創価学会の「塔婆」に関する妄説を破す
時局協議会文書作成班4班
はじめに
本年(平成3年・1991年)3月から4月にかけて、創価学会は、『聖教新聞』及び『創価新報』等において、繰り返し「塔婆」に関する記事を掲載した。これは、宗祖大聖人以来、本宗の伝統化儀である塔婆回向を批判し、愚弄したものである。その内容は、「塔婆」自体の尊い意義を貶すとともに、本宗の塔婆回向の在り方に対して、捏造を交えた中傷・誹謗を行ない、イメ-ジダウンを計ったものとなっている。
これらの記事は、教義的にはまともにとりあう必要もない低劣な内容である。しかし、今日のような、創価学会による宗門誹謗の状況下において、その妄説に紛動され、正しい先祖回向の功徳善根を失っていく人々を少しでも救うため、ここに破折を加える次第である。
1.塔婆の歴史
学会では、「これでいいのか!塔婆供養(4)」において、
「法華経に説かれる塔の功徳は仏舎利塔か経塔のことで、板塔婆を死者の追善供養のために建てる風習は日本だけのものに過ぎず、それが法華経に説かれている道理はまったくない(趣意)」(平成3年3月26日付 聖教新聞)
としている。かかる皮相的な見解では、塔婆の深義が領解できないのも、もっともである。
ここで、塔婆の起源について考察すると、その歴史は古く、釈尊自らが造立し、及び造立を許可したことが、『十誦律』『摩訶僧祇律』等に説かれている。
語源のスツ-パとは、「頂」「高顕処」「功徳聚」「廟」 「塚」「方墳」「宝塔」「塔」等の義であり、その始源においては、一般的に「墳墓」の義が存したと推定される。しかし、仏教教団においては、特に仏舎利等を安置した建造物を意味し、仏滅後、信仰の対象として、盛んに造立されるに至った。インド・東南アジア各国の大塔がそれに当たる。
この仏塔建立の甚大な功徳については、『造塔延命功徳経』『造塔功徳経』等に説かれるように、「塔」には、仏に対する報恩と信仰を象徴する意義を有したのである。しかしまた、この「塔」の意義対象が、ただ仏のみに限るものではなかったことは、『根本説一切有部毘奈耶雑事』第十八によって判る。すなわち、「如来」「独覚」「阿羅漢」「小乗聖者」「凡夫」等によって、それぞれの塔の造り方に相違があることを述べているごとくである。また、『瑜伽論記』第二十一に、
「卒覩波は此に供養處という」
とあるように、故人に対する供養の意義をも有していたのである。
さらに仏教東漸に伴って、中国及び日本にも、この塔婆の化儀は受け継がれ、仏塔の意義としては、五重塔などの寺院における堂塔として建立され、故人への供養の意義としては、五輪塔婆、角塔婆、板塔婆として伝えられてきたのである。
2.塔婆の意義
以上は、仏教一般における塔婆の歴史である。この「塔婆」の化儀は、本宗信仰の上からみた場合、当然、妙法によって開会されたものでなければならない。『法華経』においては、「塔」はどのように説かれているであろうか。
『方便品』には、
「若しは曠野の中に於て 土を積んで仏廟を成し 乃至童子の戯れに 沙を聚めて仏塔と為れる 是の如き諸人等 皆已に仏道を成じき」(開結180)
と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、
「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には、已に如来の全身有す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞、 蓋、幢旛、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし。是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結391)
と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。
さらにまた、『法華経』においては、『見宝塔品』より『嘱累品』に至るまで涌出した大宝塔を中心として、法義上、最も重要な久遠の開顕と付属の義が説き顕わされている。
この大宝塔の意義を文底の仏法より拝すれば、即、人法一箇の南無妙法蓮華経の法体の意義となる。このことは、『諸法実相抄』の、
「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」(全集1358)
との御文に明らかである。
すなわち、大聖人の文底仏法の上から宝塔の意義を御指南あそばされた『阿仏房御書』には、
「多宝如来・涌現の宝塔・何事を表し給うやと云云」
「法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」
「宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、(中略)出世の本懐とはこれなり」(全集1304)
と、宗祖御図顕の御本尊こそ宝塔であると仰せである。さらにまた、
「南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」
「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(全集1304)
と、南無妙法蓮華経と唱える弟子・檀那の一身が、まさに妙法の宝塔であると仰せである。このことは、さらに『御義口伝』
「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」の『宝塔品』の下に、
「宝塔とは我等が五輪・五大なり」
「妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり」
「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」
「妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり」
「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(全集797)
との仰せのように、大聖人の証道観心において、宝塔と塔婆は同義であり、法界の一切衆生が、そのまま妙法蓮華経の宝塔、妙法蓮華経の塔婆であることをお示しである。ただし、それは『草木成仏口決』に、
「法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」(全集1339)
と仰せのように、この宇宙法界の全体が、本来、本仏日蓮大聖人の御身そのものであることの意義からの御指南である。故に、個々の衆生においては、南無妙法蓮華経を信受しなければ、そこに成仏があり得ないことは当然である。
すなわち、『上野殿後家尼御返事』に、
「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(全集1504)
と仰せのように、生きているときの成仏が、本仏御図顕の宝塔たる御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところにあることは当然である。では、死の生命に対する回向は、どのようにすればよいのであろうか。
これについて、大聖人は、『草木成仏口決』に、特に死者の成仏は塔婆の功徳にあることを、次のように仰せである。
「妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(全集1338)
すなわち、我々有情の一身の五大は、死後は宇宙法界の非情の中へ冥伏する。その冥伏した法界の非情とは、本来、無作三身の当体であるから、死後の生命の五大も、本来は仏身である。しかし、そこに宿業により、迷悟・染浄の相違が存する。故に、法界中の非情の草木をもって塔婆に建立し、開眼供養するところに、その功徳が法界冥伏の精霊に、ただちに回向されるのである。これが、塔婆供養の尊い意義であり、死の成仏たる草木成仏の本義であると、御指南されたのである。
ただし、その塔婆の開眼供養とは、権教によってではなく、必ず仏教の根源の大法たる南無妙法蓮華経によらなければならないことは当然である。したがって、塔婆には、必ず御題目を書写しなくてはならないのである。このことを御教示された御書に、次の『中興入道御消息』がある。
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚)其の風にあたりて大海の苦をはなれ・東風きたれば西山の鳥鹿・其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん、況や・かのそとばに随喜をなし手をふれ眼に見まいらせ候人類をや、過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月の如く浄土をてらし・孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事・水すめば月うつり・つづみをうてばひびきのあるがごとしと・をぼしめし候へ等云云、此れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」(全集1334)
このように、塔婆に南無妙法蓮華経の七字を認(したた)める功徳が、いかに大きいかを、わかりやすく御指南あそばされているのである(今日、我々僧侶は、塔婆に妙法蓮華経の五字のみを書写したてまつるが、その意義は理法としての妙法ではなく、事の一念三千たる南無妙法蓮華経である)。
