日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第四項 「御本尊の開眼という化儀は坊主(教師)の正式なマニュアルには無い」の妄説を破折する

 

第四項

 創価学会が言う「御本尊の開眼という化儀は坊主(教師)の正式なマニュアルには無い」の妄説を破折する


(4)御本尊の開眼という化儀は坊主(教師)の正式なマニュアルには無い

 日蓮正宗の正式な化儀については、僧侶の中でも住職になることが認められた「教師」の位についたものが習得しなければならない化儀を網羅したマニュアルとして「日蓮正宗教師必携」という書物に記載されています。
 この本には、僧侶の心得から始まり、葬儀のやり方はもとより、「諸式範例」として、結婚式や起工式ならまだしも、上棟式、進水式、安産祈念、命名祈念、厄払い祈念、進学祈念、就職祈念、自動車祈念、旅行祈念等々あらゆる人生の節目に、祈念と称した邪宗まがいの気休めを与えて供養を搾り取るやり口を懇切丁寧に指導しているのです。
 ところが、この微に入り細にわたって宗門の「正しい化儀」をまとめたこの本の中で、「開眼」について記載されているのは、何と「数珠の開眼」についてだけなのです。その全文を紹介すると、
  「○開眼の事
  数珠は必ず御開眼を済ませてから使用する。
  御開眼は、読経唱題中に、導師が数珠を両手にかけ、「南無妙法蓮華経」と祈念する。」
と、わずかこれだけしか書かれていないのです。
 要するに、勤行唱題をするだけなのですが、実はこの作法は御書に照らしても大きくは間違っていません。御書には、
  「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(P.366)
  「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり」(P.1145)
と、開眼供養は法華経(南無妙法蓮華経)の力によってのみ可能なのだと示されているのです。決して坊主の力などによるものでないことは御書を読めばあまりにも明らかなのです。
 それでは、「日蓮正宗教師必携」には、御本尊の下付の際の化儀についてはどのように記載されているのでしょうか。
 「第三章 授戒並びに御本尊下付」の「第一節 授戒式(付、謗法払)」には、かつて学会員が寺院で御授戒を受けていた頃の作法が大変具体的に書かれていますが、もちろん「御本尊の開眼」については一言も触れられていません。
 「第二節 御形木御本尊下付」には、下付の手続きとわずか五行の作法が書かれているのみです。当然ここにも「開眼」については全く記載されていません。
 そして「第三節 常住御本尊等の下付並びに信徒宅入仏式」には、たいへん興味ある内容が書かれているのです。それは、「開眼」が行われていないどころか、表装又は彫刻を行って御本尊を完成させるのは、信徒が自分で(当然仏具屋に頼んで)行うことになっているのです。詳細は以下のとおり。
「総本山より寺院へ御本尊が下付されてきたとき、住職は直ちに内拝を行い、願主の姓名などを確認し、万一総本山に具申する必要があるときは、直ちに具申する。次に、願主に通知し、表装、または彫刻の荘厳工程を経て、完成次第寺院に捧持せしめ、更に内拝を行うのを可とする。別状がなければ、願主の願いにより、入仏式の日取りを決定する。
 願主より入仏式の願い出があったときは、御本尊を寺へ捧持させ、住職が内拝を行い、そのまま(未表装の場合は表装させて)預かり、式の当日住職が捧持する。」
 そしてこの後は安置後に末寺住職が勤行をするだけなのです。「法主の開眼」などは、どこにも一切記載されていません。
 この文章中の「常住御本尊」とは、宗門で「本紙」と呼んでいる未表装の御本尊のことで、まだ御本尊として未完成の段階で「開眼」の儀式を行っているというのでしょうか。末寺が受け取った時点で、一旦この「本紙」は信徒に渡されて表装又は彫刻(板本尊にすること)を行い、我々が通常御本尊と呼んでいる姿が完成する訳です。

