日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第三項 『本因妙抄』の後加文を「人師の説」と下し、唯授一人の血脈相承を否定する邪推・短見の妄説を破折する

 

 第三項 『本因妙抄』の後加文を「人師の説」と下し、唯授一人の血脈相承を否定する邪推・短見の妄説を破折する



  「この血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(P.877)とあるとおり、代々の法主にしか血脈は流れていない。
   (文責者注・右文は創価学会が宗門の主張を挙げたもの)

 この文は、「本因妙抄」に後世の者が追加した後加文であることも知らないのでしょうか!
 そもそも「本因妙抄」はすでに原本が無く、堀日亨上人が富士宗学要集で説明しているとおり、残されているのは5世日時上人、要法寺日辰、房州日我等の古写本が存在しているだけなのですが、写本の元となったものを明示した正確さでは日辰のものが最も正しい内容とされています。
 このため、残存する写本には、後世の人間によりいろいろな後加文が追加されており、宗門がよく引用するこの文も、後世の人間によって追加された箇所なのです。宗門には、大聖人の言葉ではなくこのような後加文を根本とする方が本当に多いのです。もしも故意ならば魔の家来と呼ぶべきではないでしょうか。

 この『本因妙抄』の文は後加文であり、創価学会では後加文を根本とするのは「魔の家来」だと言っております。
 日蓮正宗において唯授一人の血脈伝承の存することは、単に文証のみにとどまらず、道理、現証の三証を具えており、この後加文を根本とするとか、この文に依ってのみ血脈相承の証文としたことは、かつてないはずであります。故に「このような後加文を根本とする方が本当に多い」とは、創価学会の者どもの眼の眩んだ見方であります。
 さて、創価学会の者どもは、後加文は間違いであり、依るべからずと考えているようですが、それなら汝らの使う御書に、この文がなぜ載せてあるのか。これを残された日亨上人のお考えは、実に深いところにあるのです。
 この文についても、後加文としての結果ばかりを見て、その文が加えられた因縁を考えようとしないのであり、そこに顛倒の迷見が生じているのです。
 この文は、たしかに日亨上人が『本因妙抄』の後加文と推定されている部分であります。では、なぜこの部分が後加されたかと言えば、まず唯授一人の血脈が厳然と存したにもかかわらず、昔も現今の創価学会の如き、相承を軽視、蔑視、否定せんとする謗法者が現れたため、門中を正しく導き、また、その邪見を破折するために必要だったからであります。ということは、元々、唯授一人の血脈が存在したことを傍証する文であるのです。偏見をもって文義を曲げるなかれ、と言っておきます。


 この宗門の邪義を明らかにする方法は二つあります。
(1)一つは、どこの誰が書いたかも確認できない後加文ばかりを根本とせずに、大聖人の言葉を根本にしなさい!ということです。そもそも御書根本とは、御書全集を根本とするということではなく、大聖人の言葉を根本とするのだ、ということが日顕宗には分かっていないようです。日顕宗が血脈について出す文証は大聖人の経文の外にある後加文ばかりなので、ここでも「天魔、外道!」と攻めましょう。

