日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第67世日顕上人猊下御指南④

平成十七年十二月度 広布唱題会の砌  

(大白法 平成17年12月16日号 第683号 転載)

 唱題行の功徳については、大聖人様があの四百余篇の御書のなかのほとんどにおいてお示しあそばされております。仏法の深い意義の上から、さらにまた一切衆生の様々な境界における悩み、苦しみを開いていくところの根本の道、また唯一の道として南無妙法蓮華経の唱題行を、大聖人様が御一生をかけて我々に与えてくださったのであります。 (中 略) したがって、我々凡夫がどのような立場にあろうとも、いかなる苦悩があろうとも、その苦悩を開いて幸せになっていけるというところの道を大聖人様がきちんとお開きあそばされたということを、我々ははっきり拝すべきであります。

 お互いに信心をしておりますけれども、そのなかでどうしても自分に対する甘えというものがあります。しかし、この甘えは人間を不幸にする元であると思うのであります。仏法で言うならば「我執」ということで、いわゆる自分に対する執着であり、我に対する不当な執着が一人ひとりに存するのであります。 (中 略)

 また、我々迷いの凡夫は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六道のなかで生活し、その生活のなかに様々な曲がった心がありますが、そのようなことに執われておることもすべて我執によるのであります。

 その六波羅蜜を行ずる菩薩であっても、また一分の我執、すなわち自分に対する甘えが残っております。それを一切、振りきって真の妙法のところに到達すれば、我々凡夫がそのまま即身成仏の大きな功徳を得ることができるという意味を、御書においても常に示される次第であります。 それはすなわち、 「一心欲見仏 不自惜身命」(法華経四三九頁)の境界であります。「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」という次第であります。 (中 略)

 ただいまは、平成二十一年の「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向かって精進を続けておるのでありますが、私はこの二十七年の年をもちまして、宗門の人心の一新を図ることが最も大切であるということから、本年をもって引退する決意をいたしました。十二月中にそのことを行うつもりであります。

 皆様には長い間、本当にお世話になりました。特に、総講頭以下、役員の方々にはあらゆる面から、また各寺院の法華講支部の講頭以下の方々にも大変お世話になってまいりました。 しかし、私の志はあくまで宗門の護持興隆のために、臨終の夕べに至るまで常に忘れずに、自分のできることを御奉公してまいりたいと思っております。 私が決めたあとの方は、実に長い間、宗門の行政に勤められ、さらにまた信行学にわたって抜群の、立派な方であります。私に勝るとも劣らない人材、人物であるということを確信しておるのであります。 その方があとをお取りになりますから、皆様方は新しくなられる管長・法主の方の指導を根本として、これからさらに真の僧俗和合に基づいて御精進されることを心からお祈りする次第であります。

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平成十七年十一月度 広布唱題会の砌

(大日蓮 平成17年12月号 第718号 転載)

  我々一人ひとりの心には病があります。心の病、これは謗法の病であり、そこから生ずるところの様々な悩み、苦しみはことごとく自分の心のなかの我意、我見、邪見等によって起こってきておるのであります。したがってその心の病を良薬によって治療する、治していくということが最も大切であります。

 また、身体の病についても、多くの人々が様々な病を抱えております。ここにおいでになる皆様方も、一人ひとりにおいてなんらかの身体の不調、例えば腰が痛いとか、そのほか様々な病気を抱えておる方もあると思います。これも過去からの因縁によるのであります。ある人はどこそこ、ある人はどこが悪いと、五臓六腑、様々ななかにおいての病気もたくさんありますが、これは過去からの因縁によってそのような病が今日、我々の身体をむしばんでおるのであります。

