この御文は、釈尊の仏法において、法華経を信ずる者は戒を持つことになると明かされたもので、この文の前には「爾前の十界の人、法華経に来至すれば皆持戒なり」とあるとおりです。
ですから、この御文をもって「僧侶による授戒は不要だ」などというのは、的はずれのいいがかりにすぎません。
本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきたものであり、即身成仏のために大事な儀式なのです。
もし、今になって「御授戒は必要ない」というなら、近年、何百万という人が御授戒を受け、日蓮正宗に入信された事実はどうなるのでしょう。御授戒は無駄なことであった、とでもいうのでしょうか。
大聖人様は『御義口伝』に「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり」(全集 七五二頁)と仰せられておりますし、日寛上人の『福原式治状』にも、「本尊等、願の事。之れ有るにおいては、遠慮なく申し遣べし(中略)たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」とあり、当時、御授戒がな行われていたことが明らかです。
