正林寺御住職指導(R7.10月 第261号)
十月は一年に一度の一番大切な寺院行事として、宗祖日蓮大聖人の御入滅をお祝い申し上げる御会式が奉修されます。
御会式では、『立正安国論』が捧読され、世の中を幸せにするための仏法の道理、「正を立てて国を安んずる」御書を聴聞して身心に浸透させて清めていきます。つまり「心肝に染め」(御書1884)る、大切な聴聞の機会であります。
日蓮大聖人は「一処に聚集して御聴聞有るべき」(御書1169)ことを『立正安国論』に、
「汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る」(御書248)
と仰せであります。蘭室の友が集う日蓮正宗の寺院に参詣して聴聞することで身心は清められ、絶対的な幸福を功徳として御本尊から賜ります。
御書の『立正安国論』は、他宗の日蓮宗や破門された創価学会・冨士大石寺顕正会等でも御書を拝読するために、「蘭室の友」でも日蓮正宗の僧俗である法華講は富士の立義から「富山の蘭室」と違いを明確にいたします。富士の立義を重んじる総本山大石寺を「富山」と拝します。
総本山第二十六世日寛上人は『末法相応抄』に、
「富山(ふさん)の蘭室」(六巻抄143)
と明確に御教示であり、異体同心・講中一結するための大事な、富山の蘭室の友に交わる信行です。富山の「富」は富士の立義である富士の「富」、富山の「山」は総本山大石寺の総本山の「山」と拝信申し上げます。
日寛上人の『末法相応抄』は、富山の蘭室の友に相応しい信行を実践させていただくために、日寛上人は一部読誦不許(六巻抄118)と仏像造立不許(六巻抄136)を富山の蘭室の友に交わる大切な条件として御指南あそばされております。まさに末法に相応しい修行として、読誦すべき経典と尊崇し奉る本尊を混同しないように禁止すべきことを『末法相応抄』では仰せられています。
その友に交わるための信行には大切な心得があります。日寛上人は『三宝抄』に、
「富山は是れ戒壇の霊場なる故なり(中略)『霊山に似たらん最勝の地』とは即ち富山なり」(日寛上人御述作集650)
と仰せであり、日蓮大聖人の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊まします総本山大石寺は、最勝の地「富山」であります。富山にまします本門戒壇の大御本尊は「広布の根源」(御書文段290)になり、「疑惑を生ずることなかれ」(富要5-356)であります。
さらに富山の立義として日寛上人は『報福原式治状』に、
「本山の如く相勤むべし(中略)五座三座の格式相守るべし」(日寛上人御述作集739)
と、朝夕の勤行では五座三座の格式を守るよう御指南であります。それがまさに、富山の蘭室の友に交わる信行であります。その信行には、身の財より心の財を大切にするよう『松任治兵衛殿御報』に、
「かならずかならず身のまずしきをなげくべからず。唯信心のまずしき事をなげくべきにて候」(御述作集728)
とお示しであります。
さらに、不退転の境界を築くため身口意の三業に染めるべき、大事な富山の蘭室に交わるための富士の立義があります。それはまさに「妙法蓮華経の徳(中略)即身成仏」(御書1492)を賜るための信行になります。
その信行のために、「血脈の次第 日蓮日興」(御書1675)との師資相承「無令(むりょう)断絶」(御書1854)の血脈相承を拝信申し上げます。それは「日興一人本師の正義」(聖典改訂版698)を存じていらした唯授一人の血脈相承、特に時の御法主上人猊下の御内証を拝し奉る信心が富山の蘭室の友に交わる信行の基本であります。
その果報として御本尊に南無妙法蓮華経を唱えるところ「即身成仏の人」(御書1492)となることができます。この教えを広宣流布のために折伏をさせていただきます。折伏を実践する際には、「自分は悩みを抱えている」「難しい教義を知らない」等の心配を感じることはありません。必要なことは、「必ず幸せになれます」と御本尊への絶対の確信、相手の幸せを願える慈悲心、そして行動する力が大切です。この条件が揃ったとき、自然と「自行若し満つれば必ず化他あり」(御書文段219)へとつながります。そして一人でも多くの方が寺院に歩みを運び、法を聴聞するように下種折伏育成を心がけましょう。
