第十項
創価学会が言う「本尊について御書には何と書いているか知っているのか?」の妄説を破折する
(10)本尊について御書には何と書いているか知っているのか?
日顕宗は古い葬式仏教の本尊論を振りかざして純真な学会員を騙そうとしますが、そもそも御書に書かれている本尊観・本仏観を根本にすれば全ては明らかになります。しっかりと第三の千年の人間観を打ち立てましょう!
ここでは「本尊について御書には何と書いているか知っているのか?」という表題で色々なことを言い、相変わらず謗法の我見によって大見栄を切っておるわけです。しかし、真の大聖人様の本尊義は、日興上人より日寛上人乃至、歴代上人へ相伝されております。
まず、この創価学会の憍慢な言に対し、彼等が大謗法につながる教学上の悪癖を指摘しておきましょう。それは、法(仏)と機との関係において、機を中心として法を解釈することです。
具体的には、池田大作如き底下の凡夫が、御書中、下種仏法に約しての御本尊の人法に関する種々の法語を直ちに自分に当てはめ、例えば「人法一体」とは組織と自分の一体化だとか、「倶体倶用」の体とは俺のことだと誇るようなことです。これらを観心偏向と言って、教学上、信仰上のひどい誤りを生じます。すなわち「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂う」、いわゆる増上慢となり、ついには「謂己均仏」の邪宗禅にも通じて、三悪道に堕すに至るのです。『上野殿御返事』に、
「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」(御書一二一九)
と示されるとおりなのです。この「等」の字は在家を含んでいます。
すなわち、池田大作の如く、うぬぼれ、憍慢、臆病、鼻持ちならぬエセ人格、それでいて執拗な我執による確信があるため、その悪縁に連なる者どもの魂を抜いて、利欲生活にからめつつ、勝手次第に引き回し、弟子として悪用します。これが池田創価宗の実体であり、その教学という代物は、自我中心の執着による狂った愚見をいよいよ構築しつつあるのです。
創価学会が自らの非を棚に上げて三類の強敵なるものを邪想し、法華経の行者の位を勝ち取ったとか、池田が大聖人より二人目の法華経の行者だとか、途方もない大嘘を言い出すのもそれであります。
「しっかりと第三の千年の人間観を打ち立てましょう」などの自画自賛は、あらゆる宗教、特に日蓮正宗を否定して創価外道宗を打ち立てる野望であり、まさにその愚かな世迷い言を述べているのであります。
創価学会などは、たかが昭和の初期に信徒の形で現れた団体でありまして、本尊と御書の深い実義の関与にはあずかっていない、表面上の見解のみなのであります。しかるに、「御書には何と書いているか知っているのか」などと、憍慢千万にも御書の文証の一部分だけを頼りにしている。しかし、御書の素人読みによる観心偏向は、かえって我意・我見や邪見を増すのみであり、池田や秋谷の言う「御書根本」の狂いは、まさにその好い例であります。
御書においては、三大秘法、御一代の施化において順序次第がある。また、開合があり、附文・元意があり、文義の隠顕があり、三重秘伝、教相・観心、仏意・機情、文・義・意等、重要な意が含まれているのであって、これらの大切な所伝を日興上人は、
「御抄を心肝に染め極理を師伝して云云」(同一八八四)
と仰せであります。
すなわち、これらの御書の解釈の始末と、さらに本尊、三大秘法の実体・実義は、ただ日蓮正宗にのみ存するところであります。創価学会は、ただやみくもに文を挙げ、曲がった信心を自覚せず、「信心をもって南無妙法蓮華経と唱えれば、我等は仏である」という無知を顕しているのであります。
思うに、あらゆる日蓮門下の邪宗も、すべて御書を根本と称しているのです。しかるに、その解釈、立て方が中心を外れて狂っておる故に邪義となっておるわけです。創価学会の「御書根本」も、我見をもって中心の相伝血脈の法義に逆らう故に、すべての文の解釈が仏法上の正しい深意に背き、能所混乱となり、狂ってきておるのである、ということを申し述べておきます。
①「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(P.760)
②「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(P.1244)
③「所詮妙法蓮華経の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」(P.512)
④「此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり」(P.412)
⑤「我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり」(P.1304)
⑥「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」(P.1446)
⑦「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(P.754)
⑧「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ(中略)凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(P.1358)
