〔御文証の解釈〕
仏の御意を信ずれば、仏の御意がその信ずる心に流れ通いますから、信も血脈も法水も同じ意味となります。信心が正しければ信心上の筋目はすべて正しくなります。
〔創価学会の解釈〕
○御本尊を強盛に信心で信ずるのが「信心の血脈」であり、これ以外の血脈を求めてはいけない。「法体の血脈」などというのは後世に作られた言葉にすぎない。(聖教新聞 H五・九・一二 取意)
○大聖人御所持の法体である妙法は、御本尊への信心・唱題によってのみ受け継がれるのであり、この「信心の血脈」以外に法主だけに伝わる「法体の血脈」などない。(同)
○「信心」こそ肝要であり、「血脈」と言っても「信心」以外の何物でもない。(創価新報 H五・九・一五 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
創価学会の解釈は基本的に誤っています。それは「血脈」「法水」という、本来御本尊に具わる法義と、凡夫の「信心」とを混同しているからです。そして教義の根本となる法体の血脈を否定しているのです。
「法体の血脈」と「信心の血脈」という血脈の二義からみれば、この御文証は信心の血脈について説かれています。日達上人は、昭和五十三年七月に「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は、一代聖教大意に、『此の経は相伝にあらざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります」(達全 二-五-五九二頁)と仰せられています。
「法体の血脈」と「信心の血脈」の総別の二義の立て分けをよく知らなければなりません。
