日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

外護について②

10.外護者の条件

 以上のことは、信心の在り方が正常でなくなった場合、当然予想されることであって、その防止のために、戸田会長が宗教法人の設立を願い出た際、日蓮正宗からは、次の3項目を守ることを条件としたのである。それは、
 折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
 当山の教義を守ること
 仏法僧の三宝を守ること
である。
 これらの3点について、創価学会が遵守することを確認したことは、当時の『聖教新聞』にも掲載された。また、現在は都合が悪いかもしれないが、『創価学会入門』に、
「戸田第二代会長は、昭和二十六年、二代会長に就任ののち、日蓮正宗の信徒団体であることを前提としたうえで、創価学会を新たに宗教法人として設立したい旨、日蓮正宗宗務院に願い出ました。その理由は、
 『第一に、広宣流布の前進を妨げる大難を創価学会が受
 けて、総本山を外護していくため。
  第二には、将来の広範な折伏活動のうえから、宗教法
 人のほうが、より円滑に運営できる。』
ということでした。
 これに対し、日蓮正宗宗務院より、
 一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
 二、当山の教義を守ること。
 三、三宝(仏・法・僧)を守ること。
という三箇条が示されました。
 創価学会は、昭和二十七年八月、この三箇条を守ることを前提に、独自の法人格を有する団体となり、以来三十年近くにわたり、広宣流布の大願を掲げて活動し、その結果、今日の発展がもたらされました。
 創価学会の究極の目的は日蓮正宗を外護してその興隆をはかり、日蓮大聖人の教えを『広宣流布』することにあります。」
と、このように記されているのである。
 今後、この本を廃刊にしたり、学会員の大嫌いな改竄など、是非しないでいただきたいものである。
 しかし、実際にはこの三原則は、次第に軽視、あるいは無視されるようになっていった。それが、様々な形となって問題化したのが、いわゆる昭和52年の逸脱路線なのである。そして、この逸脱路線の反省として行なわれた、通称「お詫び登山」といわれる、昭和53年11月7日の、創価学会創立48周年記念登山代表幹部会において、その原因が3箇条の不履行にあったことを、池田氏はじめ学会首脳が認めたのである。
 すなわち、当時の北条理事長は、改めて学会の宗教法人設立時の3原則を確認した上で、
「宗教のもつ現代的役割のうえから、在家の宗教的使命の側面を掘り下げて展開したのであります。しかし、そのことが、宗門、寺院、僧侶を軽視する方向へと進んでしまったことも事実であります。
 今、このことを総括するに、問題を起こした背景に、宗門の伝統、法義解釈、化儀等に対する配慮の欠如があったことを率直に認めなければなりません。ともかく、この意識のズレ、配慮の欠如がその後の対応のなかでもあらわれ、そのことが、問題をここまで発展させてしまったのであります。」
と述べ、
「第一に、学会のここ数年の指導、進み方、教学の展開のなかに、正宗の信徒団体としての基本がおろそかになっていたこと、第二に、昨年のような学会の行き方は行き過ぎがあったこと、以上の二点を私ども学会は、とくにわれわれ執行部は、深く反省するものであります。」
と率直に反省し、さらに辻副会長も、
「第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。
 第二には、唯授一人、血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重してまいりたいと思います。
 第三に、学会員の心情には、長い歴史のなかで、しぜんに会長への敬愛の念が培われてきましたが、また、それは当然であるとしても、その心情を表すのに、行き過ぎた表現は避けなければなりません。」
と、再確認と反省の意を表し、また当時の池田会長も、
「これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で、深くおわびいたします。」
と、それまでの学会の行き方を、全国の宗門僧侶の前で、反省懴悔したのである。
 しかし、このように、御先師日達上人の御臨席の下、総本山において、全国の僧侶と学会大幹部を集めて行なわれた一大反省会の懺悔は、
「50周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ」
との、池田氏の発言により、真赤なウソであったことがバレてしまったのである。