今回の創価学会の塔婆批判の文中に、
「宗祖の御指南の塔婆とは、墓標のことである。板塔婆はずっと後世のものである」
などとの強言があるが、当御書にいわれる塔婆が、墓標などではないことは、「十三回忌のそとば」「これより後々の御そとば」等の仰せに明らかである。また、当御書では、南無妙法蓮華経を認めた塔婆を眼に見るとき、随喜するところの信心が大切であると仰せである。塔婆を建立して回向するときは、その功徳に感謝の念をもたなければならない。創価学会のように、塔婆の功徳を疑い、僧侶に対する怒りの気持ちで供養を行なっても、果たして先祖に真実の功徳が回向されようか。甚だ疑問といわねばならない。
大聖人が、塔婆に必ず南無妙法蓮華経と認めるべきことを御指南された所以は、題目が認められることによって、その塔婆が仏身の当体と顕われるからである。つまり、亡くなった人も、その妙法の仏の命の中に摂尽されて、本因成仏の大功徳を享受することができるのである。
学会がいうところの、「板塔婆を死者の追善供養とすることが法華経に説かれている道理はまったくない」等という説は、法華経の文底の深義にのっとって、塔婆に南無妙法蓮華経と認めることにより、一切衆生が死の成仏の功徳を得ることを教えられた大聖人の大慈悲に背き、またさらに衆生の真実の成仏の道を塞ぐところの、無慈悲な言である。まさに、天魔の所業であるといわねばならない。
また、同記事において、「板塔婆は日本だけの風習にすぎない」としている。確かに、邪宗の塔婆が、世界に弘まっては困る。しかし、日蓮正宗の正法にのっとった南無妙法蓮華経の塔婆の化儀は、世界の人々の真実の成仏のため、正法広布に伴って、大いに世界に教え弘めなければならないのである。
3.塔婆に関する歴代上人の御教示
次に、総本山第9世日有上人は、塔婆について、『化儀抄』に、
「率都婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、さて彼の仏を立つる所にて又十如是自我偈を読むべし、是れ又事の一念三千の化儀を表するか」(富要1-66)
と仰せである。この文について、第66世日達上人は、次のように解説なされている。
「卒塔婆とは、塔婆のことで、地水火風空の五輪の塔を表わす。大塔中とは、総本山歴代墓地の中央の宗祖大聖人並びに二祖及び三祖の大墓碑を指す。彼の仏を立つる所とは、塔婆建立回向する、その墓をいう。亡者の追福作善のため、塔婆を建てて回向する時は、塔婆を一度、大聖人の墓碑の所へ立てて、方便品、自我偈、唱題して、一度回向してから、その追善すべき亡者の墓へ、その塔婆を建立して、方便品、自我偈、唱題して、追善供養するのであります。これが師弟相対した事の一念三千の化儀を表わしたことになるのであります」(日達上人述『略解』)
これらの御指南は、本宗において、大聖人以来、塔婆を建立して功徳を回向することが、死者の成仏・追善のための化儀とされたことを証明するものである。
また、同時に、本宗の塔婆供養とは、単に、題目を書写した塔婆を建立すればよいというものではない。あくまでも、本仏大聖人に対する師弟相対の信心にのっとった化儀であることを示されているのである。すなわち、塔婆供養に際して、大切なことは、一旦、全ての塔婆を、必ず大聖人の御墓の傍らに立てて供養し、その後に各自の墓に立てて供養するということである。
この化儀は、今日、塔婆を各寺院の御宝前の傍らに立てて回向することとして、厳然と伝えられている。これは、本仏大聖人を、どこまでも根本の大師匠と仰ぐ信心こそが、末法の衆生の成仏にとって不可欠だからである。すなわち、この化儀にのっとった塔婆回向によって、末法の亡き衆生は、御本仏大聖人と冥合し、唯一の大歓喜の成仏を享受することができるのである。
本宗の塔婆供養には、かかる厳格な意義が存することを知らなくてはならないのである。同時に、その塔婆供養の甚深の意義を誹謗することは、宗祖大聖人、及び御歴代上人の御指南に背く大謗法であり、忘恩の所業となることを忘れてはならないのである。
4.学会の塔婆に関する邪説とその破折
今回の学会の塔婆誹謗の記事を一読して判ることは、その根底に宗門に対する、激しい憎悪の念があることである。週刊誌なみの俗悪な記事内容からは、本宗の化儀に対する一分の尊崇の念も感じられない。まさに、信徒にあるまじき誹謗背反の姿であるといわなければならない。
今回の記事の発言者の中に、創価学会草創からの信徒で、常々、御法主上人への信順の大切さを説いてきた辻武寿氏が加わっている。氏は、『私の個人指導』という本を書いているが、その中で、
「父親が邪宗教をやった方であれば、ねんごろに塔婆供養をして回向することが最大の親孝行になるのです。」(同書35)
