日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第三祖日目上人

 

正林寺御住職指導(H21.11月 第70号)

  第三祖日目上人は文応元年、伊豆仁田郡畠郷(静岡県函南町畑毛)に御出生され、日蓮大聖人に常随給仕を尽くされ、大聖人より命を受けて天台僧の伊勢法印と十番問答を行い論破されるなど、大聖人御入滅の後には、日興上人に随順して、「墓所輪番制」により、大聖人の祥月命日にあたる十月の香華当番を勤められました。
 日目上人は、奥州・関越・東海の各地に弘教され、特に有縁の地である奥州(宮城県)において数多くの人を教化折伏なされ、その地に奥四カ寺といわれる上行寺・本源寺・妙教寺・妙円寺を建立されました。

 日目上人は、日興上人の身延離山にお供をされ富士へ移られ、大石寺大坊が創建された翌日の正応三年十月十三日に日興上人から血脈の内付嘱を受けられ、蓮蔵坊に住まわれました。
 そして、永仁六年二月に日興上人が重須の地に移られた後は、大坊に入られ大石寺の維持と興隆の責任を一身に担われています。
 元弘二年(正慶元年)十一月、日目上人は日興上人から『日興跡条々事』を授けられました。この書は、前の仏法内付の証であるとともに大石寺の譲り状として記され、日目上人を一閻浮提の座主と定められたものです。

 日目上人は広宣流布のため、為政者への諌暁を続けられ、その数は四十二度にも及んだと伝えられています。元弘三年(正慶二年)には百五十年間続いた鎌倉幕府が滅亡し、京都に天皇を中心とする政治体制が敷かれることになりました。
 日目上人はすでに高齢でしたが、好機として天奏の決意を固められ、同年十月、直弟子の日道上人に唯授一人の血脈を相承され、翌十一月、日尊師と日郷師をお供として京都へ向かわれました。
 しかし途中、美濃の垂井(岐阜県垂井町)の宿に至って病床に伏され、日尊師・日郷師に天奏の完遂と日道上人への報告を遺言して、十一月十五日、七十四歳で入滅あそばされました。宗門では日目上人に御報恩申し上げるため目師会が十一月十五日に奉修されます。

 なお補足として、『日興跡条々事』の偽作説が、まことしやかにささやかれている現実があり、信じている方がいます。偽作説を主張する方には、第五十九世日亨上人の『富士宗学要集』に収録の『富士史料類聚』「第二僧俗譲状置文及び官憲文書等」(富要8巻17~18頁)を確認頂き、さらに高橋粛道師の著書『日蓮正宗史の研究』の「日興跡条々事」(278~291頁)を一読され、偽作説を改められることを望みます。