日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第二祖日興上人の御生涯

正林寺御住職指導(H26.3月 第122号)  

 いよいよ明年の三月八日には第二祖日興上人の御生誕七百七十年をお迎え致します。
 日興上人は、寛元四(一二四六)年三月八日、甲斐国大井荘鰍沢(山梨県鰍沢町)に誕生され、幼少より、駿河国蒲原荘(静岡県富士川町)の天台宗寺院、四十九院に登られました。
 日興上人が十三歳の時、大聖人が一切経を閲覧するため実相寺を訪れました。その後、大聖人は『立正安国論』執筆の準備をされます。その時、日興上人は大聖人の弟子となり、生涯、大聖人への常随給仕を尽くされます。
 大聖人は、弘長元(一二六一)年に伊豆、文永八(一二七一)年に佐渡と、二度の配流を受けられましたが、日興上人はいつも大聖人にお供され、大聖人が末法の一切衆生を救済する御本仏であられることを、弟子の中でただ一人信解されていました。大聖人は、その日興上人に仏法の奥義を余すところなく伝授されたのです。
 大聖人は佐渡配流を赦免になられた後、日興上人の案内で身延に入られます。身延は日興上人の教化を受けた波木井実長の所領であり、この入山も日興上人を信頼されてのお振る舞いでした。 

 日興上人は、大聖人へのお給仕のかたわら折伏弘教のため、しばしば身延から富士に赴かれました。やがて、富士方面にも大聖人の仏法が弘まり、富士の滝泉寺という寺では、寺の住僧や近辺の神社の氏子、小作人の農民が次々と大聖人の門下になっていきました。
 これに危機感を募らせた滝泉寺院主代の行智は、農民らが他人の田畑を勝手に刈り取ったとして召し捕り、幕府の威勢によって改宗を迫ろうと企てたのです。そして苅田狼籍という不当な罪を着せられ、二十名が幕府の評定所に連行され、過酷な拷問を受けました。
 苅田狼籍の首謀者に仕立て上げられた神四郎・弥五郎・弥六郎の三名は、最後まで信心を貫き通し、拷問の末、正法に身命を捧げました。
 この非常事態の中でも、熱原の農民は退転することなく、大聖人の仏法を貫き通したのです。これら一連の出来事は「熱原法難」と呼ばれ、読み書きすらできない農民が不自惜身命の信心を貫き、七百数十年を経た今なお大聖人との師弟相対の誠を示した門下随一の信心の鑑として讃えられています。このことが大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕される大きな機縁となりました。
 このように、日興上人の弘教は、常に大聖人一期の御化導と密接に関わっているのです。 

 大聖人は御入滅に際し、御自身の御魂魄を留められた本門戒壇の大御本尊、および法義のすべてを日興上人に血脈相承されました。何故、大聖人は日興上人を選ばれたのか。それは、日興上人ただお一人が、常に大聖人を末法の仏様として正しく拝し、師弟相対の信心を全うされたからです。私たちが大聖人の仏法の功徳に浴することができるのは、日興上人の厳格な仏法伝持の功績によることを忘れてはなりません。
 日蓮大聖人は、弘安五(一二八二)年十月十三日、武州池上(東京都大田区)において御入滅されました。
 御入滅に際し、大聖人は正統の後継者として日興上人を選定され、一期の弘法のすべてを日興上人お一人に血脈相承されました。これによって日興上人は、一宗の棟梁として、大聖人が御入滅までの九ヵ年を過ごされた身延山久遠寺の別当(住職)となられたのです。
 また、大聖人は、御自身の墓所を身延に定め、本門弘通の大導師として常駐される日興上人のもと、その他の弟子が交代で墓所を守るべきことを御遺言されました。
 しかし、日興上人に背反した五老僧たちは、その定めを守ることなく、大聖人の一周忌・三回忌法要にも参詣しないという不知恩の態度を示し、二年余りもの断絶状態が続きました。 

 そうした中、五老僧の一人である民部阿闍梨日向が身延に登山してきました。日興上人は日向を大いに歓迎し、住職に次ぐ地位の学頭職を与えて教導の補佐に当てられました。
 ところが日向は、厳格に大聖人の謗法厳誡の精神を貫く日興上人の御指南に反発し、やがて数々の謗法を容認するようになったのです。また、身延の地頭であった波木井実長は、日興上人の教化を受けて入信したのですが、次第に仏法より世法を重んじ、迎合する日向に感化されていき、身延は謗法の山と化してしまいました。
 大聖人は、御在世中、実長の薄弱な信心を予見されていました。このため日興上人に対して、
「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(日蓮正宗聖典555)
と、地頭が謗法を犯すような事態になれば、身延を離れるように御指南され、さらに、
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書1675)
と、広宣流布の根本道場たる本門事の戒壇は富士山麓に建立すべきことを御遺命されていました。正応二(一二八九)年春、日興上人は意を決し、大聖人の御遺命に従い、大聖人の御魂魄たる大御本尊と御霊骨をはじめ一切の重宝を捧持し、身延を離山されて富士上野の地に移られたのです。 

 正応三(一二九〇)年十月十二日、日興上人は南条時光殿の外護のもと、大石寺を開かれたのです。大石寺の開創と共に日興上人は、日目上人を正法伝持の後継者とお認めになり、大聖人よりの血脈法水を内々に付嘱あそばされました。大石寺開創の翌十三日に、日興上人が御書写された大幅の御本尊が日目上人に授与されました。現在も、総本山客殿に譲座御本尊として御安置されています。
 永仁六(一二九八)年、日興上人は日目上人に大石寺を譲られ、御自身は大石寺より東に二キロほど離れた重須の地に談所を開創されます。談所とは、弟子に対し法門を講義する場所ということです。このとき、正式に日興上人は一宗を代表する大導師の立場を日目上人に譲られ、御自身は後進の育成に当たられたのです。
 日興上人は、元弘三(一三三三)年二月七日、八十八歳を一期として御遷化されます。御遷化に際し日興上人は、大聖人より賜った広宣流布の御遺命を改めて日目上人に託され、『日興遺誡置文』を定め、ここに広宣流布達成のための万代の亀鑑が示されたのです。
 私たち日蓮正宗の僧俗は、日興上人の御精神と御振る舞いを正しく拝し、血脈付法の御法主上人猊下御指南のもと広宣流布に向かって異体同心の信行に励むことこそ、日蓮大聖人が仰せの信仰そのものであることを忘れてはならないでしょう。