 次に、彼等は「宗門の邪義を明らかにする方法が二つ」あり、その一つは、後加文などを根本とせず、大聖人の言葉を根本にしなさい、としています。しかし、この大聖人様のお言葉は、五段の相対、教相・観心、宗教・宗旨、対告別異等々があり、だれにでも判るなどという浅薄なものではありません。
  「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし」(御書九〇六)
との仰せを、少しはその石頭にたたき込みなさい。簡単に「大聖人の言葉を根本にしなさい」などの言こそ、思い上がりもはなはだしい創価学会の独断であり、摧尊入卑のエセ法門なのです。すなわち、法の四依の第二に「義に依って語に依らざれ」とある誡めに当たるものであります。
 この「義」について、大聖人の御書の拝し方を言えば、創価学会の如く、自分らの邪想による凡夫成仏、創価学会成仏、創価学会の法華経行者勝ち取りなどを論証するために一々の文をやみくもに羅列する方法は、大聖人の大仏法の構格を破壊し、虚仮にするものであります。つまり、御書は大聖人御化導の全体のなかで分々の主意が存し、それぞれの義が分かれているのであります。それらの全体を総合した大綱の上から、それぞれの御書の義を拝し、それぞれの文に及ぶべきであります。
 具体的に言えば、佐前、佐後の別も存し、佐後においても、『開目抄』は、文底の一念三千を示し給うとともに、それを実現する仏の振る舞いを法華経の行者として顕され、主師親三徳に結帰されます。故に、主意は末法下種の人本尊の顕示であります。故に、これを振る舞い給う日蓮の御名が、文中に三十四カ所を数えるのでありますが、地涌上行の末法出現の文は全く示されておりません。
 これに対し『観心本尊抄』は、末法衆生即身成仏の観心と、その対境たる法本尊を示し給うため、結要付嘱の妙法蓮華経の御本尊と、これを弘宣する地涌千界の末法出現を各所に説かれている反面、文中に日蓮の御名は一カ所も示されていないのです。同じ本尊についても、人と法の主意の違いにより、このような文の相違があるのです。
 また、『法華取要抄』では、上行所伝の妙法蓮華経の弘通の法体として、開・観の両抄にはいまだ示されていない、三大秘法の名目を示されるところに主意があります。そのほか、『立正安国論』『撰時抄』『報恩抄』『本尊問答抄』等々、各御書には御化導の時機と対告衆による、随自、随他の法門の主意は皆、異なっているのです。故に、まずその主意に随って文の当分の意味を拝さなければ、根本的に判断が狂うのであります。
 その上から、池田大作がかつて創価仏法を標榜するのに悪用し、今また、創価学会で盛んに引く『生死一大事血脈抄』は、その題号からも解るとおり、生死のため、臨終正念のための教示がその主意をなすものであり、そこに広宣流布への意義も含ませられているのであります。
 故に、法華の血脈相承と言われるのも、妙法と地涌上行・日蓮に対する信心の血脈が主意をなしているのです。全文を通じ、また、特に末文の、
「相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ」(同五一五)
の文は、まさしく生死に関し、臨終の心得としての法華経・日蓮への信心の血脈であります。そこにこの抄の当分の血脈の主意があるのですが、これは血脈の全分ではないのです。
 血脈の全分を言えば、『安国論』の附文に対する元意、『本尊抄』の下種本尊に関する法体と法門の血脈、『法華取要抄』『報恩抄』『三大秘法抄』に説かれる三大秘法に関する甚深の血脈等を含むのであり、言うまでもなく、大御本尊を根幹とする法体の血脈、唯授一人金口嫡々の血脈、法門の血脈、信心の血脈がそれであります。『生死一大事血脈抄』の「血脈」は、このなかの信心の血脈を主意とする御書であり、彼等の引く諸文の意もその範囲に属するのであります。
 創価学会の者どもは、この抄の「血脈」の語を見て、鬼の首でも捕ったように「これ以外に血脈なし」などと力み返りますが、大聖人の御化導の全体と各御書の主意・正意に暗く、部分に執われて全体を知らず、あるいは部分をもって全体を律しようとする我意・悪義であります。わけも判らず「文証、文証」と、ねずみの如くあちこち、つつき回すのを「ねずみ法門」と言うのです。少しは恥を知りなさい。
 以上が法四依の「義によって語に依らざれ」の誡めによる御書の拝し方の一つであります。
 さらに二つには、文と義には、文の表面になくとも義が具わっている場合、反対に文の趣意はそれぞれに明らかでも、さらに深い義までは具していない場合等、様々であります。故に、あくまで義に依るべきであって、表面だけの文や語に執われないことが大切であります。創価学会が言う「文証、文証」とは、莫迦の一つ覚えの如く、切り文やスリ替えであり、この誡めに当たっているのであります。


 同じ「本因妙抄」の本文、すなわち「大聖人の相伝」をしっかり読んでみてください。
  『信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く』(P.872) (※本因妙抄)
と、代々の法主など一切関係無く、余念の無い題目で成仏することが断言されているではありませんか!

