〔御文証の解釈〕
本宗の血脈については前項で述べたとおりです。
末法の御本仏日蓮大聖人の御一念は「日蓮が魂」と仰せられた一大秘法の本門の本尊であり、この法体の相承に連なる信心の血脈がなければ、御本尊を受持しても利益はない。
〔創価学会の解釈〕
○「観心の本尊」という本尊義からいえば、御本尊は「信心」があるところにしか存在せず、「信心」がなければ紙幅の御本尊はあっても「観心の本尊」はない。(聖教新聞 H五・九・一八 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
学会の解釈は御本尊そのものを否定する邪義です。
日蓮正宗の教えは法体たる本門戒壇の大御本尊が根本です。日寛上人は「御本尊」について「今安置し奉る処の御本尊の全体・本有無作の一念三千の生身の仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ」(富要 四-二三六頁)と仰せです。
学会の解釈は、御本尊中心の教義を信心中心に故意にねじ曲げようとする黒い作為が見えます。
「観心」には二通りの意味があって、
一は、四重興廃でいう「観心の大教」のことです。四重興廃とは「爾前の大教興れば外道廃れ、迹門の大教興れば爾前廃れ、本門の大教興れば迹門廃れ、観心の大教興れば本門廃れる」という仏法流布の順序のことです。日寛上人は『観心本尊抄文段』に「十法界抄に四重の興廃を明かす。謂く、爾前・迹門・本門・観心なり。
第四の観心とは永く通途に異なり、正しく文底下種の法門を以て観心と名づくるなり」(富要 四-二一七頁)と説かれております。すなわち文上本門に対して、文底下種の法門を、四重興廃の意義の上から、一応「観心」と称するのです。
二には、「己心を観じて十法界を観る」という修行の意味の「観心」です。日寛上人は「但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」(富要 四-二二二頁)と仰せられ、「本門の本尊を受持」することが末法の観心であると示されています。
「観心の本尊」というときの「観心」とは、まさしく二でいうところの修行に約した、御本尊受持の「観心」をいうのです。
学会ではこの二つの「観心」の意味を故意に混同させて、文底の法門法体(仏)を個人(行者)の中に引き込もうとしているのです。
これが、能化・所化、法体・修行を混乱し、戒壇の大御本尊を軽視する邪義であることは明白です。