という指導をしている。ところが、その本人が、今回は、
「塔婆回向をしなければ成仏出来ないということでは決してない」(平成3年3月6日付『創価新報』)
と述べているのである。どうして、このように変わるのであろうか。ことは、先祖の成仏という重大問題であって、簡単に自らの都合で変えてよい問題ではないのである。
この塔婆の意義について、創価学会第2代会長戸田城聖氏は、
質問会において、「塔婆は形式にすぎないのではありませんか」
との質問に対し、
「形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不 二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。」(戸田城聖全集2-176)
と述べ、塔婆供養とは、深い法義に基づいた、仏法上の重要な儀式であると指導されている。
また、さらに池田名誉会長も、昭和59年2月28日、ブラジル一乗寺における物故者追善法要の際の挨拶の中で、塔婆供養の意義についてその功徳の大きいことを述べている。
これらの指導と、今回の塔婆供養軽視の誹謗とは、一体、どうしたら辻褄が合うのか。もっとも、無節操に変更して何の痛痒も感じないほど、学会の教学に対する態度はいい加減なものであったのかも知れない。
5.恥知らずな悪口雑言「これでいいのか!塔婆供養」
平成3年3月1日付の『聖教新聞』から、「これでいいのか!塔婆供養」というキャンペ-ンが開始された。宗門僧侶が、塔婆回向で金儲けをしているとの非難の記事である。この塔婆金儲け論は、3月6日付『創価新報』や、同10日付『聖教新聞』の「これでいいのか!塔婆供養」でも、繰り返し繰り返し、執拗に展開し、口汚く批判している。特別財務などで一般会員から多額の寄付を募っていると、下衆のかんぐりをして、死者の成仏の要儀である塔婆供養に対してまでも、金儲けの手段であると思ってしまうらしい。
塔婆を多く建立することの、どこが悪いのであろうか。年に一度も使わない名誉会長専用施設や、世間でもとかく噂のある絵画疑惑などのために、特別財務・広布基金なる名目で多額の金を吸い上げられるより、自らの先祖に、真実の仏法の功徳を、確実に回向される塔婆を建立するほうが、どれだけ尊いか。一般会員は、今や半僧半俗のような生活をしている本部職員等に騙されてはならない。『新池御書』の、
「無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり」
(全集1440)
との御文をよくよく拝するべきである。
また、3月9日付の『聖教新聞』の「これでいいのか!塔婆供養」では、塔婆供養の功徳を知らない学会員に、その功徳の大きいことを教えた僧侶を、「食法餓鬼」と、邪宗の僧侶呼ばわりをしている。三宝(ことに僧宝)破壊の謗法集団に堕した創価学会首脳幹部の言論におぞましさを感ずるのは、ひとり僧侶だけではなかろう。
6.会員に塔婆供養をさせないための稚拙な口実
次に、3月6日付の『創価新報』では、「環境保全のために塔婆は最小限が正しい」との、珍妙な大見出しを掲げている。
かかる言は、先祖回向のための塔婆供養の尊い意義を見失った暴論以外の何ものでもない。環境保全というが、植林事業と消費量を実際に比較調査した上で、このようなことをいっているのであろうか。もし、本当に資源枯渇の心配があるのなら、仏法上、重大な意義をもつ塔婆供養を存続させるために、叡知を廻らすべきである。
現在、南米の正宗寺院では、塔婆は上質のベニヤ板を用い、寸法も厚さ3~4ミリ、幅5センチ、高さ60センチ位に小型化し、省資源を図っていると聞いている。また、アメリカでは、法律上の規制のために、紙製の塔婆を開発し、やはり小型化しているそうである。
たしかに、今日、森林資源保護は、人類全体の重要な問題である。したがって、今後、本宗においては、省資源化した塔婆を導入することも考慮されてしかるべきかと思われる。しかし、日蓮正宗の信徒として、塔婆供養は先祖回向のための大事な化儀である、と弁える信心が大切なのであって、「最小限が正しい」などと断言するのは間違いである。未来永遠に塔婆回向の化儀を伝える、との大前提のもとに、解決の方途を考えるべきなのである。
次に、「塔婆建立の本数と信心の厚薄とは無関係」という塔婆の本数に関する発言について述べておく。塔婆供養が、大聖人の仏法の全てということではないから、確かに塔婆の本数にこだわる必要はない。しかし、塔婆の建立が信心の現われという観点からすれば、塔婆建立の本数の多い人は、やはり信心が厚いといえる。
大聖人は、『出家功徳御書』において、
「出家功徳経に云く『高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも一日出家の功徳は勝れたり』と」(全集1251)