11.3箇条の現状

 現在、この3箇条の履行状況はどうであろうか。
 まず、第1条の、
「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」
は、信徒名簿を提出しないことにより、寺院側では完全な信徒の掌握ができていない。したがって、事実上、所属しているとはいえない者が、多数存在している。末寺に所属することの意義は、まずそれによって、日蓮正宗の信徒として所属することに存する。ここに、授戒、本尊下付、法事、結婚式、葬儀等の諸法要を、信徒として願い出ることが許されるのである。また、住職の有する意義も、よく信解されなければならない。その根拠のひとつに、御開山日興上人の次の御指南がある。
「御講衆自今以後において、偏頗ありて聖人の法門に、きずつけ給候な。なおなおこの法門は、師弟子をただして仏になり候、師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が、聖人の御時も候し間、本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案の如く聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人謗法にて候。御講衆等この旨をよくよく存知せらるべし。」(便読のため、適宜にひらがなを漢字に直した)
 このように、師弟子の関係をただすことによって、成仏があるのであり、直接の師匠である末寺住職を無視して、大聖人直結などといえば、必ず無間地獄に堕ちる結果となる。
 また、寺院参詣が習慣化されることも大切である。ここには、種々の理由があるが、日淳上人は、
「由来教義の混乱は目立たずに長い間には何時となく混乱してゆくのであります。此の弊害は常に能く講中が全部僧侶に接近してゆくことによって矯正せられたのであります。」(『講中制度に就いて』)
と、教義の混乱を防止する意義において示されている。したがって、これは、また第2条の、
「当山の教義を守ること」
を遵守するために欠くべからざる条件なのである。
 それは、また日淳上人が、
「常に述べるように教化ということは理論をのみ説いて理解ができたということが必要には相違ないがそれと同等に当門の気風精神或いは心持ちといったものが大切であります。此れは講中の間に於て確かに薫化されますが寺院教会と近しくない間に漸次退化するのであります。宗祖より日興上人其の後代の僧侶の間に伝わってきました、いはば正宗気質が消失して了ひます。此の事は特に心得て貰ひたい事であります。教義は結局正宗気質の表徴であります。此の両面からして教化ということは全ふされるのであります。」(『講中制度に就いて』)
と仰せのように、教義の淵源が正宗気質、すなわち大聖人の御心が「正直為本」にあることによるのである。当家の信条が信を第一とする所以である。
 このことは、当然「異体同心」の上からも、充分に理解されなければならない。「ウソも百遍つけば本当になる」などという不正直な考えは、正宗気質と正反対のものであり、このような考えに同心することを、異体同心とはいわないのである。

 次に、第2条の、
「当山の教義を守ること」
について、創価学会には、もともとこれを励行するために、
「この会に、日蓮正宗法主の指南に則り、教義の厳正を保持し、およびそれに基づく指導をはかるため、最高教導会議を置く。」(『創価学会会則』第21条)
との規則がある。しかし、「日蓮正宗法主の指南に則り、教義の厳正を保持」ということは、今現在、どうなっているのだろうか。
 教義逸脱は、実際は最近顕著なものだけでも、教義の根本であらせられる御本尊の誤解(三宝一体の観念なし等)、三宝の誤釈、一連の僧俗平等論、先の副教学部長佐久間氏等の化儀に関する誤釈をはじめ枚挙にいとまがない。
 さらに、葬儀に際して僧侶に依頼せず、幹部が導師を行なっている。これは化儀違背であり、教義違背より起こったものである。本宗の即身成仏は、仏界即九界・九界即仏界、師弟相対しての成仏である。日因上人は、
「当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少しも余念無き処を云ふなり、此則師は是れ仏果なり、弟子は是九界なり、師弟和合して余念なき処は事の一念三千の妙法蓮華経なり、若し少も余念有らば師弟不和なり、何を以て事の一念三千即身成仏を論ずべけんや」
と説かれているように、弟子においては、導師の僧侶が仏界を表する、との余念なき信心によって、即身成仏するのである。判り易くいえば、日蓮大聖人に引導(転迷開悟)していただくところに、成仏があるのである。僧侶は、その代理として、御法主上人から全権を託されて、導師を務めるのである。
 『一谷入道御書』に、
「日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず」
とあるように、弟子である僧侶の持つ「日蓮が判」が肝心なのである。この「日蓮が判」、つまり大聖人以来血脈所持の御法主上人の権能に、一切衆生の成仏の力があるのである。このことを信じないで、誰でも御本尊にお題目を唱えさえすれば成仏すると考えるのは、大変な間違いである。
 なお、離島や海外において、僧侶の執行が不可能な場合、幹部が代行して、略式の化儀を行なうことについては、僧侶がその権能を幹部に依託するから、成仏が許されるのである。