 ここに『教師必携』という書名が出てきますが、たしかに宗門の教師の心得としてそういう本があります。それを取り上げて、そのなかに諸式範例を詳しく述べているにもかかわらず、開眼については数珠の開眼だけであることを言い、さらに「第三章 授戒並びに御本尊下付」について、その「第一節 授戒式」と「第二節 御形木御本尊下付」には全く開眼のことはなく、さらに「第三節 常住御本尊等の下付並びに信徒宅入仏式」には、開眼が行われていないどころか、信徒が自分で御本尊を完成させることになっている、と浅識の言を吐き、以下、「総本山より寺院へ御本尊が下付されてきたとき、住職は直ちに内拝を行い……」以下、入仏式に至るまでの手続きの文を挙げ、「そしてこの後は安置後に末寺住職が勤行をするだけなのです。『法主の開眼』などは、どこにも一切記載されていません」と、鬼の首でも取ったかの如く、法主の開眼祈念のないことを主張し、開眼の不必要を論証せんとしております。
 要は、開眼というのは数珠のことしかない、だから宗門に開眼などというものは何もないんだ。したがって、宗門は創価学会の本尊のことを、開眼をしていないから『ニセ本尊』だと言うけれども、それは違うんだ、ということを言いたいのです。しかし、これは全く、素人の浅ましさであります。
 そこで、まず彼等は開眼供養について知ったかぶりを発揮し、『本尊問答抄』と『四条金吾釈迦仏供養事』のなかの二文を引いて、「開眼供養は法華経(南無妙法蓮華経)の力によってのみ可能」で、坊主の力によらないことが御書を読めば明らかだと、憍慢・不遜の言を吐いています。しかしこれは、一を知って十を知らず、総じての法華経の功徳の文にのみ囚われて、自らの破法による別しての罪業に全く無知なのであります。
 開眼供養も、その他の一切の法華経による祈念の功徳を得ることも、すべて法華経を正しく信得した者にして初めて可能です。しかるに、池田大作やその配下の者どもは、法華経の心に背いた大逆ある故に、いくら法華経を信じたと思い込み、なずきを砕いて祈っても、正しい功徳は成就しません。『松野殿御返事』に、
  「但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修行に重々のしなあり(乃至)悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲(乃至)十四に恨善なり」(御書一〇四六)
と示される十四誹謗の一々を池田や創価学会に当てはめるとき、世の中にこれ以上ぴったり契合する者どもは外にありません。したがって、彼等がいくら口先だけ、有り難い御書の御文を引いて功徳を誇ろうとも、事実においてその徳は成就しないのです。
 すなわち、彼等が我意・我見を逞しくして、坊主の力などによらないと御書を錯誤して僧宝を軽蔑する心中は、まさに憍慢、計我、浅識等であり、開眼供養の根本精神たる妙法に背いているのです。つまり「此の経の心に背」いているのであり、宗祖大聖人の呵責はまさに彼等に当たります。
 次に『教師必携』について一言しましょう。
 だいたい、この『教師必携』という書は、宗内一般教師が色々な寺務を執る上に必要な知識を記した書なのです。したがって、法主とか管長について「かくの如くすべし」という事柄を記すべき性質の書物ではないのです。その名称が明らかにそれを示しているではありませんか。
 そこに「管長心得」とか「法主心得」とあれば別ですが、全ページことごとく、一般教師の寺務心得であり、したがって、御本尊に関して法主の行う一切の事柄が『教師必携』に指示とか規定など、あるはずはない。こんなことはたとえ素人でも、少し信心のある人なら明らかなことです。創価学会は、信心、信心と言いながら、謗法にまみれた不信心に徹底しているから、このような普通以下の誤りを犯すに至るのであります。
 まず、創価学会の挙げる『教師必携』の第三章第三節の説明文、「総本山より寺院へ御本尊が下付されてきたとき」以下の文が、既に御本尊様が総本山の手から離れて末寺に移った段階からのことを示しているでしょう。つまり、総本山の手から離れた段階から、御本尊に関する教師の心得の説明は始まっているわけなのです。
 総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。 また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。
 そして、これは法主の権限ですから、『教師必携』に書くべき事柄ではない。しかし、この事例を見聞する宗内の僧俗が、この宗門の丑寅勤行において法主によって祈念せられた意義と事象について非常に尊く思い、これを「開眼の本尊」として、創価学会が勝手に製造した、特別の丑寅勤行の祈念もない『ニセ本尊』と区別をしたのであります。
 故に、本尊に関して、総本山伝統の敬虔な祈念をもたない創価学会の本尊を『ニセ本尊』として区別する一つの証左として「正宗の本尊に開眼あり」と言うのは当然なのです。
 また、これはあとからも出てきますけれども、師僧背逆の離脱謗法僧どもが「御本尊の祈念を、我々が見たことがないから、そういうことはなかった」などと言っておるようですが、法主自らの権限事項をそんな小僧どもに教える必要もない。私は今も所化・小僧に対して「今日はこうこうで、こういうことをしているんだ」などということを、ひとことも言ったことはありません。だから、あの離脱僧どもは何も知らないでいたわけです。それで今になって、「開眼はなかった」などと創価学会の者どもに言ったりしているらしいけれども、そんなものは問題になりません。あるいは、創価学会に習った虚偽策謀の言とも言えましょう。
 さらにまた、そのほかの種々の推測や独断は、『教師必携』の読み方も判らない学会の低俗な迷想である。法主・管長のことは『教師必携』に規定がない道理とともに、もう少し頭を冷やして文章を正しく読め、ということを言っておく次第であります。