 したがって、次に『本因妙抄』の「信心強盛にして」云々の文を引いて、「代々の法主など一切関係なく、余念の無い題目で成仏することが断言されている」と、本当に無知忘恩の言を吐いております。これも切り文であり、その前に「今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す」の文があるのです。
 「久遠名字の本門」とは末法出現の本仏大聖人の弘宣し給う三大秘法であり、末法一切衆生の信心の対境たる、この三大秘法の法体と金口の血脈は、日蓮、日興、日目以下、厳として歴代上人の伝承するところであります。故に、そこを外れて即身成仏の利益は全くありません。したがって、この文は創価学会の主張とは逆なのであります。


 正しい血脈について論じる場合は、まず御書に基づいて大聖人が血脈をどのように示されているかを確認しなければなりません。前述の「生死一大事血脈抄」には、血脈について繰り返し述べられています。
 『久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:久遠実成の釈尊(文底では大聖人)と皆成仏道の法華経(文底では御本尊)と我等衆生との三つが全く差別が無いと自覚して南無妙法蓮華経と唱える所を生死一大事の血脈と言うのである。このことはただ日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとはこのことを言うのである。)
  「久遠実成の釈尊」とは文底では久遠元初の自受用報身如来である日蓮大聖人、「皆成仏道の法華経」とは三大秘法の南無妙法蓮華経即ち御本尊であると言うことで、これらと我々とが全く差別がないと自覚して題目を唱える所を生死一大事の血脈と呼ぶ、という御指南です。また、これ以外にも御書には我々の生命自体が妙法蓮華経の当体即ち御本尊であると繰り返し示されています。
  『所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり』(P.512)
  (通解:結論すれば、妙法蓮華経の当体とは法華経を信じる大聖人の弟子檀那等の父母が生んだこの肉体のことを言うのである。)
  『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(P.1244)
  (通解:この御本尊を全く他に求めてはならない。ただ我々衆生が法華経を持って題目を唱える胸中の肉団に存在するのである。)
 つまり、法華経を信じて題目を唱える自分自身の生命自体が究極の存在であると確信することがまず第一に重要だと言うことです。
  (文責者注・右のゴシック文字の文については、あとの所(本書103)で破折されている。)
 次に大聖人は、血脈相承とは、三世の生死において法華経から離れないことであると御指南されています。生涯不退転どころか、三世永遠の不退転を誓うことが血脈相承であるとも拝することができます。
  『過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:過去・現在・未来の生死、即ち三世永遠の生死において法華経を離れないことを法華の血脈相承と言うのである。)
 更に、生死一大事血脈抄では、自分自身のみでなく、異体同心の団結の重要性も示され、この広宣流布への集い(創価学会)こそが「総じて」の大聖人の弘通の「所詮=結論」であると断言されておられるのです。
 『総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:総じて日蓮の弟子檀那等が自他彼此の差別の心なく、水魚の思いを持って異体同心の団結の心で題目を唱える所を生死一大事の血脈と言うのである。しかも今大聖人が弘通する所の結論はこれである。)
 そして、本抄の最後には、強盛の大信力を出して題目を唱える実践以外に、他の何かに血脈を求めてはならない、とまで断言されています。
 『相構えて相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ』(P.1338) (※生死一大事血脈抄)
 (通解:相構えて相構えて強盛の大信力を出して命がけの題目をあげて祈念しなさい。生死一大事の血脈はこれ以外に全く求めてはならない。)