⑨「法体とは南無妙法蓮華経なり」(P.709)
⑩「法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり」(P.711)
⑪「如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり」(P.772)
⑫「法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり、大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり」(P.825)
⑬「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」(P.230)
⑭「今日蓮等の類の意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮が弟子檀那等なり、されば無作三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(P.752)
(注・各引用文先頭の丸数字は、読者の便宜のため、文責者が挿入した。)
ここでは手当たり次第に御書の十四文を羅列しており、その一々について特に創価学会の付け加えも解説もないのですが、これらの御文に対する彼等の解釈には、その根本に観心偏向、未得謂得、未証謂証の憍慢者たる池田の流れを汲む錯乱ある故に、仏法の本義・大義をもすべて自己の所有とする我所見となり、大なる如き破法が存在することは、推測に難くありません。
したがって、差し当たり、この諸文についての正式の解釈をごく簡略に述べ、顛横の見解に対する頂門の一針とするものです。まず、
最初①の文は『御義口伝』の文で、下種本仏宗祖大聖人の法華経の行者の深い御内証を、末法弘通三大秘法の随一たる本門の本尊として示されたのです。
②番目は『日女御前御返事』における、末法の正しい大聖人の御本尊による二而不二の衆生の大功徳を示された文で、池田崇拝の邪信・創価学会の者どものことではありません。
③番目は『当体義抄』の文で、下種本門事行の上の妙法受持の功徳を仰せられています。これも正法正師の正義に基づいて、初めて可能なのです。
④番目は『一念三千法門』の文で、佐前早期の御書のため、直ちに本門の構格による妙法受持の法軌を示されず、天台の理の一念三千を一歩進めて本門の仏身に論及される観念成仏(受持成仏に対する)の文です。故に、
「是をしるを如来とも聖人とも悟りとも云ふ」(御書一〇七)
と仰せなのです。しかし、その元意に寿量文底の妙法受持、事行の一念三千成仏義が秘められているのです。この文をもって、短絡的に「我が身が三身即一の仏身」などと言うのは、野狐禅の素人法門となるのです。
⑤番目は『阿仏房御書』の文で、大聖人の直弟子として南無妙法蓮華経と久遠元初名字の妙法を唱える、宝塔寂光の住処の功徳を示し給うのです。
⑥番目は『船守抄』で、これも文の表面にのみ引っ掛かる創価学会の者どもの短絡的な迷いに陥り易い文ですが、この「衆生」とは宗祖大聖人の下種本仏の御内証、三身即一身の上の法身、すなわち、宗祖大聖人の己証なのであり、創価学会の如き邪信の衆生のことではありません。
⑦番目の『御義口伝』寿量品の文は、南無妙法蓮華経の宝号を持つ本仏大聖人の弟子・檀那の当体蓮華仏たる功徳を示された文です。この「弟子」とは、続いて「檀那」という語があるから、この場合は出家を意味します。下種仏法の万年流伝中、僧としての出家は欠くべからざる存在で、これを否定し、悪し様に罵る創価学会は、弟子の資格も檀那の資格もなく、この文意から全く外れているのです。
⑧番目は有名な『諸法実相抄』の文で、体本用迹に約して久遠元初人法一箇の本仏と色相荘厳の釈迦・多宝との本迹の違いを判ぜられたのです。この、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし云云」(同六六五)
とは、『総勘文抄』の、
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同一四一九)
と示された、凡夫即極久遠元初自受用身のことであり、一般の凡夫のことではありません。まして十四誹謗のすべてに当たる、池田大作・創価学会のことではないのは当然です。池田大作・創価学会は、この「凡夫」を直ちに自分達のことだと短絡しているのです。
⑨番目に挙げているのは『御義口伝』の冒頭の文です。附文の辺は法華経品々の題目ですが、元意の重では久遠名字の妙法、三大秘法惣在の南無妙法蓮華経なのです。この「法体」を一般凡夫とか創価学会員と言うのは、前者は約理のみの見方、後者は謗法・破法の滅徳により該当しないのです。
⑩番目はやはり『御義口伝』に「仏所護念」を説かれるなかで、護念の体を南無妙法蓮華経と示されて七種に約釈されるなかの第六・法体に約すの文です。これは久遠本仏の常住三身相即中の法身、応身の内容を示されたものであります。本仏妙悟の法界中の衆生なのであり、そこに具する本有の慈悲なのです。謗法の創価学会の者どものことではありません。三世を貫く一切衆生の仏性を仰せなのです。
⑪番目の『御義口伝』の文は、まさしく如来の持ち給う一切衆生引導の大施主の意義を御指南であり、特に末法出現の上行菩薩たる大聖人御自身を仰せであります。池田大作のことではありません。
