日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

即身成仏(そくしんじょうぶつ)

正林寺御住職指導(R6.6月 第245号)

 一般的な即身成仏の意味は、正直に方便を捨てた意味からは、ほど遠い解釈がされています。
 例えば、人工知能AIの解釈、2024年5月14日OpenAI社からリリースされたChatGPT-4o(オムニ)に問いかけたところ、
「即身成仏(そくしんじょうぶつ)は、日本の密教(特に真言宗と天台宗)における重要な概念であり、生きたままの身体で仏になることを意味します。この考え方は、修行を通じて現世で悟りを開き、仏の境地に至ることが可能であるとするものです。

即身成仏の背景と意味
即身:これは『生きたままの身体』という意味です。
成仏:これは『仏になる』という意味です。(以下省略)」(ChatGPT-4o)
と、人工知能AIの返答がありました。
 白法隠没のため、当然ながら宗祖日蓮大聖人の即身成仏義については一切返答しませんでした。フィードバック(指摘や評価を行うこと。問題解決や成長促進を目的として、軌道修正)できるため、日蓮正宗の教義について指摘いたしました。このフィードバック機能を活用することにより、人工知能AIを正しく学習させることができます。AIの育成です。

 では、日蓮正宗の教義に説かれる成仏とは、死後の成仏のみを願ったり、人間とかけ離れた存在になることではなく、現実生活のなかで私たち自身が、仏のように理想的な人格を形成し、安穏な境地にいたることをいいます。
 即身成仏とは、煩悩に覆われた凡夫の身のままで仏に成ることをいい、自己の生命の奥底にそなわる仏性を開き、安心立命の境界となる最極の功徳をいいます。
 この即身成仏は、小乗教で説くような煩悩をすべて滅することでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るということで、これは日蓮大聖人の仏法を信仰することによってのみ可能となります。
 この即身成仏の境界について『上野殿後家尼御返事』に、
「い(生)きてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(御書336)
と仰せであります。

 大聖人は、機根も低く三毒強盛な荒凡夫である末法の衆生に対し、法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法の御本尊を受持信行するところに、煩悩を持ったまま、即身に成仏できる法門を説き示されました。
 『当体義抄』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。」(御書694)
と仰せであります。正しい御本尊を信じ唱題に励むとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり、苦悩の人生を克服できる力強い生命へと転換されていきます。その徳は今世だけにかぎらず、未来永劫にまで及びます。つまり現当二世です。
 この功徳は、父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、さらに未来の子孫に福徳をもたらすことになります。まさに、法統相続により末法万年尽未来際まで功徳をつなげることができます。

 日蓮大聖人の御書名に唯一、「即身成仏」の文証が記された御書は『戒体即身成仏義』(御書1)であります。御書の異称では、『大田殿女房御返事』(御書1471)の『即身成仏抄』が異称としてあります。
 「即身成仏」ではなく、「成仏」の文証が記された御書名は『一生成仏抄』(御書45)・『女人成仏抄』(御書344)・『草木成仏口決』(御書522)があります。

 御書の文証においての即身成仏は、『御講聞書』に、
「聞とは即身成仏は法華経に限ると聞く事なり」(御書1822)
と仰せであります。正しい仏法である法華経文底下種の教えを聞くことにより真の即身成仏が存します。

 また、
「文々句々六万九千三百八十四字の字ごとに大多勝なり。人法一体にして即身成仏なり。」(御書1825)
と、六万九千三百八十四字の肝要である方便品と寿量品を読誦し、人法一箇の大御本尊を信じて勤行唱題により即身成仏があるとの御教えであります。

 さらに、
「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る男女貴賤(きせん)等、色心本有の妙境妙智なり。父母果縛(かばく)の肉身の外に別に三十二相・八十種好(しゅこう)の相好之無し。即身成仏とは是なり。」(御書1826)
と、種脱相対における即身成仏義を仰せであります。

 そして、
「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、男女貴賤共に無上宝聚(むじょうほうじゅ)不求自得(ふぐじとく)の金言を持つ者なり。智者愚者をきらはず即身成仏なり云云」(御書1833)
と、「無上宝聚」の「宝聚」は法華経に説かれる七譬、⑤貧人繋珠の譬え(五百弟子受記品)と、⑥髻中明珠の譬え(安楽行品)の「繋珠」と「明珠」に拝されます。

 究極は、
「妙法を聞き奉る所にて即身成仏と開くなり」(御書1838)
と。総本山第二十六世日寛上人は『寿量品談義』に、
「仏果を成ずることは因行による、因行を励むことは信心による、信心を進むことは法を聞くによるなり。聞かずんば信心生ぜず、信心生ぜずば修行を怠る。修行を怠れば未来何なる処に生るべしや。仍て歩を運んで聴聞肝要なり」(富要10-183・歴全4-228)
と、寺院へ歩みを運び御報恩御講での妙法を聴聞することにより即身成仏があります。そして、大事なことは末法の御本仏が説かれた「文字の用き」をなす御書に触れて心肝に染めることにより、即身成仏が確実になります。確実性を高めるため、御本尊を拝する時は妙の御文字を拝し奉り、六万九千三百八十四文字の仏である方便品と寿量品を読誦することで、仏は文字に依り衆生を度し、文字は仏の気命(いのち)
なります。ゆえに日蓮正宗での尊い「文字の用き」のことです。


 御法主日如上人猊下も聞の大切さを仰せであり、
「『法華初心成仏抄』には、
『仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起(た)つが如し。地獄には堕つれども、疾(と)く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし』(御書1316)
と、末法本未有善の衆生に対しては『とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし』と仰せられ、あらゆる機会を逃さず、相手に声を掛け、その心田に妙法を下種し、折伏を行じていくことがいかに大事であるかを御教示あそばされているのであります。」(大日蓮 第940号 R6.6)
と、「妙法を聞き奉る所にて即身成仏と開くなり」との具体的な御指南をあそばされております。

 最後に、大聖人は『上野殿御返事』には、
「聴聞(ちょうもん)する時(とき)はも(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心(こころ)あり。水(みず)のごとくと申(もう)すはいつもたい(退)せず信(しん)ずるなり」(御書1206)
と、即身成仏するための「聴聞」の在り方について、非常に大事な御指南をされています。まさに、最高の功徳とは『御義口伝』に、
「功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり」(御書1775)
と仰せであります。
 大聖人の仏法実践の功徳は、転重軽受(重きを転じて軽く受く)・変毒為薬(毒を変じて薬と為す)・現世安穏 後生善処(現世安穏にして後に善処に生ず)・罪障消滅(過去の悪業が消滅する)など、功徳の原理とその実証は無限の果報としてそなわっています。これらの功徳も御本尊へのたゆまぬ清浄な信心により獲得することができます。

 

宗祖日蓮大聖人『上野殿御返事』 に曰く、
「抑(そもそも)今(いま)の時(とき)、法華経(ほけきょう)を信(しん)ずる人(ひと)あり。或(あるい)は火(ひ)のごとく信(しん)ずる人(ひと)もあり。或(あるい)は水(みず)のごとく信(しん)ずる人(ひと)もあり。聴聞(ちょうもん)する時(とき)はも(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心(こころ)あり。水(みず)のごとくと申(もう)すはいつもたい(退)せず信(しん)ずるなり。此(これ)はいかなる時(とき)もつね(常)はたいせずと(訪)わせ給(たま)へば、水(みず)のごとく信(しん)ぜさせ給(たま)へるか。たうと(尊)したうとし。」(御書1206)