 次に『生死一大事血脈抄』の「久遠実成の釈尊(中略)法華経を持つとは是なり」の文をまず引いていますが、これを直後の解説で「久遠実成の釈尊(文底では大聖人)と皆成仏道の法華経(文底では御本尊)」としているところから、この文は「文証、文証」と言う文そのもの、いわゆる「御書根本で、一切、文に依るべし」という主張を自ら捨て、右カッコ内の説明を加えざるをえないことから、大聖人のお言葉でも、表面上の表現による限り、正義を拝せないことを認めているようです。 とすれば、信仰の根本である血脈相伝の法体を忘れて、始めから終わりまで、経文だ、御書根本だ、文が大事だと言う愚かな矛盾が少しは解るはずなのです。また、創価学会は、文底から拝せば釈尊とは大聖人であるなどとは、だれから教わったのですか。まさしく歴代上人が承継あそばされた血脈相伝の御指南によってこそ、御書の文義が正しく拝し得られたのではありませんか。これを「大聖人直結」と言うところに、我見、増上慢、無知忘恩の背逆があるのです。
 また、さらにこの御文のあと、二つ置いて、次に同抄の三文を挙げております。これらの文はすべて、正しい本尊を持って余念なく信心修行する、成仏の功徳を説き給う信心の血脈を仰せなのであります。特にこれらの文には、法体の血脈がないなどとは、いささかも仰せられていないではないか。また、それを否定する御文では絶対にないのであります。
 また、二番目の文の、
  「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく云云」(御書五一四)
の文は、広宣流布の要諦が、日蓮大聖人の弟子である僧侶と、檀那すなわち信徒との異体同心にあることの御指南であり、大聖人御入滅後は、『一期弘法抄』等に定められる如く、日興上人以下、代々の血脈の法主上人の指南を根本とした僧俗の団結こそが、広宣流布を可能とする大事であることは言うまでもありません。
 それを、創価学会は「この広宣流布への集い(創価学会)こそが『総じて』の大聖人の弘通の『所詮=結論』であると断言されておられるのです」などと、臆面もなく述べています。『四恩抄』に、
  「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(御書二六八)
と仰せの如く、下種三宝を宗祖以来の血脈によって正しく伝える宗団は日蓮正宗以外にありません。かつて御先師日達上人から、学会の謗法に対して、
  「日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります」(大日蓮 昭和四九年八月号二〇)
と教導されたことを忘れたのか、と言ってやりましょう。
 尊い和合僧団たる日蓮正宗を破壊しようとするような魔の醜団が、広宣流布の集いであるわけがないのです。
 そしてまた、最後の、
  「生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ」(御書五一五)
の文について、先にも述べましたが、さらにくどく創価学会は「本抄の最後には、強盛の大信力を出して題目を唱える実践以外に、他の何かに血脈を求めてはならない、とまで断言されています」と、臆面もないスリ替えの結論を出しております。
 これは間違いもはなはだしい愚論であり、正しい見方は、最蓮房が大聖人に生死一大事の血脈についてお尋ねしたのに対して、その御返答が全体の主意をなしているのであります。故に、大聖人は「生死一大事の血脈」と限定されて、それは、
  「強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ」(同)
と言われたのであり、それよりほかに生死一大事の血脈を求めるなかれ、と言われるのであります。
 これは明らかに、信心の上の生死に関する血脈と限定されております。故に、三大秘法の深意、法体金口について、大聖人、日興上人、日目上人、歴代上人の血脈を否定された語では絶対にないのです。むしろ、この文に執われて宗門の血脈を否定する創価学会の妄説を、経文に「義に依って語に依らざれ」と破されているのであります。少しはスリ替えをやめ、まともに考えなさい、と言っておきます。


 『所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり』(P.512) (※当体義抄)
(通解:結論すれば、妙法蓮華経の当体とは法華経を信じる大聖人の弟子檀那等の父母が生んだこの肉体のことを言うのである。)
  『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(P.1244) (※日女御前御返事)
  (通解:この御本尊を全く他に求めてはならない。ただ我々衆生が法華経を持って題目を唱える胸中の肉団に存在するのである。)
 つまり、法華経を信じて題目を唱える自分自身の生命自体が究極の存在であると確信することがまず第一に重要だと言うことです。

 少し前に戻って、先程、便宜上、述べなかった所でありますが、彼等の引く文証に『当体義抄』と『日女御前御返事』があります。
 『当体義抄』の、
  「所詮妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」(御書六九四)
の文、また、『日女抄』の、
  「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ(乃至)胸中の肉団におはします」 (同一三八八)
の文は、共に御本尊の勝能と妙法の信行によって、その当体蓮華の肉身が御本尊の仏身となるとの意を示されたものであります。
 およそ法華経は、迹門において既に十界皆成の理を示します。本門においては、体外より一重入った体内の顕本の意義より一切衆生即身成仏が、大聖人の御法門による在世釈尊の化導に明らかであります。まして、宗祖大聖人の真実の本門において正しく信行する者の功徳が当体即身成仏にあることは、日蓮正宗僧俗の確信するところであります。これも総別二義のうちの総の法門であり、いまさら創価学会が喋々する必要はないのです。
 ただし、創価学会が言う信心成仏には、煩悩充満の凡夫が大聖人の大慈大悲によって己心に御本尊を顕させていただけるという有り難さ、報恩感謝の念が欠けています。故に、この文の如く、「自分自身の生命自体が究極の存在であると確信する事がまず第一に重要だ」などと、特に創価学会の会員の如き、貪瞋癡三毒充満の底下の者どもが究極だと確信するという思い上がり、憍慢が明らかであります。これも池田の直伝でありましょう。
 さらに大切なことは、創価学会がいかに大聖人の当体蓮華、即身成仏、衆生本仏等の文を挙げて誇ろうとも、いささかもその大聖人の御金言にそぐわず、功徳どころか罪障を積むばかりである理由を指摘しておきます。
 あらゆる大聖人の受持成仏、衆生成仏の金言が実証されるには、重要な一大基本が存します。すなわち、正しい御本尊への信行でなければならないことであります。日寛上人も『文底秘沈抄』に、

