日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

二十二、釈尊は「僧侶は本来、葬儀に携わるべきではない」と説いたというが、宗門は違背しているのではないか

 創価学会では、釈尊が弟子たちに「僧侶は葬儀にかかわってはならない」と語ったとして、

 「僧侶が葬儀を執り行うことは仏教本来の在り方ではない」
               (大白蓮華 平成十四年八月号一一三㌻)
と主張しています。その主張を裏づける経典を創価学会は明確にしておりませんが、仏教学者の中村元氏などが、小乗経典の『遊行経』を解説するなかで、
 「釈尊の言葉として、『アーナンダよ。お前たちは、修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ』」(仏典講座 遊行経下五一〇㌻)
と記述していることはたしかです。
 しかし、同じ小乗経典の『無常経』には、
 「一芻の能く読経する者を請じ、法座に昇りて其の亡者の為めに無常経を読ましめよ」(国訳一切経 経集部一二―五九㌻)
とあり、死者のために芻(比丘・僧侶)が読経して弔うことが説かれています。
 また、『浄飯王涅槃経』には、
 「浄飯王の命終するや、るに七宝の棺を以てす。仏と難陀と、前に在り」
               (国訳一切経 目録事彙部二―三五一㌻)
とあり、釈尊と弟子の難陀尊者が、浄飯王の送葬に立ち会ったことが説かれています。
 これらのことからも、釈尊が修行僧に対して、葬儀に携わることを禁じたなどということはあり得ないのです。まして創価学会がいうような、「僧侶が葬儀を執り行うことは仏教本来の在り方ではない」などということを、釈尊が説かれるはずはありません。
 いずれにしても、これらの経文は小乗仏教のものであり、自己の悟りのみを求める小乗教の修行者にとっては、自行を優先することは当然であり、その意味で他人の葬儀に携わらなくてもよい、とする経文も見られるのです。
 これが大乗仏教、ことに法華経の教えに至れば、自行化他の両面にわたる修行が説かれるのですから、法華経を行ずる僧侶が、生きた人々を導くと同時に、死者を成仏に引導することは当然なのです。
 日蓮大聖人も、信徒の願い出によって死者の回向供養をなされたことは、御書の随所に拝することができます。その例を挙げれば、文永二年三月に南条時光殿の父君南条兵衛七郎殿が亡くなったとき、大聖人は鎌倉からはるばる駿河上野の地に下向され、故人に「行増」との戒名を与えられて、墓前で回向供養をなされました。
 これについて『南条後家尼御前御返事』に、

 「法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はかにまいりて候ひしなり」(御書七四一㌻)
と仰せられています。また、富木入道殿が亡き母君の遺骨を首にかけて、身延の大聖人のもとを訪れ、追善供養を願い出ています。
 そのときの様子について『忘持経事』に、
 「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し(中略)随分に仏事を為し、事故無く還り給ふ」(御書九五七㌻)
と仰せられています。
 また、日興上人は、信徒の曽禰殿に宛てた書状に、
 「市王殿の御うは(乳母)他界御事申ばかり候はず、明日こそ人をもまいらせて御とぶらひ申し候らはめ」(歴全一―一五二㌻)
と、曽禰殿の母君の逝去に際して、弔いのために門弟を遣わすことを述べられています。
 このように、日蓮正宗では宗祖日蓮大聖人以来、葬儀や法事に当たって、僧侶が導師を務め、引導・回向をしていたことは明らかです。
 迷い苦しむ衆生を救うことが僧侶の使命なのですから、生者死者にかかわらず、僧侶が御本尊のもとに儀式を執行することは、当然なのです。
 したがって、日蓮正宗における僧侶を導師とする葬儀のあり方が、釈尊の教えに背くなどということは断じてあり得ないのです。むしろ、小乗経典の一文を振りかざして宗門攻撃にやっきとなっている創価学会こそ、いっそのこと小乗教団にくら替えしたほうがよいのではないでしょうか。
 なお、創価学会は「宗門では、僧侶ぬきの葬儀は堕地獄といっている」と吹聴していますが、これは創価学会が、宗門からの「通告文」の一部を歪曲して作り上げた言い掛かりです。
 宗門から創価学会に宛てた「通告文」には、
 「創価学会独自に僧侶不在の葬儀を執行するならば、それは下種三宝の意義を欠く化儀となり、決して即身成仏の本懐を遂げることはできません」(大日蓮 平成三年十一月号七六㌻)
とあります。すなわち、創価学会の友人葬などは、下種三宝に背き、正法の僧侶に怨念をもって執行する儀式ですから、決して即身成仏はできないということです。
 要するに、大御本尊と唯授一人の血脈に随順した日蓮正宗の法義に則った葬儀でなければ、成仏は叶わないということです。


第六章 二十三、宗門は、葬儀において本来必要のない「導師本尊」や「引導」などを権威づけの道具に使っているのではないか


葬儀について