 しかし、この南無妙法蓮華経の御本尊様の、三大秘法の唱題の功徳はこの心と身体、心身を治すということをはっきりと仰せになっておるのであります。 今日、「呼吸法」などというものが健康法の一つとして言われておるようであります。例えば「何回、吸ったり吐いたりする」「下腹部の丹田に力を込める」など、色々なことが言われております。しかし、私はそのようなことは必要ないと思います。南無妙法蓮華経の教えは「無作」ということで「作ること無し」と書きます。 ただいまは、信心の一念をもって御本尊様に向かい奉り、息を一杯に吸い込んで一時間の唱題をいたしました。皆様方もこの唱題行のなかで、自分の心と身体が素直な姿に、また完全な喜びと健康な姿になっていくことを、本当に心から感じた方が多いと思います。いかがでしょう。あまり感じなかったというのでしたら、それはまだ本当の信心が足りないと思います。信の一念をもって行うところ、必ずその功徳が成就していかれるのであります。

 過去遠々劫以来の我々の謗法罪障は、今日の我々一人ひとりの命に具わっております。これを浄化していくためにも「是好良薬」を正しく拝し、受けて、これを行っていくこと、すなわち唱題行が大切であります。

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平成十七年九月二十七日インドネシア妙願寺入仏法要の砌

(大日蓮 平成17年11月号 第717号 転載)

 世界中のあらゆる人々は必ず何かの願いを持って生活をしております。しかし、そのなかで道に迷う人がまことに多いのであります。これは一人ひとりが種々の不完全な教えによって小さな願望に執われ、法界全体に開いている大きな道を知らないからであります。その大きな道とは、仏法で示す「誓願」の生き方であります。これには四つございます。

 第一は、自分が幸せになるとともに、人々をも幸せにすることを誓い願うことです。

 第二は、自己の不幸になる迷いの要素を、根本的に消滅する道を求め努力することです。

 第三には、そのために正しい教え、すなわち仏教の内容を学ぶことを願うことです。

 第四は、この世の中で最高の勝れた大人格である仏の悟りに到達するよう願うことです。

 しかし、この四つは全仏教の内容を含む大きな命題であり、人々は一生かかってもこの一つをも仕遂げることはできません。個人の思想や様々の宗教哲学、そして仏教のなかでも方便の教えでは、やはりこのすべてを仕遂げることは不可能なのであります。

 しかし、真実の法華経の教えのさらに根本精髄である、本仏日蓮大聖人様の弘められた南無妙法蓮華経にはこのすべての徳が具わる故に、妙法を受持するとき、いかなる人もこの大事を遂行しつつ、三世にわたる妙徳を積むことができると信じます。

 ただし大切なことは、右に挙げた四つのうちの初めの一つ、すなわち自分とともに他を幸せにするために妙法を弘めることであり、これこそ他の三つの徳が自然に具わるのであります。大聖人様のお言葉に、

「所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外には所詮無きなり。速成就仏身是なり」(御書一八六二頁)

 と仰せの如くであります。また『持妙法華問答抄』には、

「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(御書三〇〇頁)

 とも仰せであります。

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平成十七年九月度 広布唱題会の砌

(大日蓮 平成17年10月号 第716号 転載)

  大聖人様は『開目抄』に、

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ」(御書五六三頁)

と、法華経の行者の不惜身命の姿にこそ、あらゆる迫害を打ち破り、難敵を打ち払うところの厳然たる大功徳があって、その大功徳について、すなわちその威厳、威光について「みん人、いかにおぢぬらむ」と仰せあそばされたのであります。

 しかれば「魂魄佐土の国にいた」るという、その魂とは何かと申しますと、これは聞かれた方も多いと思いますが、久遠元初の御本仏としての御魂であります。この魂をはっきりと実証あそばされて、『立正安国論』以来の正法正義をもって一切衆生を救わんとするそのお振る舞いに、また御化導に対して三類の強敵が現れ、ついには大聖人様のお頸を刎ねんとする姿が現れました。けれども、結局、それを果たすことができなかったのであります。

 ただし大聖人様はその時に、既に凡夫の日蓮の頸は刎ねられたと仰せであります。ここに深い意義があるのです。刎ねられつつも、なおかつその御魂魄が佐渡の国においでになったという意味は、すなわち日蓮の凡身の迹が発われて、久遠の仏様の御当体として顕れあそばされたということであります。

