正林寺御住職指導(R5.8月 第235号)
7月中の唱題行も満願を迎え、盂蘭盆会の時期になりました。日蓮正宗での盂蘭盆会の化儀として、御塔婆を建立いたします。また、当宗では朝夕の勤行はじめ法要等では法華経の方便・寿量品を読経申し上げます。法華経には、見宝塔品第十一が説かれ、天台大師は『法華文句』に、
「見宝塔品を釈す。
梵に塔婆と言う」(学林版文句会本下 1)
と釈されております。当宗での塔婆(宝塔)建立の意義には、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理(ごくり)を師伝して若し間(いとま)有らば台家を聞くべき事」(御書1884)
の、「台家を聞くべき事」(御書1884)との教えに基づき天台大師の釈された見宝塔品の「塔婆」との意味から他宗派と異なる塔婆(宝塔)建立があります。見宝塔品は余品であるため、宗祖日蓮大聖人の『月水御書』に御指南である、
「寿量品・方便品を読み候へば、自然(じねん)に余品はよみ候はねども備はり候なり」(御書303)
との意味からも塔婆(宝塔)建立は正しい化儀です。塔婆を立てることにより、御先祖や有縁無縁の精霊に宝塔を施す尊い意味も存します。
さらに塔婆には、
「そとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふ(触)れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてら(照)し、孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん(中略)此より後々の御そとば(卒塔婆)にも法華経の題目を顕はし給へ」(御書1434)
と、大聖人は塔婆供養の功徳について仰せであります。
さて「宝塔」とは、一般に宝で飾られた塔のことを指します。また、寺院の塔や仏塔の建築形式の1つであり、敬称としても使用されます。さらに、多宝如来を安置する塔としても用いられる仏教用語です。
『法華経』においては、「以仏舎利。起七宝塔(仏舎利を以て、七宝の塔を起つる)」(法華経61)や、「雨天曼陀羅華。供養宝塔(天の曼陀羅華を雨らして、宝塔に供養し)」(法華経336)などと説かれています。
大聖人は、
「法華は宝塔なり」(御書39)
と仰せであります。これは法華の塔ができたあとには爾前諸経の足代は不要となる意味があります。権実相対から念仏等は足代であり、法華経を説くまでの方便であります。
末法時代にあるべき宝塔は『報恩抄』に、
「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)宝塔の内の釈迦・多宝、外(そのほか)の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし」(御書1036)
との御指南に集約されていきます。それは三大秘法の御本尊のことであり、その究極が本門戒壇の大御本尊であります。つまり、当宗での塔婆建立には他宗と明らかに異なる根本的な意義があり、塔婆建立により故人の生命は、本門戒壇の大御本尊の御魂魄に帰入されます。ゆえに『御義口伝』には、
「礼拝の住処とは多宝塔中の礼拝なり。其の故は塔婆とは五大の所成なり。五大とは地水火風空なり」(御書1780)
と、また、
「妙法の宝塔なれば我等の身体は清浄の宝塔なり。妙法蓮華の涌現なれば十界の出胎の産門、本来清浄の宝塔なり。法界の塔婆にして十法界即ち塔婆なり」(御書1809)
との御指南に通じてまいります。まさに当宗での塔婆建立の意義が説かれた御書と拝します。塔婆を建立することにより、我が身の五大は清浄な宝塔へと変わってまいります。塔婆供養が営利目的であるかのような印象をお持ちの方もおられます。この機会に、当宗の崇高な塔婆供養の意義を自行化他にわたりご理解いただければ幸いであります。
先の「礼拝の住処」について、御法主日如上人猊下の御指南、
「ひたすら礼拝行を続けた不軽菩薩は、その功徳によって、命終わらんとする時に至って、威音王仏の説かれた法華経を虚空のうちに聞いて、ことごとく受持して六根清浄を得終わって、さらに寿命を延ばすこと二百万億那由他歳、その間、広く人々のために法華経を説いたのであります。」(大日蓮 第930号 R5.8)
との、六根清浄の功徳へと通じてまいります。そして、末法万年尽未来際への仏国土実現につながります。
さらに大聖人は「宝塔」について『御義口伝』に、
「宝塔の事(中略)宝とは五陰なり、塔とは和合なり、五陰和合するを以て宝塔と云ふなり。此の五陰和合とは妙法の五字なりと見る、是を見とは云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は見宝塔なり」(御書1752)
と、また『阿仏房御書』に、
「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。(中略)聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり」(御書792)
と仰せであります。御法主日如上人猊下の御指南である不軽菩薩の振る舞い(礼拝行)には、さらなる果報として七宝を信行により身に付けていくことが叶います。常の「講中一結・異体同心」とのお言葉には、三力成就の信行が秘められた御指南であります。
大聖人は同抄に、
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」(御書793)