「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず」(大石寺版六巻抄四二)
と言われる如く、仏法の筋道に背いた『ニセ本尊』では一切の功徳はなく、堕地獄の現証を顕すのであります。故に、いかに大聖人の有り難い文証を挙げても、一切、空虚となることを知るべきであります。


 この大聖人の言葉を根本とするならば、血脈が何やら秘密めいた儀式によって伝えられるものではないことは明らかです。

 故に、創価学会の言う「血脈が何やら秘密めいた儀式によって伝えられるものではない」などの謗言は、およそ日蓮、日興の血脈、歴代相伝の内容も知らない者の戯言です。創価学会の創始者・牧口氏の口癖だった「認識しないで評価するな」という言葉に反し、いわゆる不認識にして評価するの愚を犯すものであります。また、相伝の深意については、こののちに、さらに述べる所があるとだけ申しておきます(本書204を参照)。


 次に、化儀に関する日蓮正宗の「正依」である日有上人の「化儀抄」と、堀日亨上人の「有師化儀抄註解」とを参考にしながら、血脈について更に考察してみましょう。「化儀抄」には血脈について、
『信と云ひ血脈と法水と云ふ事は同じ事なり乃至高祖(大聖人)已来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり』
と示され、これについて解説した日亨上人も、日有上人も、大聖人の生死一大事血脈抄と全く同じことを言われているのです。
 血脈と信心と法水とはほぼ同義語であって、信行者の信心によって「御本仏から」(決して法主からではない)法水を受け、その法水が血液のように流れることを血脈と呼び、血脈相承とは信心によってこの御本仏から受けた法水を伝え通わせることだと、極めて分かり易く説明されています。決して法主だけにしか流れない得体の知れない代物ではないのです。逆に、仏意に背く時には、血脈相承を受ける資格が喪失する、と言われていることからも、広宣流布を放棄し、切ったつもりが逆に法華経の行者たちから見捨てられた宗門には、すでに血脈を受ける資格も能力も無くなっているのです。

 ところが、日有上人も日亨上人も、創価学会の主張と反対のことを常に言われております。今、一文を挙げますと、『化儀抄註解』に、
「再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」 (富士宗学要集一巻一一七)
とあります。「宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり」の語を、いったい、なんと見るのでしょう。創価学会の者どもの解説とは全く逆ではありませんか。切り文によって都合の悪い文を無視するのが、創価学会のインチキな狂学であります。
 さて、ここでは、彼等が挙げた『化儀抄』の本文の「乃至」という省略の所が問題なのです。その隠した所も含めて挙げてみますと、
「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり云云」(同一ー六四)
とあります。疑いもなく、仏法においては「師匠」すなわち、手続の師匠たる歴代法主の中を違えないことが、「高祖已来」今日までの信心を違えないことであり、「血脈法水の直しき姿」と言われています。その文を抜いてしまって、「決して法主からではない」などの言は、大ウソのスリ替えであり、鉄面皮な切り文であります。
 さらに言えば、続く「高祖已来の信心」の「已来」とは、前文の「師匠の心中を違えざる」を明らかに受けているから、この文の全体は、大聖人以来の法脈を受けた当代の法主、いわゆる師匠との信心を違えざるとき、我等、妙法蓮華経の色心の真実の血脈となる、との意であります。したがって、彼等の解釈は真実の文義と全く逆のごまかしなのです。このようなたぶらかしを言う創価学会は、まさに恥を知らない、人間以下の存在であります。
 また、「仏意に背く時には、血脈相承を受ける資格が喪失する、と言われている」などと言っていますが、仏意に背き、血脈の真義に背いているのはまさしく創価学会だ、と言われている文なのです。いわゆる創価学会の引文の形は、常に本旨と全く反対の、真っ赤なニセものであるのです。


