篤との知らせにより、十二年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。
大聖人が帰り着かれたとき、母の様子は病篤く、まさに臨終の状態でしたが、大聖人が当病平癒を御祈念されたことにより、現身に病を癒やされ、さらに四箇年の寿命を延ばされたことを『可延定業御書』(御書760㌻)に仰せであります。
その後も大聖人は、安房の地に留まられ妙法弘通に専念されていました。大聖人の帰郷を聞いた篤信の信徒である天津の領主・工藤吉隆が大聖人の来臨を請い願ったため、大聖人は十一月十一日に、十数人の供を連れてその館に向かわれました。
これを知った地頭の東条景信は、以前より大聖人を念仏の敵として狙っていたので、大聖人一行が夕刻、小松原(鴨川市)にさしかかったとき、武器を持った数百人の念仏者を率いて襲いかかりました。このときの様子について大聖人が『南条兵衛七郎殿御書』に、
「十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候」(御書326㌻)
と仰せのように、弟子の鏡忍房が殉死し、二人が重傷を負うなか、大聖人も景信の太刀によって右の額に深手の傷を受けられ、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのであります。
この法難は法華経の『勧持品第十三』に説かれる「悪世の中においては、正法の弘教者に対して刀杖を加える者がある」(法華経375㌻趣旨)との経文そのままの様相である三類の強敵で仏法に無智な俗衆増上慢の姿でありました。
