第十二項 本門戒壇の住処を煩わしきものとする悩乱・顛狂の暴言を破折する
戒壇の大御本尊に御目通りするのが正しい信心である。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)
どこにそんなことを書いた御書があるのでしょうか!文証を示してみなさい!御書には、
『法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや乃至此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり』(P.72) (※守護国家論)
(通解:法華経を修行する者がいる所を浄土と思うのである。どうしてわずらわしく自分がいる以外の所を求めようか、もとめはしないのである。この経を信じる人のいる所はそのまま浄土である。)
『我等が居住して一乗を修せん所は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し』(P.1343) (※最蓮房御返事)
(通解:我々が住んでこの妙法を修行する場所は、どんな所であれ寂光の都である。我らの弟子檀那となる人は、一歩も歩かずに天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復する事は、表現できないほどうれしいことである。)
また、有名な『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(P.1244)との御指南もあるではありませんか! (※日女御前御返事)
『霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり』(P.757) (※御義口伝)
(通解:霊山とは御本尊の安置してある所、並びに日蓮等の類いで南無妙法蓮華経
と唱え奉る者の住所を言うのである。)
とあるとおり、何ぞ煩しく他処を求めんや!
この創価学会の言は、一切が虚偽と矛盾に満ちております。
まず、引くところの御書の文証がすべて逆さまであり、顛倒の解釈をしています。
初めの『守護国家論』の文は、所引の文の直前に、
「本地久成の円仏は此の世界に在せり」(御書一五五)
と示され、続く「法華経修行の者」とは、別して言えば日蓮大聖人、総じてはその正法を正しく修行する者であり、まさに大聖人の御法魂にまします御戒壇様と、七百年、連綿として正法を厳護する大石寺を指されているのであります。創価学会のような己義・邪心の者は、根本に背く故に「法華経修行の者」とは言わないのです。
次の『最蓮房御返事』の文は、最初の「我等が居住して」云々の「我等」に主点があることは当然であります。この「我等」とは、御本仏大聖人およびその正しい弟子・檀那であり、すなわち、現在では日蓮正宗の僧俗であります。その修行者の住処の功徳は、本有の寂光土たる戒壇の大御本尊の霊地へ「昼夜に往復」す、と示されております。創価学会の者どもは、絶えてこの功徳にあずかれず、いかなる金殿玉楼にても三悪道を感ずるのです。これまさに、現日蓮正宗の僧俗の功徳をお示しなのであります。
次の『日女御前御返事』の「此の御本尊全く」云々の文も、全く文意のスリ替えです。この文は、日女御前が宿縁薫発して大聖人の御本尊を賜ったことについて、大聖人が日女御前の家に奉安された御本尊に対する信心と心得を説かれたものであり、それだから「身延の日蓮のもとへ参詣しなくてもよい」などとは、ひとことも仰せられていません。要するに、信心の心得と本仏のもとへの参詣とは、全く話の内容が違うのであり、この文をもって参詣不必要の文証に当てることは、まさにスリ替えであり、卑劣な心地をもって御書を偽るものであります。
次の「霊山とは御本尊並びに」云々の『御義口伝』の文は、まさに宗祖大聖人の出世の本懐たる三大秘法の大御本尊まします霊地・総本山大石寺を、意義において指し給う文証です。この文を引いて戒壇の大御本尊の住処を否定するとは、黒白の違いも判らない愚か者、と言うほかはありません。
創価学会第二代・戸田会長の、
「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない」(戸田城聖全集三巻四九〇)
との指導を現在の池田はじめ学会幹部どもは、なんと受け止めるのでしょう。
しかも、「何ぞ煩しく他処を求めんや」と、御戒壇様の住処を煩わしきものと誹謗する。狂った頭には三悪道の学会会館がそれほどよいのでしょうか。まことに無慙無愧な者どもであります。
まして、大聖人は、
『但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり』(P.1056) (※曽谷殿御返事)
と、世間の道理や仏法の道理に照らして誤りのある法主は捨てよ、と宣言され、日興上人も、
『日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還って失にて候と申す法門なり』(編年体御書P.1734) (※原殿御返事)
と、日顕のように大聖人に反逆し、大御本尊を横領し私物化した魔王の化身のような坊主を捨てないのは逆に罪になるとまで御指南されているではありませんか!