 『信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きなるものに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし乃至不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は乃至即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり』
(通解:信心と血脈と法水とは要するに同じことになるのである。信心は信じ行じている者にある。この信心によって御本仏から法水を受ける。その法水が御本仏から信者に通う様子は、人体に血液が循環するようなもので、信心によって法水を伝え通わせるところを血脈相承というので、信心は永遠に動揺させてはならない、撹乱させるべきではない。もしも信が動揺すれば、その法水は絶えて来なくなってしまう。不善不浄の邪心迷信になって大聖人の心に背く時には、即身成仏の血脈を受ける資格は消滅するのである。)
 これらの内容は、大聖人が生死一大事血脈抄で示された血脈と全く同じ概念であり、日顕宗の主張とは全く異なっていることからも、まるで日顕の出現を見越していたかのような、日顕宗の血脈論に対する素晴らしい破折ではありませんか。

 ここでは、さらに日亨上人が『化儀抄』を註解した文を引いて、信とは御本仏からの法水で、けっして法主からではないとして、相変わらず血脈相承とは御本仏との法水が血液のように衆生へ流れることだ、と言っています。
 右に彼等が挙げた『化儀抄註解』の文の「不善不浄」の前の「乃至」も、相変わらずひどい切り文です。しかし、この文はあとにも重ねて切り文で出してくるので、その箇所(本書172頁を参照)で徹底的に破折しますが、しかも、これを頬被りして、これらの内容が『生死一大事血脈抄』で示された「血脈」と全く同じ概念であるなどとごまかすのです。これも御書や法門書の趣意を弁えない愚論であるとともに、狡猾なスリ替えであります。
 再説しますが、『生死一大事血脈抄』は生死一大事臨終正念のために必要な、御本尊・大聖人への唱題に関する信心の血脈を示されたものであり、また、『化儀抄』や『註解』の文は、唯授一人の血脈相承によって現当二世に法水を相伝する上における信心の血脈であります。
 文の趣意は明らかに異なるもので、創価学会の切り文によるごまかし・捏造以外のなにものでもありません。


 (2)正義を顕わす二つめの方法は、この後加文が述べている「血脈」と「本尊」とは、「伝法の書」について述べたものであって、何か特殊な儀式等を指したものではないということです。それを例によって「切り文」して、勝手な己義を構えているのだということが、直前の文章も含めて正確に示せば全て明らかになります。
『又日文字の口伝・産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す、教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈并に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり』
(P.877) (※本因妙抄)
 ここで「日文字の口伝・産湯の口決」とは、相承書の一つである「産湯相承事」に示されている内容であり、「本尊七箇の口伝」とは相承書の一つである「御本尊七箇相承」のことを指しています。これらを天台・伝教両大師の十重顕観や七面七重の口訣等と対比させたうえで、この「血脈抄」と「本尊抄」の大事は「日蓮嫡嫡座主伝法の書」であるということを示し、「塔中相承の禀承唯授一人の血脈」とは、実は「文書」であることを明示しているのです。
 何か秘密めかしたものがあるかと思っていたら、ちゃんと読めばすでに誰もが承知の、堀日亨上人が富士宗学要集第1巻で全国に公開してしまった相承書の内容について述べている箇所なのです。この文章を根拠にして法主にだけ流れる血脈とはいったい何なのでしょう?具体的に説明を求めて、答えられた法華講員の方はまだ誰一人いません。もしも特別な口伝があるなどと嘘を言ったら、即座に「天魔・外道だ!」と先述の御書で破折するべきです。他にも経文があります。

