日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

創価学会理事長・森田一哉氏の破仏法の指導を破す②

  6.「識者の声」に賛同する愚かさ

 森田氏は、宗門批判のために悪用している、『今回の問題に関する識者の声』を、ここでも取り上げて、
「学会の運動は民衆の大叙事詩だって言うんですから、ありがたいことですね。で、この人はこう言ってます。『学会員は温かな人格の方が多い。これは否定しようのない事実です。信仰を根本にした、人を見る目の温かさ。自然を見る目の優しさ。そして、さらに現代的、地球的課題に挑戦していこうとする未来性。長年、学会に注目して見て来ましたが、学会は人に優しい宗教である、と確信しています』(荊木淳己氏の発言)いいことを言ってくれますね。『人に優しい宗教』だから創価学会は発展したんじゃないですか。」
と述べている。この「識者の声」の記事についても、本人から出たものか疑わしいが、一応、荊木氏の見解としてみれば、その発言内容は、多くの純真な学会員に対しては、正しく評価したものといえる。しかし少なくとも、現在の氏と学会首脳のやり方を評価したものではあるまい。学会首脳は、人間として最低の、宗門批判や僧侶への中傷を、くり返し裏側で指図しているのである。学会首脳に限って「人に優しい宗教者」とは、お世辞にもいえないことである。
 その証拠に、氏はそのあとで、
「特にこれは壇上にいる人は気をつけなきゃいけない。幹部でありますから。人に優しくしていると思うんですけれども、大丈夫でしょうか?あまり拍手がない。ちょっと心配になってきました。後でよく言っときますから。」
と述べている。拍手をしない会員の方は正直である。拍手がないのは、氏自身の不徳を表わすのである。他の幹部を心配している場合ではない。まず氏は、「人に優しくない」大幹部の一人として、充分に反省しなくてはならない。
 また、今回の問題に関して『聖教新聞』には、他宗謗法の人たちの見解を、「識者の声」として堂々と載せている。その学会首脳の信仰姿勢に対しては、多くの会員が疑問を投げかけている。本宗の信徒たる者が、仏法の本質も解らない、他宗教の識者の見解をありがたがり、しかもそれに賛同しているのは、正気の沙汰ではない。
 今回の問題は、仏法上のことであり、世法上のことではないのである。外部の知識者に見解を求めても解るはずはない。それではなぜ、「識者の声」を頼んで、宗門批判をしているのであろうか。それもやはり、学会首脳の罪過を隠すためである。
 すなわち、今回の問題では、宗規改正に伴う総講頭・大講頭の資格喪失についても、「識者の声」を盾にして権威主義・人権侵害だと騒いでいるが、ここでも巧妙に責任転嫁しているのである。つまり、最初に池田氏が犯した猊下誹謗というのは、仏法上の問題なのである。それを、池田氏の役職喪失という世法上の問題にすり替えているのである。この点も、厳しく指摘しなくてはならない。
 学会首脳は、日頃から会員に対し「信心は役職に関係がない」「名聞名利の信心はいけない」と指導している。そう指導しておきながら、自らの役職喪失についてこれほど騒ぎ立てるのは、どうしても理由がつかない。たとえ役職の解任であっても、名聞名利は仏法にあらず、仏法の正師に随順するのが筋道であるとして、潔くそれを受け入れたらよいのである。そうすれば、自他ともに「世法よりも仏法を先とせよ」との立派な指導ができたであろう。
 どの社会組織においても、役職の権利を維持するには、その権利に相応する責任が、必須条件である。役職に相応する責任が果たせないようならば、むしろ自らが役職を辞退しなければならない。役職の責任をなおざりにして、役職の権利だけを主張するのは、世間においても通用しないことである。このように、世法でもしかり、まして、三宝守護の仏法上の責任を、なおざりにしておいて、かたや体面上の役職だけに固執するのは、信仰上おかしなことである。
 本宗の教義と信仰においては、下種三宝の当体である戒壇の大御本尊と唯授一人血脈相承を、仏法上の根幹として信受するのであり、もしこれに、一点の疑義・批判でもあれば、大聖人の弟子檀那としての、仏法上の責任の上で反省し、あるいはまた、厳しく破折しなければならない。三宝外護の責任を投げ出すならば、もはや大聖人の弟子檀那とはいえない。また、仏弟子を自負するならば、世法上の体面を保つことよりも、仏法守護の責任を最優先にすべきである。