次の『曽谷殿御返事』の文はまさに切り文であり、正解は、この、
「誤りある者」(御書一〇三九)
とは、仏法の正義に照らして池田大作や秋谷らであります。その証拠は、創価学会で引く文の直前にあるのです。すなわち、
「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし」(同)
の文を拝すれば、七百年伝統の正宗門家の教導を受けて創価学会が昭和の初めに出来たのを忘れ、派生の創価学会に囚われて心を移したことが、明らかに謗法の邪義とされております。故に、この文は、まさに創価学会を指した誡めであります。
次に、日興上人の『原殿書』の文を引きますが、この文は日向の破法について、これは大聖人に背き奉らせておる故に「日興はこの阿闍梨を捨てて用いざる」旨を述べられたのであります。池田が三代会長として、学会の広布の指揮を執ったにせよ、頭目悩乱して根源の仏法への軽賤や、大聖人を悪しく敬ってお顔に泥を塗り奉る以上、そのような悪逆の人を捨てなければならないのであります。
次に、以上の文により「日顕のように大聖人に反逆し、大御本尊を横領し私物化した魔王の化身のような坊主を捨てないのは逆に罪になるとまで御指南されている」と言います。これを言いたいために、前来の当たらざる文証を挙げたのであり、まさに愚劣極まる誤義であります。
まず、「日顕が大聖人に背く」とはどういうことでしょうか。邪義を唱える謗法団体となった創価学会の誤りを堂々と指摘したことは、大聖人様が喜び給うところであり、クロウ事件とか写真偽造事件はすべて、創価学会の捏造・デッチ上げ事件として、現在、法廷抗争中であります。そのほかに日顕が大聖人に背くと言うなら、それを具体的に示すべきです。文義なき悪口の矢は、自らに向くと覚悟しなければなりません。
次に、前々からも何回となく、くどくどと言い立てるのですが、「大御本尊を横領し私物化した」とは、全く不当の言であります。
大御本尊を伝受し、お護り申し上げるのは今に始まったことではなく、代々の法主上人が一身をもってあそばすところであり、それと全く同様に、現在は日顕がお護りするところであります。御開扉御内拝の方式等、一切、異なりは存在しません。創価学会が邪義、謗法、我慢、偏狭である故に、お参りしないのであります。
これまで、創価学会を脱会しなくとも、個々の会員は日蓮正宗のそれぞれの末寺の信徒として認めてあげており、その人々が信心の志をもって大御本尊のお目通りを願うときは御内拝を許可してきたのであります。自分らに信心さえあれば、いつでも参拝できたにもかかわらず、秋谷をはじめ、道門、俗衆の増上慢どもは自らの心に下劣な垣を造って、勝手に参拝しなかったのであります。
また、純信な全国の法華講員は、三世常住の仏法に、その方式をもって、連日の如く、喜々として御内拝されております。どこが横領、私物化なのでしょうか。道理に背く言い掛かりは、まさに顛狂の暴言と言うほかはありません。
『謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事』(P.1618) (※日興遺誡置文)
との日興上人の御遺誡を思えば、誰が天魔などにすり寄って御開扉料を供養などするでしょうか!逆に、大御本尊への御供養というつもりでも、悪に対して供養すると不幸になるのです。
『まことの心なれども供養せらるる人だにも悪しければ功徳とならず、かへりて悪道にあつる事候』(P.1486) (※窪尼御前御返事)
大聖人御在世も今も、大聖人(大御本尊)のすぐ近くに居ながら、大聖人を裏切り、純真な信徒を苦しめた仏敵が数多く出現しているではありませんか。大聖人との物理的な距離と、信心の正邪とは一切関係ないのです。
今度はまた、自分らの悪を棚に上げて、先には日顕が独占し、参詣をとどめたと言い、この所では逆に、謗法不同座、不供養と言いますが、実に前後矛盾し、支離滅裂であります。
しかるに、謗法はことごとく創価学会にあります。その証拠に、
「『謗法払い』については、あくまで原則通り、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません」
(聖教新聞 平成九年二月一一日付)
などと秋谷が公言した如く、学会では謗法払いを不要として、謗法厳誡という尊い精神を自ら捨て去ったではありませんか。このような大謗法の輩に対して、同座はこちらからこそお断りである、と言っておきます。
また、学会は、『窪尼御前御返事』の、
「まことの心なれども、供養せらるゝ人だにもあしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候」(御書一五八二)
の文を根拠として、宗門を誹謗し、御開扉の冥加料を蔑んでおります。しかし、これはむしろ謗法を容認し、また、謗法に与同する邪教・創価学会に、そのまま当たる御教示であります。特に、供養と称して会員から多額の取り立てをする財務や広布基金等は、まさに堕於悪道の所業となりますから、「大御本尊への御供養というつもりでも、悪に対して供養すると不幸になる」などの言は、そっくり創価学会に返しておくものであります。
※『第十三項 御本尊への御供養を「謗施」と誹り、僧侶を侮蔑する我見・忘恩の妄説を破折する』へつづく
