正林寺御住職指導(R8.5月 第268号)
正林寺の境内地には、4月下旬から5月上旬にかけて筍(竹の子)が、ご近所の竹藪の地下茎から辿ってきて顔を出します。
筍は成長が非常に早く、地面に芽を出してから十日間(一旬)ほどで竹に成長してしまい、食用に適さなくなります。
宗祖日蓮大聖人は『筍御書』に、
「たけのこ(筍)二十本まいらせあげ候ひ了んぬ。そのよしかくしゃう(覚性)房申させ給ひ候へ。恐々謹言。」(御書988)
と、建治2年(1276)5月10日の御書を残されております。
『筍御書』のほかにも、『上野殿御返事』に「たかんな(筍)」(御書1206)、『妙法尼御返事』にも「たかんな(筍)」(御書1226)、さらに『上野殿御返事』に「竹の子」(御書1379)との文証を拝することができます。このように大聖人が折々に筍に言及されていることは、身近な自然の中に深い法義の意義を見出されていたことの証左と拝されます。
一般に筍の旬は3月から5月の春の時期とされますが、品種や産地によって収穫時期には違いがあります。
日本で食用とされる主な品種は次の通りです。
孟宗竹(もうそうちく)
最も一般的な品種で、3月から5月が旬。九州など温暖な地域から収穫が始まり、徐々に北上します。
淡竹(はちく)
孟宗竹より遅く、5月から6月頃が旬。
真竹(まだけ)
5月中旬から7月頃まで続きます。
根曲がり竹(姫竹)
東北・北海道など寒冷地で収穫。5月下旬から7月頃が旬。
四方竹(しほうちく)
珍しい秋が旬の品種。10月から11月上旬に収穫。
大名竹(だいみょうだけ)
鹿児島県の離島などの特産。5月から6月が旬。
また、鹿児島などの温暖な地域では12月頃から「早掘り」として出荷が始まるものもあり、兵庫県姫路市の太市地区では皮付きの生筍が3月末から5月初めに出回ります。
竹の品種を見分けるうえでは、節の「輪」の数が重要な手がかりとなります。孟宗竹は1輪、真竹と淡竹は2輪ですが、淡竹はさらに上下の節が角ばっているという独自の特徴を持ちます。また淡竹は表面が滑らかで産毛がなく、皮が薄い赤茶色であることも見分けのポイントです。珍しい品種である四方竹は、断面が円形ではなく四角形に近い形をしており、ひと目で見分けることができます。
竹膜と上下の節──化法と化儀
筍が成長すると、竹の内部には「竹膜」と「上下の節」ができあがります。
日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
「一念三千殆(ほとん)ど竹膜(ちくまく)を隔(へだ)つ」(御書655)
と仰せです。法華経の文底の大事においては、文上の迹本事理の三千は同じ理の一念三千となり、文底独一本門事の一念三千からは、文上迹本は竹膜を隔てることになります。
御法主日如上人猊下は「令和8年 御霊宝虫払大法会の砌」におかれ、
「『本因妙抄』に、
『迹門をば理具の一念三千と云ふ、脱益の法華は本迹共に迹なり』(御書1678)
と仰せのように、寿量文底の仏法から望むならば、今日一代は皆これ迹中の所説であり、迹中所説の法華の題号なれば、一部の題号に約することは迹門の妙法に同ずることになるのであります。」(大白法 第1171号 R8.4.16)
と御指南あそばされました。つまり、「一念三千殆ど竹膜を隔つ」ことを拝信申し上げます。
また、第九世日有上人は『化儀抄』に、
「竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(聖典1202)
と御指南あそばされています。1本の竹にも上下の節という次第があるように、同じ信心の人の中にも、師弟や僧階の違い、入信の前後や年齢などの順序次第があります。それぞれの立場を乱すことなく僧俗の礼儀を重んじながら、しかもその上において妙法を信ずる上では無作一仏・即身成仏であり、僧俗いずれにも一切の差別はありません。差別の中に平等があり、平等の中に差別がそなわると心得ることが、化儀の精神であります。
日蓮正宗において、富山の蘭室の友に交わるため化儀上の「上下の節」と、化法上の「竹膜」は、縦糸と横糸のつながり、すなわち異体同心・講中一結を支える根幹をなすものであります。
最後に、令和八年「団結行動の年」における信心活動は、竹に「竹膜と上下の節」があることを心がけることによって、異体同心・講中一結の実現へとつながります。そしてその先に、折伏誓願目標の達成と絶対的幸福があるのです。
境内の筍を目にするたびに、この法義の意義を思い起こしていただければ幸いです。筍が力強く大地を割って芽吹くように、4月度の折伏強化月間の勢いをさらに加速して、ともに精進してまいりましょう。
宗祖日蓮大聖人『秋元御書』に曰く、
「 器に 四つの 失あり。
一には 覆と 申して うつぶけるなり。 又はくつがへす、 又は 蓋をおほふなり。
二には 漏と 申して 水もるなり。
三には 汙と 申して けがれたるなり。
水 浄けれども 糞の 入りたる 器の 水をば 用ふる 事なし。
四には 雑なり。
飯に 或は 糞、 或は 石、 或は 沙、 或は 土なんどを 雑へぬれば 人 食らふ 事なし。
器は 我等が 身心を 表はす。
我等が 心は 器の 如し。
口も 器、 耳も 器なり。」(御書1447)