 すなわち、いかなる理由があっても、大御本尊と血脈を拝して、三宝を守護するのが、大聖人の弟子檀那の重大な責務であり、尊い使命でもある。三宝の守護よりも、自分たちの役職が大事ならば、仏法を論ずる資格はないはずである。たとえ不幸にして、学会首脳が、仏法上の罪を意識できなくとも、仏法伝持の御法主上人お一人さえ、お護りできないならば、学会首脳の信仰は、いかほどの価値もないと断言できる。
 また、氏は最後のところで、
「『お金が悪です』その通りですね!持っていない人間がお金を持って御覧なさい、そのうち変わっちゃいますよ人間が。宗門変わっちゃったじゃないですかお金持って、(笑い)怖いですね。だから私達は幸いにしてお金を持つことができないから、(笑い)だから感謝しなきゃいけないと思うんでありますけれども、いかがでございましょうか。」
と、今回の問題を「お金」のことに、すり替えようとしている。学会員が、この信心の功徳によって、仕事が成功し、裕福になることが、なぜ悪となるのか。学会員は、成仏を求め、幸福を求め、また裕福な境涯を求めて、御本尊を信じてきたのではないのか。私たちが、精神的にも、物質的にも裕福な人生を送ることは、仏法に違背することではない。むしろ、その功徳の実証を示すことは、折伏にもつながるのである。
 氏は、お金を悪と決めつけているが、お金それ自体は、悪でも何でもない。それを、どのように使うかで、悪にも善にもなるのである。金銭のことで悪事を働くのは、お金のせいではなく、その人間が愚かなのである。それと同じように、氏は学会の理事長という重責にあり、指導性を発揮できる力を有している。そのことは悪でも善でもない。しかし氏がその立場を、保身のために利用したり、仏法破壊のために使うならば、それは悪であり、氏の堕落なのである。
 宗門は、経済的なことや社会的なことで、仏法を汚したり、仏法を曲げたりはしない。学会首脳こそが、金庫事件や、墓苑事業、絵画取り引き疑惑のことなどで、社会問題を引き起こし、大聖人の仏法を下げ、宗門にも迷惑をかけているのである。この非常の時でも、学会首脳はその立場を利用して、過酷な特別財務を会員に強制させようとしている。しかし、御供養の名目は使えない。だからといって「お金を持たないほうが幸せになれる」とごまかして、寄付を集めるという愚かなことはしないでほしい。いずれは、多くの純真な会員が、学会問題の真相を知ることになる。会員は愚かではない。氏は、真実が明らかになる、その時の、民衆の目を、会員の目を恐れるべきである。
 このように氏は、学会首脳の慢心から起きた学会問題を色々とすり替えているが、その中で最も許せないのは、
「常にこういうことにぶつかって犠牲になるのは信者なんです。だから今回、信者は絶対犠牲にならない。正しいことは最後まで言い続けていく。」
と、一般会員にまで責任をなすりつけていることである。大聖人の弟子檀那ならば、自らの役職を失おうと、自らの体面に傷がつこうと、苦悩する会員の信心を守ることが第一ではないのか。それもしないで、かえって会員の心情を逆手にとり、それを盾にして、しかもその裏で、不誠実な指令をくり返すのは、宗教の指導者として失格である。
 氏のほか学会首脳幹部が、今になっても、池田大作氏は御法主上人を批判していないと嘘をついている。しかし、学会首脳による平成3年1月以降の御法主上人批判は、隠滅不可能な証拠である。なぜなら、池田氏の一言で、『聖教新聞』等の宗門批判はすぐに収まったはずである。しかも今なお、謗法の宗教新聞や、裏側の怪文書まで利用して、宗門批判を重ねている。池田氏が、それを止めないのをみても、三宝破壊に対する池田氏の重大なる責任は免れないのである。

 以上のように、池田氏と学会首脳の三宝破壊という大罪の責任を隠蔽するために、なおも罪の上塗りをしているのが、今回の氏の指導の実態である。
 2度にわたる学会問題を冷静にみれば、学会首脳の犠牲になるのは、いつの時も、多くの純真な会員なのである。それゆえに、宗門僧侶は、御法主上人のもとに、正法守護のため、会員の成仏のために、どこまでも、池田氏と学会首脳の誤りを糾していく決意である。氏の心からなる改悛を期待したい。

  以  上