歩みを運び聴聞する功徳について、日寛上人は『寿量演説抄上』に、
「法を聞かんが為に一歩すれば万億生死の罪を滅す(中略)然れば歩みを運んで聞くと聞かざると罪福既に雲泥なり」(御述作集93)
と、因縁経を引用あそばされて寺院へ歩みを運び聴聞する大事を御教示であります。日蓮正宗の寺院へ聚集して聴聞する機会から離脱している方は、「急ぎ急ぎに来臨を企つ」(御書1569)べきであります。
日蓮大聖人は『秋元殿御返事』に、
「師檀となる事は三世の契(ちぎ)り種熟脱の三益、別に人に求めんや」(御書335)
と仰せであります。入信の時に御授戒を受けて下種を賜り、仏が本未有善である衆生の心田に、仏になるための種子を下します。下種された仏種は聴聞により生長でき、さらに信行学によって機根を調熟させ身口意の三業に徳が具わります。その果報により下種した仏種が実を結び、得脱して仏の境界に至ることができる仏法と申す道理が厳然とあります。
まさに、師檀となる事は三世の契りであり、その種熟脱の三益は手継の師匠以外の別人に求めてはならないと誡められています。それはまさしく、縦糸と横糸のつながりが肝心であるからです。 この師弟相対の信心のもとに変毒為薬の功徳があります。
種熟脱とは
種(しゅ)=種をまくこと
農家では畑に種をまくように、仏法でもまずは「成仏の因」を植えなければ、芽は出ません。しかし、普通の種(爾前諸経)では末法の衆生は決して芽を出しません。唯一の種は「南無妙法蓮華経の大御本尊」であり、この御本尊を信受することが、命に成仏の因を植えることになります。
熟(じゅく)=育てること
せっかく種をまいても、水も肥料も与えず放っておけば、芽は枯れてしまいます。仏法でも同じで、御本尊に向かってお題目を唱え、折伏を実践し、聴聞の機会である大事な御会式や御講に参詣して御法門を聞くことです。その日々の信心の実践が、苗に水や太陽を与えるように、信心の種を少しずつ大きく育てていく「熟」になります。
脱(だつ)=収穫すること
やがて果実が熟して収穫できるように、信心の実も成就するときがきます。それが御本尊を確信して自行化他にわたり現れる「即身成仏」の境界になります。「脱」とは、生死の苦しみから解き放たれて、仏の智慧と慈悲をわが身に顕すことになります。つまり、成仏の実を収穫することにあたります。
ゆえに、種は御本尊という唯一無二の「仏の種」を命に植え、熟では勤行唱題や聴聞の御講、折伏などで水や光を与え、信心を育てます。脱では、やがて花開き実を結び、即身成仏という「収穫」を得るという一連の仏法と申す道理があります。それはまさに、富山の蘭室の友に交わる信行のことであります。
御法主日如上人猊下は、富山の蘭室の友に交わる信行の折伏について、
「かくなる人達に対して、謗法は不幸の根源であることをはっきりと伝え、謗法厳誡の教えに従って、謗法に対しては厳しく破折していくことが大事なのであります。すなわち『立正安国論』の御指南に従って、邪義邪宗の謗法こそ、人々を不幸にし、国家・社会を危うくする元凶であることを伝え、厳として、不幸の根源となる謗法を破折することが大切なのであります。
しかして、その折伏はだれでもできることであります。要は、折伏はやろうと思えば、だれでもできるということであります。」(大日蓮 第956号 R7.10)
と御指南下さっております。
最後に、御会式の折に御捧読申し上げる『立正安国論』を聴聞される時には、富山の蘭室の友に交わる信行として、身口意の三業を整えて『安国論』を拝し奉りましょう。そして、本年「活動充実の年」の折伏誓願目標達成に向けて、富山の蘭室の友に相応しい信行を実践いたしましょう。
宗祖日蓮大聖人『内房女房御返事』に曰く、
「妙法蓮華経の 徳あらあら 申し 開くべし。毒薬 変じて 薬となる。妙法蓮華経の 五字は 悪 変じて 善となる。玉泉と 申す 泉は 石を 玉となす。此の 五字は 凡夫を 仏となす。されば 過去の 慈父 尊霊は 存生に 南無妙法蓮華経と 唱へしかば 即身成仏の 人なり。石 変じて 玉と 成るが 如し。孝養の 至極と 申し 候なり。」(御書1492)