日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

自行若し満つれば必ず化他あり

正林寺御住職指導(R3.12月 第215号) 

 令和3年(2021)となる、宗祖日蓮大聖人御聖誕800年の大佳節も残り1ヶ月を切りました。本年を振り返り、コロナ禍中での信心修行は如何でしたか。
 末法時代にすべき仏道修行は、大聖人が定められたように「自行化他」であり、日蓮正宗以外の他宗派で行う「読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用」(御書403)となります。つまり、『三大秘法稟承事』に、
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。」(御書1594)
と仰せであります。当然ですが、自行は、みずから題目の南無妙法蓮華経を唱える修行。化他は、折伏であり他人を教え導き、他人も同じように題目を唱えて友人知人を幸せになるように教え導いていくことです。「講中一結・異体同心」には、必要不可欠な実践修行となります。
 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「自行若し満つれば必ず化他あり」(御書文段219)
と御教示であります。

 朝夕の勤行をはじめ唱題会などは、実践的な自行であります。この自行が満れば、必ず化他があるということでありますが、大聖人は『上野殿御返事』に、
「此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事なり。」(御書1219)
と仰せのように、自行の実践中に、もしくは実践以外に余事を交えて唱えれば、ゆゝしき僻事となり、自行は満つることにはなりません。満つることにならなければ、当然、化他にはつながりません。
 自行を一生懸命に実践されている方で、必ず化他ありに至らない方には、自行が我流となり、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書794)と御指南である本来の在り方を確認することが必要です。もし、実践されていない方がいれば、月々日々に自行を実践するところ、三世間が安定し更なる充実した人生があり、必ず化他へとつながるはずであります。
 そして、「満つれば」とは、「縦糸と横糸のつながりが肝心」であることに気がつくことで抜本的な解決があります。縦糸と横糸のつながりに距離を感じていれば、満ちてはいません。満つるために必要な、総本山への登山は如何でしょう。寺院参詣はどうでしょうか。寺院参詣は御先祖を供養することは当然大事でありますが、供養だけのつながりでは、自行が満ち化他へとつながることはないでしょう。富山の蘭室に交わり、さらなる精進を期待いたします。

 本年、年始めの元日から1年間を振り返り、世間は「火宅」(法華経144)である三界六道輪回の生活リズムに変わらず終始しています。第六天の魔王の所領であるためです。いまだに邪宗邪義が蔓延るため、日蓮正宗の僧俗も悪影響を受けかねませんが、受けないようにするための自行化他となります。このことを深く自覚しない限り、自行は満つることなく化他にも至りません。

 仏法の視点から邪宗邪義の害毒がもたらす昨今の懸念事項としては、日本列島を囲む火山活動の影響です。専門家からは様々な見解があります。また、新型コロナウイルスの再熱が心配される南アフリカで確認された新たな変異ウイルス「オミクロン株」の動向が不安視されています

 しかし、日蓮正宗の僧俗は、本年の宗祖日蓮大聖人御聖誕800年との重要な節目であることを認識し、宗祖日蓮大聖人の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊が在す日本国であるため、御威光により必ず難を乗り越えることができると確信することが非常に大事であります。
 昨年は、御法主日如上人猊下の御裁可を賜り、百日間唱題行が実施されました。
 「百日間唱題行(令和2年9月7日)の砌」に、
「唱題行を百日間行い、その功徳と歓喜をもって、今、世界に蔓延しているコロナ禍や異常気象による災害など、眼前に立ち塞がる様々な難事・難局を乗り越え」(大日蓮 第896号 R2.10)
と御指南であります。昨年成し遂げた百日間唱題行の功徳と転重軽受の護法の功徳力により回避できることを確信しましょう。そのためには、功徳を信じ切り、歓喜を持つことであります。百日間唱題行は、御法主日如上人猊下が予期せぬ未来に起こりかねない難事・難局を乗り越えていけるよう、日蓮正宗の僧俗は徳を積み境界を向上させて必ず乗り越えることができるようにとの有り難い御配慮と拝し奉ります。功徳を信じ切り歓喜の気持ちを持つことは他人から誓約されることはなく、時間は必要ですがお金や税金は一切かかりません。まさに自由であります。百日間唱題行に参加されていなかった、本年入信されて法華講員になられた方は、これからコロナ禍や異常気象による災害など、眼前に立ち塞がる様々な難事・難局を乗り越えさせて頂ける境界に変わることを期待して唱題行に励みましょう。

