日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

教主釈尊に六種の不同あり

正林寺御住職指導(R7.4月 第255号)

 宗祖日蓮大聖人から唯授一人の血脈相承における口伝があります。その口伝(金口)には、教主釈尊に六種の蔵・通・別・迹・本・文底といわれる名同体異の相伝があります。金口を金紙としてお遺しあそばされた御法主上人猊下が、総本山第26世日寛上人でいらっしゃることを、富士の立義として拝信申し上げます。

 その富士の立義、日寛上人の『観心本尊抄文段』に、
「『教主釈尊』の名は一代に通ずれども、その体に六種の不同あり。謂く、蔵・通・別・迹・本・文底なり。名同体異の相伝、これを思え。第六の文底の教主釈尊は即ちこれ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、これを思え云云。」(御書文段270)
と、富山の蘭室の友に交わるための根幹を御教示であります。この御教示は、誠に有り難いことに唯授一人の金口を末法時代の時の流れにより、本門戒壇の大御本尊に秘められた御仏智に触れて顕現あそばされ、日寛上人は金紙として現されたことを信受申し上げることが大事であります。
 まさに日寛上人は『三宝抄』に、
「本門寿量は我が内証の寿量品即ち是れ法宝なり。教主とは本因妙の教主即ち是れ仏宝なり。金言とは金口相承即ち是れ僧宝なり。」(歴全4巻372)
と、三宝一体との御境界から御指南あそばされたと拝します。

 西暦1052年から始まった末法時代に入り、令和7年(2025)は973年になりました。この年の4月は、釈尊誕生の日と大聖人の宗旨建立の日が重なる月にあたり、教主釈尊に六種の口伝・相伝があることを、富士の立義として心肝に染めることが大切な月になります。

 さて、この末法時代に入り973年が経過した現在、釈尊の仏法において特に本尊観は「群盲索象」が著しい雑乱状態ではないでしょうか。その状態を精査するために、六種の名同体異の相伝を知り、名異体同の口伝を拝信申し上げることが大事であります。

 御法主日如上人猊下は「平成28年度 第13回 法華講夏期講習会 第2期」の折りに、
「この『教主釈尊』という言葉には御法門の上から言って非常に深い意味がありまして、分類しますと六つの意味が含まれているのであります。つまり、同じ教主釈尊という言葉のなかに、蔵教の釈尊、通教の釈尊、別教の釈尊、法華経迹門の釈尊、法華経本門の釈尊、本門寿量品文底の釈尊というように、六種の釈尊が存するのです。それを単純に『なんだ、教主釈尊と示されているのだから、やっぱりお釈迦様ではないか』と考え違いをしているのが他門の人達です。皆さんは解っているでしょうから、あえて言うまでもないことでありますけれども、この『教主釈尊』という言葉は、六種の解釈ができるのです。そして大聖人様が、この文で『教主釈尊』とおっしゃっている意味は、まさしく法華経本門寿量品文底下種の教主釈尊、つまり末法下種の御本仏である宗祖日蓮大聖人様のことを述べられているのであります。
 さらに『御義口伝』を拝しますと、
『此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付嘱是なり。如来とは釈尊、ほんこれ総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、むさたぐい総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是なり』(御書1765)
とお述べになっております。
 こういった御文から拝しまして、説くところの教主釈尊にしても、大聖人様はきちんとその意味を使い分けられているのでありますから、それを我々はしっかりと拝読していかなければならないのであります。」(大日蓮 第846号 H28.8)
と、教主釈尊に六種の不同あることを御講義あそばされました。

 教主釈尊に六種の不同ありとは

①蔵教の釈尊
 低級な衆生に応じて現われた、一丈六尺(約五メートル)の仏、丈六の劣応身といわれます。天台大師の『法華玄義』に、
「多多婆和」(法華玄義釈籤会本 上59)
とあります。
 多多は、幼児の歩行、婆和は幼児が発する言葉を意味し、蔵教の仏は、幼児のように未成熟な仏であるという意味。この釈尊は、主として二乗に対して「但空の理」を説きました。

②通教の釈尊
 先の蔵教の衆生よりも勝れた衆生に応現する仏であることから、勝応身といいます。
 万物は「空」の一面だけでなく、因縁が仮和合した「仮」の一面、空に非ず仮に非ずという「中」の一面もあると「不但空の理」を説きました。

③別教の釈尊
 さらに機根の高い衆生に対して教えを説く他受用報身で、華厳経の教主である盧舎那報身仏のことを指します。
 他受用とは、他の機類に対して法益・法楽を受用させる仏のことで、別教の高位の菩薩に対し、「但中の理」を説きました。

④法華経迹門の釈尊
 娑婆世界を次第に寂光土に変え、仏の身の上に円教の法身仏を顕わした応即法身の仏です。この釈尊は十如実相を示し、万物はそのまま空であり仮であり中であると空仮中の円融三諦を説きました。

