正林寺御住職指導(H30.6月 第173号)
知識とは、一般的に知ること。認識・理解すること。または、ある事柄などについて、知っている内容。さらに考える働き、知恵などの意味があります。
そして善知識とは、仏法を説いて導く指導者という意味があります。
この善知識は成仏するための大切な知識となり、幸せになるための知識でもあります。
さて善知識の縁に値うためには、どうすればいいでしょう。
それは毎月、日蓮正宗の寺院・教会で奉修される宗祖日蓮大聖人の御報恩御講(第二日曜日)に参詣することです。御講に参詣することで善知識の縁に値うことができて、仏の智慧を悟ることができ、幸福な人生を進むべき道を知ることもでき、功徳を積んで利益が顕れることもできます。
故に大聖人は『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
「善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり。」(御書1426)
と仰せであり、善知識の縁に値う大切さを説かれています。
妙法の縁である善知識に触れる大切さについて、御法主日如上人猊下は、
「凡夫に本来的に内在する三因仏性は、妙法の縁に触れて初めて仏性が仏性としての用きをするのでありまして、仏性がただ存在しているだけでは成仏に至らないのであります。したがって、妙法の縁に触れるということが極めて大事なのであります。」(大日蓮 平成26年9月号 第823号)
と御指南です。
人には必ず仏になれる可能性、仏性があります。その仏性は善知識という縁に値うことがなければ、仏となることなく可能性のままで終わります。逆に不幸を招く五濁が起因する悪い知識、悪知識(邪義邪宗)という縁に触れて仏性が隠れてしまい、謗法という罪障を積んでしまいます。
御法主上人猊下の御指南を賜り、今年(平成三十年・2018年)の四月から御報恩御講における全国寺院・教会の住職・主管の法話において、拝読する御書が全国的に統一されました。
四月は『報恩抄』の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし。云云」(御書1036)
との御書を拝読しました。
また五月は『諸法実相抄』の「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。云云」(御書667)
との御書を拝読して法話が行われました。
御法主上人猊下が御指南の善知識は、まさに毎月の御報恩御講に参詣して全国的に統一された御書を拝して、大聖人の御意に縁させて頂くことであり大切でしょう。
その果報として、仏の智慧を悟ることができ、幸福な人生を進むべき道を知ることもでき、功徳を積んで利益が顕れることもできます。
全国的に統一された御書を拝する御報恩御講への参詣は、師弟相対の信心の上からの僧俗一致・異体同心しての御書拝読という意義と、さらに日興上人が『日興遺誡置文』に、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して(中略)聞くべき事」(御書1884)
との御指南を、寺院参詣と同時に実践する大事な行事になります。特に「極理を師伝して」との仰せを僧俗一致・異体同心して、御報恩御講に参詣して「聞くべき事」との聴聞するという耳根得道の大切な意義もあります。
その耳根得道について大聖人は『椎地四郎殿御書』に、
「経に云はく『亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し』云云。此の文の意(こころ)は正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云ふ文なり。」(御書1555)
と仰せのように、釈尊が説かれた方便品には正法を聞かない人は救いがたいと説かれ、その経文の意味は、正法とは法華経であり、この法華経を聞くことができない人は救いがたいと、大聖人が仏法を聞くことの大切さを教えられています。
また同抄に、
「此の経を一文一句なりとも聴聞して神(たましい)にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云はく『一句も神に染めぬれば咸(ことごと)く彼岸を資(たす)く、思惟(しゆい)修習(しゅじゅう)永く舟航(しゅうこう)に用(ゆう)たり』云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず。」(御書1555)
と「聴聞して神にそめん」と仰せのように、『日興遺誡置文』の「御抄を心肝に染め(中略)聞くべき事」との具体的な指針が説かれていると拝します。それは大聖人が仰せの「聴聞して」が、日興上人の「聞くべき事」に拝され、大聖人が仰せの「神にそめん」が、日興上人の「心肝に染め」に拝されます。そして、冒頭で大聖人が仰せの「此の経を一文一句なりとも」が、日興上人の「御抄」に拝されます。
娑婆世界の私たち衆生は六根(目・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官)のうち、耳根が特に勝れているといわれています。仏様は「声仏事を為す」(御書108)と言われるように声を用いて衆生を教化してこられました。そして衆生は、仏法を耳で聞くことを因として成仏得道するのであり、これを耳根得道といいます。
まさに大聖人は『一念三千法門』に、
「此の娑婆世界は耳根得道(にこんとくどう)の国なり。(中略)耳に触るゝ一切衆生は功徳を得る衆生なり。」(御書110)
と御教示であります。
第六十七世日顕上人猊下は、昭和六十三年度非教師指導会の砌に「聞」について、
「『聞』とはすなわち聞くことである。人間は何でも、聞いて物事を覚えていくわけです。子供のころから常に親の言葉を聞いて、その国の言葉を覚えていく。あるいは善いこと、悪いことすべてを耳で聞いて、そこから覚えていくわけである。仏道も同様であって、御説法その他、先輩、上長からの訓話等も、それを聞き、それによって自分がそれを取り入れていくわけである。
ところが、この聞き方というのが、考えてみるとなかなか難しいのである。自分の心に捩(ねじ)けたところや違ったところがあると、本当に善いことを聞いても、それをそのとおりに自分の心に入れることができない。『あんなくだらないことを言っても、そんなことばかりではない。私の場合はそうではないんだ』というように自分自身の心で理屈をつけて、そのことが正しく聞けない。逆にこちらの心が正しいと、悪いことを聞いても『この人間は今、こういうことを言っているけれども、これは本当は正しくないことだ』と、その悪いことを批判できる。ところが、こちらの心が本当にきちんとしていないと、正しいことを聞いても、それによってかえって自分自らが不幸になっていく姿もある。だから、聞くということによって多くの人が幸せになったり、また非常に不幸になったりしているのである。したがって、聞くということはたいへん大事なことなのであります。」(大日蓮 昭和63年5月号 第507号93頁)
と御教示です。
最後に御報恩御講への参詣は、仏祖三宝様への御報恩は当然でありますが、自行において「聞」である耳根得道のためにも尊い法要であり、不幸を招く悪知識という縁に触れて仏性が隠れてしまう謗法という罪障を積まないため、非常に大事な行事であります。そのため必ず参詣することが大切です。
大聖人は『御義口伝』に、
「不聞とは謗法なり。」(御書1750)
とも仰っております。
宗祖日蓮大聖人『持妙法華問答抄』に曰く、
「寂光の都ならずば、何(いず)くも皆苦なるべし。本覚の栖(すみか)を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは『現(げん)世(ぜ)安(あん)穏(のん)後生(ごしょう)善(ぜん)処(しょ)』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄(ろう)引(いん)なるべけれ。須(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧(すす)めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。」(御書300)