 しかし、功徳を信じられず、歓喜が沸かない場合があります。功徳は無疑曰信を心がけ、歓喜は絶望感や過剰な不安があると沸きにくい傾向があるため、マイナス要素を払拭させ切れれば、歓喜は沸きやすくなります。これは自行において克服することが可能であります。「正直の信心」が必要不可欠です。絶望感や過剰な不安が常に心を支配すると歓喜は一切起きません。この状態が続くと「本当に功徳があるのか、御本尊を信じていていいのか、他に方法があるのでは」との不信謗法につながりかねません。頭で理論的には信心が理解できたとしても、感情的(心理・精神)な部分では一切歓喜を感じることができない状況が起こる場合があります。その原因は社会情勢か、人間関係なのか、持病であるのか様々な要因があります。仏法上、五濁悪世と深層的に師子身中の虫や己身の魔が禍し、根本的には元品の無明惑から発せられる無始以来の謗法罪障が起因しています。
 まさに大聖人は『御義口伝』に、
「信の字は元品(がんぽん)の無明を切る所の利剣なり」(御書1737)
と、さらに、
「此の本法を受持するは信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。無疑曰信(むぎわっしん)の釈之(これ)を思ふべし」(御書1764)
とも御指南であります。自行が満つるための重要なところになります。歓喜が沸くためには、信の一字である利剣で絶望感や不安要素を切ることです。絶望感や不安から「大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801)との生命状態を維持し歓喜を持続させて行くことにより可能となります。さらには六根清浄の功徳へとつながります。六根清浄の功徳を頂戴するためには、無始以来の謗法罪障により個人差はあります。十二因縁の上から現在世で着実に六根清浄の功徳を成就する人、まさに後生善処である順次生に成就する人、順後生に成就する人と様々でしょう。しかし、確実に六根清浄の功徳へと、無始以来の謗法罪障を一つ一つ、唱題を行い信の一字である利剣で切りながら月々日々に成就されていくことを確信しましょう。如説修行の確実な実践により大聖人は『一念三千法門』に、
「法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬へば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む。法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す。」(御書110)
と仰せであります。そのためにも、本門戒壇の大御本尊を信じ、御法主上人猊下の御指南に信伏随従するところ、さらに法界の一切衆生は末法一万年の間
と尽未来際に必ず六根清浄の功徳を成就することを確信いたします。
 六根清浄の功徳について『法師功徳品第十九』に、
「是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。是の人は、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん。」(法華経474)
と説かれています。「八百の眼の功徳」を完全に成就するためには、「信心の厚薄」(御書1388)により無始以来の謗法罪障の消滅の度合いにもより、生老病死も関係します。それが歴劫修行と異なり、今世である現在世で完全消滅があるのか、順次生であるのか、順後生に成就するのか、ということであります。これは「千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳」にも同じようにいえることであります。本未有善であるため功徳を積む以上に罪障消滅に費やされる期間が大半を占めることを肝に銘じるべきです。
 再確認でありますが、確実に六根清浄の功徳へと、無始以来の謗法罪障を一つ一つ確実に信の一字である利剣で切りながら成就されていくことを確信し、本門戒壇の大御本尊を信じ、御法主上人猊下の御指南に信伏随従するところ、確実な六根清浄の功徳が存すると拝し奉ります。
 そのためにも「正直の信心」が必要不可欠です。罪障消滅されて六根清浄の功徳を積ませて頂く一分の体験・実感こそ、自行が満つることであり、必然的に化他へとつながる道理であります。

 ただし「彼は脱、此は種なり」(御書656)との教えから『法師功徳品』に説かれる六根清浄の功徳は、六万九千三百八十四文字である文上であります。釈尊の脱益仏法です。反面、末法は無作でもあるため衆生無辺誓願度肝要との自覚のもと「南無妙法蓮華経と唱ふる癩人(らいにん)とはなるべし」(御書838)を心肝に染めた地涌の菩薩の眷属が弘教する時でもあります。あえて六根清浄の功徳は望まずに、一切衆生救済の観点から有りの儘の姿で「自行若し満つれば必ず化他あり」との境界、総じての法華経の行者の方もおります。
 世の中には、生まれながら臓器に疾患を持ち移植を待ち望む家族の方、五体満足に生まれたにも関わらず因縁により病に冒される方、六根に様々な劣等感を持つ方は地球上に多くおります。大聖人の一切衆生救済である大慈大悲の一分を自行において満つることができた法華講衆は必ず化他につながるうえから、あえて六根清浄の功徳を望まずに、「衆生無辺誓願度肝要なり」(御書1862)とを最優先し崇高な境界で自行化他に精進させて頂く時でもあります。まさに「身軽法重・死身弘法」(御書1452)の御聖訓のままに妙法広布に挺身していくことであります。その果報として、有り難いことに結局のところ「大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たる」を見るに及び、自然と六根清浄の功徳を成就することに至ります。

 ゆえに「自行若し満つれば必ず化他あり」であります。現実、解決策に翻弄されている人を折伏して同じ体験をして苦しんでいる人を救おうとの化他行に目覚め精進する姿へと境界が変わることです。まさに「自行若し満つれば必ず化他あり」であります。

 御法主日如上人猊下は「令和3年11月度広布唱題会の砌」に、
「まさに、悪世末法の世相そのままに、謗法の害毒によって混沌とした現状を見る時、この窮状を抜本的に救済するには、私ども一人ひとりが断固たる決意と勇気を持って折伏を行じ、もって不幸と混乱と苦悩の原因たる邪義邪宗の謗法を対治し、身軽法重・死身弘法の御聖訓のままに妙法広布に挺身していくことが、今、最も急務であると知るべきであります。」(大日蓮 令和3年12月号 第910号)
と御指南である意義が、自行において満つれば必ず化他である折伏があるとのことです。

 

宗祖日蓮大聖人『報恩抄』に曰く、
「仏法に入りて第一の大事なり。愚眼をも(以)て経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設(たと)ひいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候。而るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵たらざるべき。若(も)し又をそ(恐)れをなして指し申さずば、一切経の勝劣空(むな)しかるべし。」(御書1003)