⑫番目の文は『御講聞書』の法華経の行者に関する大難の文で、この総意は特に『開目抄』に明らかです。十四誹謗の創価学会とは、全然、懸け離れた御文です。
⑬番目の『開目抄』の御文は、大聖人様がまさしく法華経の行者であることを決定あそばす、重大な条件を示し給う文です。池田大作や創価学会は、この「三類の怨敵」の一分であり、それは勧持品の三類を示す経文にまことに明らかです。まして彼等が法華経の行者の位を勝ち取るなど、天をも望む莫迦さ加減であり、自らの数々の悪心・悪業を反省しない外道なのです。
⑭番目の文は『御義口伝』寿量品の、如来に関する総別を示し給うのですが、その主旨は前にも論じた如く、本仏日蓮大聖人と、その教えを正しく持ち、真の広布に向かう日蓮正宗の僧俗のことなのです。もちろん、別して究竟即の無作三身とは、一天に二日なく、三世にただお一人の法華経の行者・宗祖大聖人であります。池田大作が身のほども顧みず「大聖人より二人目の法華経の行者」などと言い、また、会員に言わせることは、この御文の正意に背く大謗法なのであります。
以上、ごく簡略に彼等の挙げる文について、その邪解を見越した意味から正義を述べましたが、このように、本尊人法の法体、修行、開合、境智冥合等の文義を順序不同に羅列するところ、山に入って山を見ざるが如く、その誇示し誇揚するところの「御書根本」というものは、深く信によって拝さねばならぬ尊い大聖人の御書の文義を、自己中心の観心偏重の邪義をもって能所を混乱する三宝背反の解釈にある、と断ずるものであります。
もちろん、これらの御書の解釈の正義と、本尊、三大秘法の実体・実義は、ただ日蓮正宗にのみ存するところである、ということを申し述べておきます。
要するに、創価学会が、日寛上人書写の、大行阿闍梨本證坊日證師に授与された本尊を勝手に印刷し会員に配布することは大謗法であるが、さらに克明に数えれば、次の如き謗法の理由が存するのであります。
一つには、血脈相伝の大義、下種三宝の御法魂に背き、仏意に反する。したがって、その形骸のみの本尊に仏意と三宝の法魂は全く存在しない。故に三宝欠除の『ニセ本尊』である。
二に、歴代各上人の御本尊のすべては、もぬけられて本尊の法魂は現法主の承るところにあり、その大義に背いて血脈上の本尊を勝手に作るのは、池田と創価学会の魔性が入っている故に魔性・魔心『ニセ本尊』である。
三に、日寛上人も代々の血脈伝承によって本尊を書写せられているのです。その血脈上の本尊を邪まに掠め取るのは簒奪の所業であり、したがって無許可簒奪の『ニセ本尊』である。
四に、その資格のない者が、勝手に血脈上の本尊を印刷、配布するは、つまり授与するのは血脈相伝の仏法上の道義に反します。すなわち非道の『ニセ本尊』である。
五に、無知の会員を誑かすため、形のみ似せた本尊を示すは、仏法の精神なく形骸のみであり、唯物形骸の『ニセ本尊』である。
六に、日寛上人は本来、大行阿闍梨本證坊日證師に授与されたのであり、その授与書きを勝手に抹消し、変造しています。すなわち、ほしいままに本尊を変造する大逆であり、変造の『ニセ本尊』と言うべきである。
七に、日寛上人の書写本尊を用いつつ、日寛上人の御意志、大行阿闍梨本證坊日證授与のお心、すなわち、日寛上人に背く背逆の『ニセ本尊』である。
八に、長い間、池田や創価学会で言ってきた宗門の法主への血脈尊敬と、近年まで現法主の書写本尊を信仰せしめてきた現実に矛盾する。これ、矛盾撞着・自語相違の『ニセ本尊』である。
また、創価学会が自らを「未曽有の仏意仏勅の団体」と言うのが、そもそも大きな誤りであります。本来の仏意仏勅、広布の宗団は日蓮正宗であり、創価学会はその派生団体に過ぎないのです。
その派生団体も、本体の血脈仏勅宗団に従っているうちは、仏勅団体の一分の意義があったけれども、池田を中心とする悪逆・背反が明らかとなって以来、全く仏意仏勅団体の傘下より懸け離れた謗法団体となったのであります。だから創価学会が、自ら仏意仏勅団体であると自画自賛しているが、これは憍慢であり、うぬぼれであります。
故に、創価学会が、大聖人直結の信心の血脈があるところに本尊授与の資格があるとの理由により本尊を作るということ自体、大謗法であります。
そういうところから、もう一つ見方を変えて、十四誹謗のほうから考えますと、創価学会は、
一に、自ら本尊に関する権能がないにもかかわらず、ありとする思い上がりは「憍慢謗法」である。
二に、正しい大聖人の本尊の伝承は、七百年来、血脈法水にあるにもかかわらず、これを無視して本尊偽造を企てるのは「計我謗法」である。
三に、下種三宝万年の相伝を否定し、その本義に背いてよしとするは、三宝の深義を知らぬ「浅識謗法」である。
四に、宗門を恨み、貪瞋癡の三毒の感情をもって本尊を変更すること、また、それによる利得を図るは、共に貪瞋癡の「著欲謗法」である。
五に、下種三宝の正流を信ぜず、背逆の本尊を作るは「不信謗法」である。
六に、下種三宝の正流が三世常住である鉄則を、ありうべからずと疑うのは「疑惑謗法」である。
七に、下種三宝の正流を悪口罵詈、妄語をもって謗り、その結果として『ニセ本尊』を作るのは「誹謗謗法」である。
八に、「軽善」「憎善」「嫉善」「恨善」は、すべて下種三宝と御本尊の正脈に対する背反であり、『ニセ本尊』の作為はまさにこの四つの誹謗に当たっておるということを申し上げて、創価学会の『ニセ本尊』についての十カ条に関する、私の破折とする次第であります。
(文責・大日蓮編集室)