と、『出家功徳経』を引用されている。この経の意は、もともと出家の功徳の甚大なることを証するところにある。しかし、ここでいいたいのは、この出家の功徳の比較対象として、「百千の塔婆」を挙げていることである。大聖人は、御書中で、1本の塔婆ですら、大変な功徳があると仰せである。しかし、ここには、「百千」という具体的な数が挙げられている。これは、「百千の塔婆」をもって無量の功徳に擬えていることであるから、塔婆建立の本数は、やはり信心に関係するといえるのである。
したがって、数年に1本しか塔婆を建立しない人よりも、毎年、あるいは毎月、塔婆を建立して、父母や先祖の追善供養をする人のほうが、信心は厚いのである。反対に、公然と「塔婆建立の本数と信心の厚薄とは無関係」といって、あたかも塔婆供養は不要であるようなことを主張する学会大幹部が、数年に1本しか塔婆を建立しない人よりも、格段に信心がたりないことは、いうまでもないことである。
さらに、「常盆常彼岸が追善供養の根本」との記事についてであるが、毎日の勤行が、本宗信徒としての根本の修行であることは当然である。その上に、三宝に供養を申し上げ、功徳を回向することが、正しい先祖供養の道である。このことは、先に挙げた大聖人の御指南からも明白である。また、盂蘭盆会における聖僧供養の意義からも明らかなように、「仏宝・法宝は僧によって住する」のである。末法万年にわたって、法を伝えるところの僧侶に、回向を願って供養することは、そのまま僧団維持・令法久住に貢献し、ひいては末法万年の衆生を潤すこととなって、先祖供養の功徳を、一層増進するのである。
7.「彼岸会は本来仏教と無関係」という大ウソ
さらに3月20日付、彼岸中日の『聖教新聞』では、某日本仏教学会会員に聞くとして、「彼岸会は本来仏教と無関係」なる教学解説を掲げ、宗祖大聖人の御書中に「塔婆」に関する御指南があることについては、
「それは恐らく墓標であり、現在のような塔婆は室町期乃至江戸時代以降のもの」
としている。しかし、同日の社説では、
「塔婆供養の風習は、平安時代から始まったもので、大聖人の御書中にも僅かに言及されているが、随方毘尼の例として拝すべきである」
と、同一新聞内で、主張に相違を来しているのである。
それはともあれ、本宗の年中行事として、現に行なわれている彼岸会について、なぜ信徒でもない(?)単なる仏教学者の否定的見解を、信徒団体の機関紙が掲載しなくてはならないのか。彼岸会それ自体に、たとえ随方毘尼の意味があったとしても、先祖回向の大切な儀式として行なわれている行事に対し、「仏教と無関係」「錯覚が定着」などと断定することは、思い上がりも甚だしいといえよう。
大聖人の御本尊の中には、「弘安三年二月彼岸第六番(彼岸が7日ある中の第6日目のこと)」という日付の御本尊が現存している。また、日興上人の御本尊の中にも、日付に「彼岸」の語が認められた御本尊が5幅、彼岸の中日を意味する「時正」の語が認められた御本尊が1幅現存し、日目上人の御本尊の中にも、「正慶二年二月彼岸」の日付のある御本尊が現存している。
さらにいえば、日興上人の『曾禰殿御返事』に、
「彼岸御仏料、員数の如く見参候い了ぬ。富士郡の珍物に候上は申し尽し難く候」(歴全1-149)
とあるように、日興上人の当時、本宗において、彼岸の追善回向を行なっていたことは明らかである。あまつさえ、唯我与我の日興上人が、大聖人の、「我等衆生死する時塔婆を立て、開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(全集1339)
と仰せの甚深の意義を体さないはずはなかろう。
それを、「随方毘尼の例として拝すべき」などと勝手に断定して述べるのは、仏法上の化儀の指導を受けるべき本宗信徒として、大なる越権の謗法行為である。
また、昭和53年のいわゆる「お詫び登山」において、「今後一切の活動において宗門の指導を受ける」とした約束に違うものであることはいうまでもない。
8.『日蓮正宗の行事』の正義は明白
さらに、一連の塔婆誹謗記事の締めくくりとして、4月15日付の『聖教新聞』には、「これでいいのか!塔婆供養(5)=完」として、御丁寧に宗門より発行した『日蓮正宗の行事』を取り上げ、その塔婆供養の記事に対して、「間違っている」と断定している。これは、学会の正式な機関紙において、本宗の正式な布教叢書の内容を取り上げ、誤りと断定したものであるから、ことは重大といわねばならない。
学会が、『日蓮正宗の行事』の誤りと指摘する箇所は、「もし先祖や親戚・知人で亡くなった人の中に死後の世界で苦しんでいる人があれば、生きている遺族の側にも其の苦しみや悩みが影響してきます。」(同書90)
との箇所と、次の、