 この大聖人様の大仏法は三大秘法として開かれ、そして日興上人に正しく受け継がれ、日興上人からさらに日目上人、日道上人と一器の水を一器に移すが如く、今日まで総本山に伝えられております。

 したがって、皆様方が一年に一度、法華講の支部総登山として総本山に参詣されるということは非常に大切なことなのであります。皆様一人ひとりが講中の発展とともに自らの罪障を浄化して本当の成仏の境界を打ち立て、妙法の功徳を顕すところの、一年の多くの修行のなかの根本の修行が、この支部総登山であるということをよくお考えいただきたいのであります。

 そして、もし皆様方の支部のなかで色々な意味でここに参加していない方があったならば、来年からは是非、皆さんが誘い合わせて一人も漏れなく支部総登山に参加していかれることが大事であります。私は、そのような意味で支部総登山が隆盛を極めていくところに、おのずから仏法の広宣流布の正しい道が開かれてくるということを信ずるものであります。

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平成十七年八月度 広布唱題会の砌

(大日蓮 平成17年9月号 第715号 転載)

  我々の命にも生住異滅という変化があります。これはどのような聖人でも逃れることのできない法界の姿でありまして、我々にも生住異滅、そして最後には生老病死という形において変化し、死んでいくのであります。 しかし、冬の次には春が来るように、四季は循環して限りがなく、我々の生命もこの宇宙法界とともに存在し、そこに変化しつつ常住であるということが本門寿量品の教えの上から拝せられるのであります。

 したがって、色々な変化があり、その変化において様々なことが起こってきます。我々一人ひとりの生活のなかにおいてもありとあらゆる変化があります。そのなかでうっかりしておると、その変化の筋道が解らずに結局はそこから色々な誤った形や姿、不幸が現れてくることがあります。それによってまた地獄に堕ちて行くような大きな変化もあるのであります。

 しかし、その変化のところに即して真の常住の姿もまた、存するのであります。その一如の形においてその意義をはっきり顕されたのが妙法蓮華経でありますから、妙法蓮華経を信心していくところに、我々の命のなかにおのずとその道理がはっきりと体されてくるという姿も存すると思います。(中略) したがって、本門下種三宝の正しい仏法を正しく拝し、修行していくところに、真の功徳を成就していく所以が存すると確信いたします。

 唱題行はそのまま我々の凡心が、すなわち迷いの心、迷いの命がそのまま即仏心として顕れるところにあるという、大聖人様乃至御歴代の御指南があります。

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 平成十七年七月度 広布唱題会の砌

(大日蓮 平成17年8月号 第714号 転載)

  我々は機会あるごとに色々な所で唱題行を執り行っておりますが、ここにこそ我々一人ひとりの成仏とともに、未来永劫に向かって正法を正しく広宣流布していく源が存すると思うのであります。

 「縦使、発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し(中 略)若し正境に非ずんば、縦妄偽無けれども亦種と成らず」(学林版止観会本上一七五頁)

という妙楽大師の文があります。このことは当然のことで、御承知の方も多いと思います。初めに信心に入る時には、仏法の上の正しい道心に基づいて入信するという方はあまりないかもしれません。たいていが病気の苦しみや家庭の苦しみ、そのほかなんらかの苦しみを解決するために、正法の話を聞いて入信する方が多いと思います。しかし、どのようなところからでも入信をした時に正境、すなわち正しい御本尊に向かって信心をすれば、そこに必ず功徳があるということであります。そのかわり、もし正境に縁しなかったならば、いかに正しい心をもって宗教に入っても、それはけっして種と成らない、すなわち成仏の種というものを成ずることができないと言われるのであります。

 このような意味からも正しい仏法を信ずる、いわゆる正境を信ずるということがいかに大切であるということを、我々は深く考える必要があると思います。

 身延派等の日蓮宗、あるいは『ニセ本尊』をばらまいている創価学会、その他ありとあらゆる色々な宗教がありますが、その対境とするところの本尊はなんらかの意味において欠けておるのであります。すなわち大聖人様の御魂魄の入っていない身延派等における本尊は、すべて彼らの誤った形として表れておるのであります。