開眼とは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
日蓮大聖人は『本尊問答抄』に「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(全 集三六六頁)と仰せられ、『四条金吾釈迦仏供養事』に「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり(中略)画木にて申せば草木成仏と申す」(全集 一一四五頁)と説かれております。
また、第三十一世日因上人は御消息の中で「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」と仰せられ、第五十六世日応上人は「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教 二七-四七四頁)と仰せのように、本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
ちなみに学会の『仏教哲学大辞典』では、「末法における開眼供養は、ただ三大秘法の大御本尊のみによる以外にないのである」(同書 一-五九〇頁)と説明していますが、今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。