「塔婆供養をすると(中略)未来のできごとを予知できて、事前に悩みや苦しみが除ける、常に仏様のお慈悲をうけることが出来る。」(同書93)
との二箇所である。そして、不遜にも、一番の元である宗務院の指導が誤りであるから、宗門の寺院が間違うなどと放言しているのである。
まず、死者の苦しみが遺族に影響するということに対して、
「霊魂説に基づく『たたり信仰』であり、仏教の教義ではない」
とする学会のいい分は、はたして正しいのであろうか。
これについて、大聖人は、『盂蘭盆御書』に、
「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり」(全集1430)
と仰せである。7代目の子孫からすれば、先祖の悪業の苦の影響を受けることになるのである。
また、『忘持経事』には、
「我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり、譬えば種子と菓子と身と影との如し」(全集977)
と仰せであり、同様のことは目連尊者と青提女についても諸御書に仰せである。
学会では、死者の苦しみが生者に影響するというのは、仏教の教義ではないとするが、そのような低級な考え方は、今時のインド仏教学の先生あたりの説をありがたがっている、権威好きな学会のいいそうなことである。
法華経で説く一切衆生の生命の永遠ということが、霊魂として浮遊し、祟りをなすという意でないのは、当然である。存続するのは、あくまでも業をうける因果の当体としての生命の一念である。この一念とは、いわゆる霊魂のような個別の存在とは異なる。つまり、死後に無に帰するのではなく、厳然と因果の苦楽の業を受けていくところの、いわば生命の主体といわなければならない。
大聖人は、常に生者の成仏が、父母等有縁の人々の成仏に通ずることを御指南あそばされているが、先に挙げた『盂蘭盆御書』に説かれるところは、逆に悪業の因縁も、有縁の人には影響があるというもので、法界一念三千の不思議な実相を説かれたものといえよう。今時の学者の理解をはるかに越えた、法界の生命の不可思議を説かれた、御本仏の御指南と拝すべきなのである。また『撰時抄』には、
「法然・流罪をあだみて悪霊となって我並びに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入って或は謀反ををこし或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ」(全集274)
との文がある。この「悪霊」の句も、いわゆる霊魂として述べられたものでないことは当然であって、謗法者の悪業の因縁が影響し合うことを仰せられたものと拝されるのである。
ともあれ、仏法に説き明かされる生命の実相とは、まことに不可思議なのである。生死を超越した一念三千の融通無碍の世界が、この法界であり、因縁によって、有縁の人の善業・悪業の影響を、ともに強くも、あるいは弱くも受けるのである。このことは、むしろ当然といえる。
この生命の実相を、あえて否定する学者の説は、小乗の空理にとらわれた迷見といわねばならない。
次に、塔婆供養をすると、未来のできごとを予知でき、事前に悩みや苦しみが除けるとの件について述べることとする。
「未来を予知でき、悩みが除ける」というと、まるで新興宗教のキャッチフレ-ズのように聞こえるが、これとても、決して仏法法義から、かけ離れたことではない。すなわち、『聖人知三世事』ほか諸御書に、仏の徳として未萠を知ることが説かれているところである。我々が信仰に励む上で、御仏智を頂き、後から考えると、まるで未来が判っていたかのような行動を、自然のうちにとっていて、護られたというような体験は、よく聞くところである。これこそ信心の功徳であり、本因妙の仏として未萠を知ることの一分であろう。
塔婆を建立する功徳として、未来の予知等の種々の功徳が述べられているが、これは経文の中から、一応その功徳を挙げたものである。それも、全て御本尊を根本とした信心の功徳と受け止めていくべきことなのである。故に、『日蓮正宗の行事』では、塔婆の功徳を説明する最後において、その一切を御本尊への信心に括って、説明を終了しているのである。
このような配慮を無視して、単に経文に説かれるところを挙げた箇所のみを取り上げ、誹謗するとは、その底意たるや、まさに憐れむべしである。
おわりに
以上、塔婆供養に関する学会の誹謗について、あらあら破折した次第である。塔婆を建立する功徳の甚大なことは、ほぼお判り戴けたであろう。
御法主上人を誹謗し、大聖人以来の、本宗伝統の塔婆供養の化儀を誹謗し、中傷し、盆・彼岸にも塔婆を建立しない創価学会員の先祖の苦しみは、察するに余りあるものがある。一刻も早く、反省懺悔されんことを祈るものである。
以 上