と、一往再往の総別の二義から拝信申し上げる大変重要な御指南であります。特に、再往の別義には、唯授一人血脈相承により時の御法主上人へ対し奉る「末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり」(御書1854)との「出世の本懐」の宝塔の意義が存します。まさに「秘すべし秘すべし」(御書669・1596)であります。
大聖人の「父母の恩(中略)いづれもわけがたし」(御書1251)理由について、『御義口伝』に、
「此の宝塔は宝浄世界より涌現するなり。其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且(しばら)く之を置く。証道観心の時は母の胎内是(これ)なり。故に父母は宝塔造作の番匠なり。宝塔とは我等が五輪・五大なり。故に託胎(たくたい)の処を宝浄世界と云ふ。故に出胎する処をば涌現と云ふなり。凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり。故に従地涌出(じゅうじゆじゅつ)と云ふなり。妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是(これ)宝浄世界なり。蓮華の宝浄世界なれば十界の胎内悉く無染清浄の世界なり。妙法の地輪なれば十界に亘るなり。蓮華の地なれば清浄の地なり。妙法の宝塔なれば我等の身体は清浄の宝塔なり。妙法蓮華の涌現なれば十界の出胎の産門、本来清浄の宝塔なり。法界の塔婆にして十法界即ち塔婆なり。妙法の二仏なれば十界三千皆(みな)境智の二仏なり。妙法の所座なれば十界三千の心性皆(みな)以て二尊の所座なり。蓮華の二仏の所座なれば不思議なり、清浄なり。妙法蓮華の見なれば十界の衆生三千の群類皆(みな)自身の塔婆を見るなり。十界不同なれ共、己が身を見るは三千具足の塔を見るなり。己が心を見るは三千具足の仏を見るなり。分身とは父母より相続する分身の意なり。迷ふ時は流転の分身なり、悟る時は果中の分身なり。さてこそ分身の起こる処を習ふには地獄と習ふなり。かゝる宝塔も妙法五字より外は之(これ)無きなり。妙法蓮華経を見れば宝塔なり。宝塔即一切衆生なり。一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云。」(御書1808)
と仰せであります。まさに御法主日如上人猊下は、
「大聖人様が『法蓮抄』に、
『然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり』(御書815)
と仰せになっておりますように、衆生が三世にわたって三界六道の生死を絶え間なく繰り返す生命流転の相から見るならば、一切衆生は、まさに父母であることになるのであります。(中略)大聖人様は、衆生が三世にわたって三界六道の生死を絶え間なく繰り返す、その生命流転の相からすれば、そのルーツ・因縁をたどっていくと、あなたとあなたは親戚かも知れないということになるので、一見、関係ないようであっても、まさに一切衆生が父母なのであるとおっしゃっているのです。」(御指南集28 P6)
との御指南につながり、当宗での塔婆建立の意義が存すると拝します。
大聖人の『四条金吾殿御返事』に仰せである、
「水あれば魚すむ、林あれば鳥来る、蓬莱山(ほうらいさん)には玉多く、摩黎山(まりせん)には栴檀(せんだん)生ず。麗水(れいすい)の山には金あり。今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚(くどくじゅ)の砌なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし。」(御書1502)
との御書には、再往元意の辺から功徳聚ともなる「法華は宝塔なり」との意義が秘められた御指南であると拝します。そのためにも、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念総登山には、究極の法華の宝塔である本門戒壇の大御本尊在す総本山へ御登山させていただくことです。
最後に、正林寺には、境内にそびえ立つ納骨堂があります。納骨堂は「法華は宝塔なり」との意味があり、「宝の塔」であります。正林寺の納骨堂に臨終後、安置されることで宝塔に入ります。
大聖人は『日女御前御返事』に、
「御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何にも後生をたしな(嗜)み給ふべし、たしなみ給ふべし」(御書1388)
と仰せであります。納骨堂に安置されている精霊は三大秘法の御本尊に命が帰り(帰入)、未来世は確実に後生善処は保証され、幸せな環境へ生まれ変わっていきます。
まさに、大聖人は『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経と唱へ奉る程の者は宝塔に入るなり」(御書1728)
と仰せであります。
正林寺の納骨堂に安置されている有縁の方に関わらず、宝塔の意義を存する塔婆を建立して精霊に追善供養を行いましょう。当宗では常盆・常彼岸といわれております。盂蘭盆会にかかわらず、一年365日にわたり追善供養申し上げることが大切であります。さらに「始めより終はりまで弥信心をいたすべし」(御書1457)との御教えからも一生涯に続けていくことが肝要であります。
宗祖日蓮大聖人『四条金吾殿御返事』に曰く、
「水あれば魚すむ、林あれば鳥来る、蓬莱山(ほうらいさん)には玉多く、摩黎山(まりせん)には栴檀(せんだん)生ず。麗水(れいすい)の山には金あり。今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚(くどくじゅ)の砌なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし。」(御書1502)

