正林寺御住職指導(R2.12月 第203号)
「供養」とは「供給奉養(ぐきゅうほうよう)」の意味で、報恩のために仏法僧の三宝に対して財物などを供える行為をいいます。供施・供給、略して「供」などともいいます。まず供養については、邪宗での教団維持による資金や金儲けとの考えとは明らかに違うことを知る必要があります。供養とは異なり謗法の施に類するため混同しないように注意しましょう。ゆえに、御供養と御布施は違います。
宗祖日蓮大聖人は『白米一俵御書』に、
「聖人の御ためには事供(じく)やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)」(御書1545)
と仰せのように、聖人の「事供養」と凡夫の「理供養」があります。事供養は過去に仏の恩を報ずるために自らの臂を焼いた薬王菩薩や、法を求めて自らの命を鬼に捧げた雪山童子の不惜身命の振る舞いを実践することができなければ不可能なことであります。末法の私たち凡夫は、「無量劫よりこのかた、をやこ(親子)のため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。」(御書1056)との習気が邪魔するために、到底できないことです。
ところが、理供養は聖人と同様に命自体ではなく、それを失えば生活の維持が困難である金銭と衣や食を仏に供養する「こころざし(志)」により、成仏の功徳を積むことができるのであります。
私たちは、御本尊を信じ奉り、真心の御供養を心掛け、さらに折伏に精進していくことこそ真の供養と心得ることが大事であります。
事供養
「事供養」とは、先に述べたように、過去の聖者が壮絶な覚悟のもと、実際に身を投じて法を求め、仏を供養することをいいます。本宗の歴史を振り返れば、小松原(千葉県鴨川市)の法難の砌、大聖人をお守りするために命を落とした鏡忍房や工藤吉隆、また卑劣な弾圧に屈せず身命を堵して題目を唱え続けた熱原三烈士など、数々の法難を乗り越えて赤誠の信心を貫いた法華講衆による身軽法重の振る舞いが、この事供養に当たります。
理供養
一方「信教の自由」が保障される今日、私たちが自身の命を仏に捧げる代わりに、三宝尊に供養することを「理供養」といいます。この理供養は、さらに「法供養」と「財供養」に分けることができます。
法供養
「法供養」とは、仏の所説に従って法を弘め、人々を教化することです。現代の私たちにあてはめれば、大聖人の御金言のままに、幾多の障害を乗り越えて折伏に励むこと、つまり現下ではコロナウィルスの疫禍を乗り越えて御命題達成を目指す折伏をいいます。また限られた時間をやり繰りして寺院に参詣したり、会合等に参加して仏法の功徳を語り、歓喜の心を多くの人に伝えていくことも法供養になります。
財供養
これに対して「財供養」とは、食物や衣類・香華・資材などを総本山や所属寺院の御本尊にお供えすることをいい、これによって日蓮正宗の正しい法灯が護られ、正法が興隆し、令法久住との遠い未来にわたって多くの人々が大御本尊の御利益に浴していくことができるのです。
伊豆や佐渡配流の折には、船守弥三郎や阿仏房たちが身の危険を顧みず食物などを大聖人に奉り、献身的に給仕に励みました。また、南条家では、幕府の弾圧によって経済的に逼迫したなかにあっても、大聖人への御供養に尽くしました。このほか多くの信徒たちが、末法の御本仏である大聖人に対して真心の御供養を続け、外護の任を全うしていったのです。
大聖人は『新池御書』に、
「度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥はげませ給ふべし、懈ることなかれ」(御書1457)
とされ、仏祖三宝尊の広大な御恩に報いていくためにも、真心の御供養が大事であることを教えられています。
私たちは、大聖人の使いとして折伏する法供養に精進すると共に、仏祖三宝尊への真心の財供養に励んでいくことが、成仏のための大切な修行となることを忘れてはなりません。
供養について諸経論に種々説かれています。
二種供養
『十住毘婆沙論』等に説かれている供養で、ここでは香華・飲食などの財物を供養する利供養と、教説のごとく修行して衆生を利益する法供養が説かれています。
三種供養
『十地経』等に説かれている供養で、香華・飲食を捧げる利供養、讃歎恭敬する恭敬供養、そして仏法を行ずる行供養が説かれています。
四事供養
『増一阿含経』に説かれている供養で、飲食・衣服・臥具・湯薬の四つをいいます。
十種供養
『法華経』の『法師品』(法華経319)に説かれている供養で、華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繪蓋・幢幡・衣服・伎楽等の十種の供養をいいます。
この他にも種々説かれていますが、天台大師は『法華文句』(法華文句記会本中491)で、礼拝の身業供養、称讃の口業供養、相好を想念する意業供養の三業供養を説いています。身口意の三業にわたるバランスのとれた供養が大切であります。
さらに『摩訶止観』では、「布施行に事と理の布施が具わる(中略)事とは慳貪の物を破してよく財物を布施する財施、理とは慳貪の心を破してよく法を布施する法施である」(摩訶止観弘決会本下150取意)というように、「事・理の供養」を説いています。特に「貪るは餓鬼」(御書647)である慳貪の心を破していくためには、事の財施と理の法施についての供養であります。
この天台大師の事理の供養を受け、さらに末法の御本仏としての御境界より示されたのが、先の「聖人の事供養」に対する「凡夫の理供養」であり、私たちが心がけるべき御供養の根本精神になります。
その根本精神をもとに日頃の信行において御供養を志すことが大事であります。大聖人は『国府尼御前御書』に、
「『若し毀謗せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん』等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわ(破)るべしと」(御書739)
と御教示になりました。
御本尊を拝しますと左方の讃文に「有供養者福過十号(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)」と認められていますが、末法の正しい三宝に供養するならば、仏様が具えるとされる十種の徳よりも大きな功徳を積むことができるとの御示しです。
各家庭におけるお仏壇の荘厳等、御本尊へのお給仕は、すべてが仏道修行であり御本尊への供養となります。
御法主日如上人猊下は、先ほどの『国府尼御前御書』の御文を御講義される中で、
「なぜお釈迦様を供養するより、末法の法華経の行者である日蓮大聖人様を供養する功徳のほうが勝れているか、それは大聖人様が久遠元初の仏様すなわち末法の御本仏であられるからなのです。今日、我々が大聖人様に供養し奉る信行を立てることこそ、一番尊いことになるのであります」(功徳要文273)
と御教示せられました。
日蓮大聖人が末法の御本仏であらせられるとの確信のもと日々の勤行・唱題・お給仕等に励むとき、その積み重ねによって信心も深まり御報恩謝徳のための御供養の大切さが自ずと身についていくことになります。
総本山第二十六世日寛上人は『報恩抄文段』に、
「問う、報恩の要術、其の意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、即ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(御書文段384)
と、最も大切な御報恩謝徳とは不惜身命の折伏行であることを御教示せられています。
最後に、九月七日から始まった「百日間唱題行」も十五日で満行を迎えます。御法主日如上人猊下は「唱題が単に唱題だけに終わるのではなく、唱題の広大なる功徳と歓喜をもって、折伏を行じていくことが肝要」(大日蓮 第834号)と御指南されています。
宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節まであとわずかとなりました。本年「御命題達成の年」の有終の美を飾るためにも、折伏誓願の達成に向けて最後まであきらめることなく、残された日々を悔いなく唱題と折伏に励み、未来につながる信行に徹することが大事であります。
その上から供養をこころざすことが正法伝持と広宣流布の願業成就への道であることを心に留め精進してまいりましょう。
宗祖日蓮大聖人『新池御書』に曰く、
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩(あゆ)みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。」(御書1457)
