日蓮正宗の信心は我の心に生まれる貪瞋癡の三毒により、御本尊様への「渇仰恋慕」の気持ちが薄れることがあります。そこに退転の要因が隠れています。更に薄れるとは、何を意味しているかといいますと、成仏の因を積み難くしていることになります。この点を毎日の勤行唱題で自分自身の気持ちを、大聖人の御指南に随従し、身口意の三業を律していくことが大事です。「渇仰恋慕」の気持ちが有るか無いかで、天地雲泥の差が信心の内容に厳然と存在し、その人の相となって現れます。
「渇仰恋慕」の意味について、「渇仰」とは、人の徳を仰ぎ慕うことを、のどの渇いた者が水を求めるのにたとえた言葉です。「恋慕」とは、恋い慕うことで、恋しく思って追い従おうとすることです。「渇仰恋慕」は日蓮正宗の信心に大切な気持ちです。好きな人を恋い焦がれ、恋人や愛する人を思う気持ちよりも、三大秘法の御本尊様には恋い慕う気持ちが大事です。
日蓮大聖人は「渇仰」について『聖愚問答抄』に、
「誠に生死を恐れ涅槃を欣(ねが)ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅(せんめつ)無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」(御書406)
と仰せのように、御本尊様を信じる上で渇仰が大切であることを御教示です。「渇仰」の気持ちを持つことで、私達の心の悩みや生死の迷いから離れることが出来、御題目を唱えることにより、滅することが出来ないと思い込んでいた謗法の罪障が消え、幸いが訪れるのであります。私達の信力と行力には「渇仰」が必要です。
「恋慕」の「恋」について『妙一女御返事』に、
「日蓮計り此の事を知るや。答へて云はく『天親・竜樹内鑑冷然(ないがんれいねん)』等云云。天台大師云はく『後の五百歳遠く妙道に沾(うるお)はん』。伝教大師云はく『正像稍(やや)過ぎ己(お)はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり。何を以てか知ることを得ん。安楽行品に云はく末世法滅時』云云。此等の論師人師、末法闘諍堅固(とうじょうけんご)の時、地涌出現し給ひて本門の肝心たる南無妙法蓮華経の弘まらせ給ふべき時を知りて、恋させ給ひて是くの如き釈を設(もう)けさせ給ひぬ」(御書1500)
と仰せのように、正法像法時代の正師が、末法に顕わされる法華一乗への恋い焦がれた気持ちを、私達も常に信心で持続させる意識が大切です。
「恋慕」の「慕」について、章安大師の十種の恩を引用され『御義口伝』に、
「第六には恥小慕大(ちしょうぼだい)の恩」(御書1740)
と仰せのように、「耻小」とは、小乗経や権大乗経を恥じ、「慕大」は大乗経である法華一乗、三大秘法の御本尊様を慕い、三宝の恩が大事であることを御指南です。更に『種々御振舞御書』に、
「法華経を行ずるには強盛にさ(障)うべし。法華経ををしへの如く時機(じき)に当たって行ずるには殊(こと)に難あるべし。故に弘決(ぐけつ)の八に云はく『若し衆生生死を出でず仏乗を慕はずと知れば、魔是(こ)の人に於て猶(なお)親(おや)の想(おもい)を生(な)す』等云云。」(御書1063)
と仰せの如く、「仏乗を慕う」気持ちを失えば、第六天の魔王が、親の慈悲に似せた慈悲魔を装い、生死の迷い多き三界六道の世界へと誘うのです。
以上、日蓮正宗の信心には「渇仰恋慕」の気持ちが、如何に重要であるかが理解できます。勤行唱題や折伏には「渇仰恋慕」の思いを抱き、総本山への登山の折も、本門戒壇の大御本尊様や御法主上人に「渇仰恋慕」の思いを抱く信心が大切です。その気持ちが確実に成仏に向かわせます。
