本門戒壇の大御本尊を離れては、日蓮正宗の信仰そのものが成り立ちません。
なぜなら、日蓮正宗における信仰の対境は本門戒壇の大御本尊に限られるからです。
したがって、大聖人の仏法において、大御本尊から離れて「御本尊根本」の信仰をするなどはありえないことであり、このような主張は、各人に下付された御本尊が本門戒壇の大御本尊の御内証を書写されたものであることを知らない人の言葉にすぎません。
ここにわかりやすい譬えがありますので、紹介しましょう。
「電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」
これは、ご存じ、創価学会で発行した『折伏教典』(三三九頁)の一文です。
大聖人が『聖人御難事』に「余は二十七年なり」(全集 一一八九頁)と仰せられた、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を離れることは、御本仏日蓮大聖人から離れ、下種三宝のすべてを否定する大謗法なのです。
まして、今日の創価学会では、電球(本尊)までニセ物を作ってしまったのですから、そのニセ物には、光(功徳)の出ることなど絶対にありえません。