 そして、藤本メモに記録された日達上人の言葉に照らせば、この段階で自分で勝手に御安置しても何の問題もないということが明らかになるのです。
「個人が受けた御本尊だから.その人又は会の宝物だから.どのように格護しようがとやかく云えない.紙幅を板御本尊にするということは.前からも行われている、御開眼とか.入仏式とかは.信仰上からは.僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で.僧侶を呼ばなければいけない.という事でもない」(藤本メモ)
 そうすると開眼、とりわけ「法主による開眼」とは一体何なのでしょうか。法主が自ら書写した常住御本尊においてさえ、御本尊として完成してからは一切法主による開眼など行われていないことは、この宗門として正式に採用している化儀=作業手順を読めば明らかではありませんか。

 ここに「藤本メモ」という語が出てきましたが、これに関連して、このあとの所でいわゆる「模刻本尊」のことを正当化している文章が出てきます。その問題については私ではなく、水島教学部副部長から皆さん方に、いかに創価学会がインチキで、嘘つきであるかということをはっきりと話してくれると思います。その時に「藤本メモ」のことについても、藤本総監自身から話があると思います。
 ただ、ここで指摘すべきことは、「藤本メモ」によって日達上人のお言葉を引用しているが、それは総本山通常の法主の行事についてではなく、学会が勝手に模刻した本尊についての日達上人のお言葉なのです。したがって、他の正規の御本尊とは一切、関係がないのですが、創価学会が、さも関係があるように述べているということです。
 また、先程も申しましたが、『教師必携』には法主の行う開眼祈念などは記載しないことが当然であり、その記載がないから法主の開眼そのものがないなどと邪推するのは、筋違い極まる愚論です。
 以前から今日に至るまで、あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしているということを、再度、申しておく次第であります。


 まして、かつては法道院から直接末寺へ配送されていた御形木本尊においてをや、です。まやかしの神秘主義は断じて打ち破らなければなりません。

 これについて申しますと、以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について「開眼がない」と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります。
 ですから、なんでもかんでも手当たり次第に非難の材料にする学会の姿は、まさしく怨念の鬼とも言うべきでありましょう。


 御義口伝や御講聞書にも、
  「開とは信心の異名なり」(P.716)
  「信心を以て眼とせり」(P.818)
  「此の御本尊より外には眼目無きなり」(P.841)
等とあるとおり、開眼といっても特別なものではなく、御本尊への信心のことを言うのだと理解できるではありませんか。

 これもまた、こういう御書の文証を引いてスリ替えているのです。つまり、信心さえあれば何もいらないんだという言い方をしているわけですが、創価学会は、その信心地体が十四誹謗のすべてに当たり、間違っておるのです。
 しかも、ここでは『御義口伝』や『御講聞書』の文を挙げて「開眼といっても特別なものではなく、御本尊への信心のことを言うのだと理解できる」と言っておるのですが、この文証そのものが、実は文証になっていないのです。
 『御義口伝』の、
  「開とは信心の異名なり」(御書一七二八)
の文は、諸仏出世の本意である一大事因縁を明かされた「開示悟入の四仏知見」を講ぜられた御文であり、開眼の意の「開」の御教示でないことが明らかであります。
 また『御講聞書』の、
  「信を以て眼とせり」(同一八三〇)
の「眼」とは、舎利弗が過去世に乞眼婆羅門に「眼」を乞い取られて菩薩道を退転したことを明かされ、信心の不退を促されるに当たっての御教示であり、これも開眼の意の「眼」ではありません。
 信心がどだい、池田大作の憍慢、計我、浅識、著欲その他、十四誹謗のすべてを受け継ぐ狂ったものである上に、本宗の開眼の本意も『教師必携』等の文書の意味も全く解らず、やみくもにこじつけようとするから、このように、スリ替え、こじつけがたちまち破綻してしまうのです。


 それとも法主が御本尊を書写した途端に、未完成の「本紙」の段階で特別に開眼の儀式を行っているとでもいうのでしょうか。それならば逆に、書写された後は信徒が勝手に表装又は彫刻してから御安置しても、開眼されている以上どう扱おうが何の問題もないことが確定するではありませんか。取って付けたような屁理屈では、ますます論理が破綻するのです。