 次に(2)として、後加文が述べている血脈と本尊とは「『伝法の書』について述べたものであって、何か特殊な儀式等を指したものではない」として「切り文」云々と述べておりますが、この創価学会の誤りを一言をもって指摘すれば、文上にのみ執われたもので、文底の意味を知ろうとも信じようともしないことであります。宗祖大聖人は『開目抄』に、
  「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(御書五二六)
と仰せられ、文上と文底のけじめを示されております。
 いわゆる、この「又日文字」以下の文は、日亨上人の仰せの如く、後加の文として、このように表現されたのであります。しかし、「此の血脈」の文には、初めから法門の相承として存在したものや、あるいは時代によって唯授一人の相伝のなかより、やや一般的に法門相承に展開した、相伝血脈と言うべきものがあるほかに、全く公開せられざる、人法の血脈相伝が具わり、含まれているのであります。
 創価学会は軽忽浅識の判断をもって、塔中相承の稟承、唯授一人の血脈とは文書であり、日亨上人によって『富士宗学要集』第一巻に公開されているものがすべてであるとしています。しかし、それは彼等の無知による独断であり、日亨上人も御生前中、僧侶への講義等のなかで、全く非公開の法を内容とする相伝があることを述べられておりました。
 これについては、創価学会が、さらにあとのほうで、『本尊抄文段』の文を引いて、やはり公開されたもの以外に相承などはないと言っている所があるので、その所でさらに破折することにします(本書204を参照)。
 池田らによって邪見に執し、あらゆる切り文を用いて歴代上人の正意をねじ曲げるような邪智の創価学会の者どもに、相伝仏法の在り方が正しく信解できるはずはないのであります。
 御書を根本として、それに基づいて血脈相承がないものと定義する理由は全くないのです。ただ、
  「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二)
の、附文に対する元意のところに甚深の仏意相伝の主体があり、日寛上人はこの相伝について「蓮、興、目」云々と仰せであり、金口嫡々の相伝が今日に至っていることを述べておきます。


 『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』(P.219) (※開目抄)
  (通解:仏の説を根本にして、口伝を信じてはならない。)
日顕宗は途中の人師・論師の言葉ばかりを根本にするから仏法でない邪義になってしまうのです。

 次に、またぞろ、『開目抄』の、
  「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」(御書五五八)
の文を引いて、この破折を日蓮正宗の血脈相伝に当てているが、この文は伝教大師の『法華秀句』下の、無問自説果分勝三の結語中の文で、釈尊滅後、有見・空見に執着する者に対し、その歴劫修行等に関する人師の口伝を法華の大直道で打ち破ったあと、天台の釈する法華経の正義の大切なことを述べた文であります。要するに権実相対の文なのです。
 大聖人もまた、華厳、法相、三論、真言の法華に背く例証として伝教のこの文を挙げられたのであり、意は全く権実相対にあります。それを、大聖人の文底法門の奥旨における口伝法門と同一にすべき構格ではありません。こういうのを「乱引」と言い、全く見当違いの文証なのであります。


 『唯人師の釈ばかりを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり』(P.462)(※持妙法華問答抄●)
  (通解:ただ途中の法主のような人師の解釈ばかりに依存して御本仏の言葉=御書によらないならば、どうして仏法と言う名を付けられようか。言語道断の次第である。)
 悔しかったら、まず御書に基づいて血脈について定義し、日蓮正宗の正依に基づいて矛盾無く論理を展開してみることです。日顕宗の主張が邪義である故に、絶対に出来ないのです。

 また、『持妙法華問答抄』の「唯人師」云々の文の「人師」とは、前後の文意より、明らかに権経執着の人のことであります。この文を正系仏法の血脈付法の代々の法主に当てることは、まさに道理と文証に背くものであり、この誣告の言はまさに堕地獄の業因であります。
 見当違いの文を挙げても、悔やしくもなんともありません。それより、文の所対すら判らない自分達のお粗末な狂学を反省することです。創価宗は、御書を誤って解し、邪義を振りまくバケモノ集団である、と言っておきます。


 なお、日蓮正宗の正依ではないので我々は用いませんが、第18世日精の「日蓮聖人年譜」には、日蓮大聖人から日興上人への最初の付属が根本で、二番目以降は単なる化儀だ、という言葉があります。日顕宗の不勉強な輩をいたぶるのに使ってみましょう。
『血脈抄に云く元初の付属と云へるは是なり乃至第二番已下の付属は但是化儀の一筋のみ』(富士宗学要集第5巻P.120)

 日精上人の『年譜』中の「元初の付属」云々の文は、別に謗法者にいたぶられるものでも、なんでもありません。これは、日辰の文と日精上人の意見とを見間違い、取り違えたものとして示しておきます。この所は、近年の研究によれば、やはり日辰の文の引文であり、次の、
  「然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相異甚多なり」
(富士宗学要集五巻一二〇)
からが、日精上人の日辰の法門を批判された文であります。浅薄な知恵をもって文義を限るなかれ、と一蹴するものです。

 

※『第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う』へつづく