〔御文証の解釈〕
この御本尊は、全く他に求める必要はありません。ただ私たちが法華経を受持して(御本尊を信じて)、南無妙法蓮華経と唱える胸中におられるのです。
〔創価学会の解釈〕
○本来、御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存するものであり、大聖人の御心に適う信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくとも、仏界涌現の功徳は厳然と顕れる。(聖教新聞 H五・九・八 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
「法華経を持ちて」の法華経とは御本尊のことです。
「本来、御本尊は妙法を唱える人の胸中に存するもの」というのは、邪教中山門流の「己心本尊論」と同じものであり、「信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくても、仏界が涌現する」とは邪宗日蓮宗が本尊よりも題目を中心とする邪義に通じるものです。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ」といっても、この御本尊は拝むべき正境の本尊ではなく、私達の身に具わる仏の生命のことです。
日達上人は「胸中の肉団に御本尊がましますという言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります。(中略)自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥って地獄の苦を受けるということになる」(達全 二-五-五二六頁)と仰せです。
現在の学会では、ことさらに「御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存する」と主張し、会員を本門の本尊抜きの信心へ改変しようとしているのです。