 ここでは、彼等が言う「本紙の段階で開眼の式を行っているなら、そのあと信徒が、その本尊をどう扱おうが、なんの問題もないことが確定する」旨を言っているが、前述のとおり総本山での法主の開眼祈念はあらゆる御本尊について、すなわち、直接の書写本尊から形木のお守りと安置本尊に至るまで、すべての御本尊について行っているのであります。
 したがって、そののちのお取り扱いについても正しい規定によるべきであり、創価学会の勝手な論議は大謗法であります。
 創価学会の『ニセ本尊』は、印刷されたのち、開眼がないことは、自ら言う如く明らかである。故に、今回の学会の『ニセ本尊』は、その元は日寛上人が二百七十八年前に書写あそばされ、その時に当然、開眼をされたわけですが、それによって学会が勝手に作った大量の『ニセ本尊』の印刷のほうは、全く開眼されていないわけです。
 創価学会の言は、この元の本尊と大量印刷の実際との違いを、言葉の綾で一つにしてごまかそうとするものである。創価学会が言う「取って付けたような屁理屈」とか「ますます論理が破綻する」という言葉も、そっくり創価学会に返上しておく次第であります。


 もしも「法主の開眼が必要である」などと言う、宗門の化儀に無知な輩がいたら、「開眼の儀式は常住御本尊完成のどの段階で、どんな作法をとるのか具体的に言ってみろ!」と厳しく破折しなければなりません。そいつは「宗門第一尊厳の化儀」を破壊する輩であるだけでなく、正しい信心を破壊しようとする悪知識だからです。
 ちなみに、日達上人や日顕の奧番として法主の日常を数年にわたって目の当たりしてきた数人の離脱僧侶たちの証言では、日顕は御本尊書写をステテコ姿で行ったこともあれば、御形木本尊に至ってはダンボール箱を山積みにしておいて、それを一切何の開眼もせずに末寺に発送していた時もあったのですから、日顕宗が言っている化儀がいかにお粗末なウソ八百であるかが分かろうというものです。

 まず、いわゆる離脱僧の逆僧どもの言っておる「ステテコ姿」などということが一切、嘘であるであり、誹謗であるとはっきり言っておきます。
 それから、「開眼が必要なら、御本尊完成のどの段階で、どんな作法か具体的に言ってみろ」と言いますが、今まで破折したことで充分だし、今も既に破折しているわけです。
 ただし、それ以上に知りたかったら池田教をやめて、ひざまずいて教えを乞え、ということを言っておいてください。


 相承書である本因妙抄には、正しい信心のあり方について明確に御指南されています。
  「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く」(P.872)
(通解:信心強盛にただ余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身がそのまま仏身である。是を天真独朗の即身成仏と名付ける。)
 同様の御指南はこの他にもたくさんありますが、要するに末法の御本仏の出世の本懐である御本尊に一心に題目を唱えること以外に、法主や坊主や開眼の手続きのような、何か別の介在物が存在しないと成仏できないなどという教えは、出世の本懐を不完全な教えに貶めるものであり、絶対に邪義以外のなにものでもありません。

 こういう言い方は、このあとのすべてに通じております。要するに信心さえあればいいんだということなのですが、その信心の元に「総別の二義」ということがあるのである。このことはあと(「日顕宗の邪義を破す」についての破折の御講義)に出てきますけれども、総別をきちんと立て分けた上での、きちんとした信心でなければならないのでありまして、そこを彼等は「総別などということは全くないんだ」というような言い方で、その文義をないがしろにしております。
 ここでは『本因妙抄』を挙げて、信心さえあれば開眼などはいらないということを言っておるが、総じて言うときにおいて、一切衆生の成仏はまさに南無妙法蓮華経の上において存するのですから、その点においてはなんびとも即身成仏の大功徳を得るのです。しかし、その信心の形は、いわゆる大聖人様から日興上人、日目上人と血脈の上において正しく御本尊の深義が伝えられておるのであり、法体の相承、さらに言うなれば金口嫡々血脈相承という意義、さらに法門の相承、そしてそれらの上において信心の血脈における信心の成仏ということが存するのです。
 したがって、それが『本因妙抄』であろうと何抄であろうと、その信心の功徳という所だけを取り上げて、それがさも全体であるかのように言っておるということです。
 要するに『本因妙抄』のこの文は、総じて根本の事の一念三千の妙用による入信の一切衆生の成仏を説かれているのであるが、別しての師弟相伝による仏法の常住と弘通の極理を示すものは、彼等がわざと切り文で省略した、前文の「久遠名字の本門を本と為す」の文にあり、これは相伝によって今日まで、その三大秘法の法体が総本山に伝えられているのです。創価学会の者どもは、その深い意義に暗いのである、と言っておきます。

 

※『第五項 「日顕宗の主張は、過去に『ニセ本尊』で信徒を地獄に落とし続けた歴史を証明」の妄説を破折する』 へつづく