⑤法華経本門文上の釈尊
 『寿量品』に、
「是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」(法華経433)
と、五百塵点劫の久遠に成道し、衆生を教化してきた久遠実成の釈尊です。この本門の釈尊の説いた『寿量品』の説法により、在世の衆生はことごとく得脱したのです。
 蔵教の応身仏が次第に昇進して久遠実成の本地を明かした、本門文上の釈尊は、自らの意のままに法の利益を受け用いる仏であるため「応仏昇進の自受用身」といいます。

⑥法華経本門文底の釈尊
 『寿量品』の文上には、釈尊が久遠五百塵点劫に成道し、衆生に渇仰、尊崇の念を起こさせるために仏が三十二相・八十種好と言われる様々な相好をもってその身を飾る、色相荘厳の仏になったことが説かれます。
 しかし、『総勘文抄』に、
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し」(御書1419)
と仰せのように、実は釈尊は五百塵点劫で成道したのではなく、それよりも遥か以前の久遠元初において凡夫の身のまま即座開悟したことが、大聖人によって初めて説き明かされました。この仏が、『寿量品』の文底に秘沈された久遠元初の自受用身であり、文底の釈尊です。
 この仏について、日寛上人は『法華取要抄文段』に、
「久遠元初の自受用身とは本地自行の本仏、境智冥合の真身なり。故に人法体一なり」(御書文段541)
と、久遠元初の自受用身こそ、妙法蓮華経の本法と体一をなす文底下種の御本仏であることを仰せです。
 種脱相対の脱益仏法の本門文上の釈尊は、
「色相荘厳の仏は迹中化他の迹仏にして、世情に随順して現ずる所の仏身なる故に人法に勝劣あり」(御書文段541)
と、久遠五百塵点劫における釈尊は色相荘厳の方便を帯した垂迹化他(迹中化他)で、仏が衆生教化のために本より迹を垂れて出現すること。本仏ではないということを仰せです。

 ゆえに、御法主日如上人猊下は、
「如来には十号があるのですけれども、また、この『釈尊』という語のなかにも、実は六種の意義が存しているのです。
 すなわち、お経のなかには蔵・通・別・円の四教があるのですが、この四つの教えのそれぞれに、その教えを説く釈尊がいるのです。つまり、第一に蔵教の釈尊、第二に通教の釈尊、第三に別教の釈尊があるのです。
 その次が円教の釈尊ということになりますが、この円教とは法華経のことで、その法華経は迹門と本門とに分かれているでしょう。その上から、第四に法華経迹門の釈尊、第五に法華経本門文上の釈尊があるのであり、さらに第六に法華経本門文底の釈尊という、六種の釈尊があるのです。
 この第六の文底の釈尊とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を説かれる仏様ということです。この仏様こそ、まさに本有常住の仏、久遠元初の自受用報身如来のことで、根本の仏であります。この御本仏が末法に出現せられて、本因下種の南無妙法蓮華経を顕されたのであり、それが宗祖日蓮大聖人様なのです。ですから、成仏の根本因を教示あそばす仏様であるから『本因妙の仏』と申し上げるのであります。
 『百六箇抄』には、
『自受用身は本、上行日蓮は迹なり。我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり』(御書1695)
とありまして、法華経本門文底の釈尊は久遠元初の自受用報身如来であり、それは末法の御本仏である宗祖日蓮大聖人様のことを指すのであります。
 しこうして、この『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり』との仰せは、如来について総別の二義があることを御教示されているのです。」(大日蓮 第848号 H28.10)
と御講義あそばされました。

 日蓮正宗の僧俗が尊崇申し上げるべき「教主釈尊」とは、種脱相対の上から第六の文底の教主釈尊である日蓮大聖人と拝することが非常に大事であります。

 最後に、創価学会員さんへの折伏には、『創価学会教学要綱』に記載された釈尊について、「蔵・通・別・迹・本・文底」と説かれる何れの釈尊に該当するのか問うことも必要でしょう。
 もし、御存じではない会員さんには、創価学会や聖教新聞社から出版された「仏教哲学大辞典 第三巻」の項目「釈尊」(465頁)、「新版 仏教哲学大辞典」の項目「釈尊」(834頁)、「仏教哲学大辞典 第三版」の項目「釈尊」(776頁)、「御書辞典」の項目「釈尊」(472頁)を確認されることをお勧めいたしましょう。

 

宗祖日蓮大聖人『上野殿御返事』に曰く、

(ねが)はくは()弟子(でし)()大願(だいがん)ををこせ。去年(こぞ)去々年(おととし)やくびゃう(疫病)()にし人々(ひとびと)のかずにも()らず、(また)当時(とうじ)蒙古(もうこ)()めにまぬか()るべしともみへず 。とにかくに()一定(いちじょう)なり。()(とき)(なげ)きはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかり()にも法華経(ほけきょう)のゆへに(いのち)をすてよ。つゆ()大海(だいかい)にあつらへ、ちり()大地(だいち)うづ()むとをもへ。」