 ここで、「略」について、少し説明しておく。略には、化儀は略式でも、意義は欠けることなく存する「存略」と、意義において欠けるところのある「闕略」がある(闕とはケツと読み、欠けること)。
 当家の方便・寿量の二品読誦などは存略であり、法華経一部二十八品を読む意義を存する。このことは、日寛上人の『題目抄文段』に、
「『略』は闕略にあらず即ちこれ存略なり。故に大覚抄に云く『余の二十六品は身に影の随い玉に財の備はるが如し、方便品と寿量品とを読み候えば自然に余の品は読み候はねども備はり候なり』」
と御指南されている。
 このように、正しい筋道と信心の上から、略式の化儀が行なわれることを、「存略」というのである。
 上記のようなやむをえない場合には、僧侶のいない略式とはいえども、そこには一体三宝の意義が存するのである。これに対し、我見で僧侶を不必要とするならば、それは「闕略」であり、僧宝の徳を欠くのである。このことは、三宝一体の道理からみて、仏宝・法宝をも滅するのであるから、まさに三宝破壊という大謗法となるのである。

 日淳上人は、
「講頭並に講中の役員は決して教師の意味を含むではいない筈であります。(中略)もとより布教等の場合には一分教師の役目を為すも差し支えないが、若し講員に対して純然たる教師のことを為すならば、あまり分をしらないことと考へます。」(『講中制度に就いて』)
と、御指南されている。創価学会の幹部には、日蓮正宗の教師僧侶の資格はない。にもかかわらず、教師僧侶のマネをするならば、あまりに分を知らない大増上慢となるのである。日蓮正宗から独立したのならば話は別であるが、日蓮正宗に籍を置く以上、この行為は、大いなる逸脱であり、謗法である。
 何を考えているのか、幹部が導師をするための下準備として、平成3年3月20日付の『聖教新聞』に、
「『習俗を仏教の本義とみる錯覚が定着』との見出しで、仏教と葬式・葬儀とは本来無関係なものだったといっても過言ではありません。東京大学名誉教授の中村元氏も『仏教では儀式で人を縛ることはしない。原始仏教は葬儀に否定的だった。日本では徳川時代にキリシタン禁制と結びつき檀家制度が確立、葬儀は寺でやることが決まりになった。その名残が今日まで及んでいる』(三月十八日付 朝日新聞)と語っています。」
とか、
「釈尊とその弟子達は在家の葬儀にはかかわらないのが原則だったようです。在家の葬儀は在俗信徒によって行なわれたのです。釈尊自身の葬儀も、それを行なったのはクシナガラの在家信者だったのです。比丘達は在家信者にたいして、葬式、法事をはじめとするすべての葬送儀礼にかかわらないのが原則でした。」
と書いて正当化しようとしているが、御苦労なことである。ならば、牧口会長・戸田会長・北条会長はじめ、今日までの葬儀は一体どうなるのか。どんなに理屈を並べても、幹部が導師をしたのでは、成仏できないのである。そのような葬儀に参列した学会員に、
「恐ろしくて、最後までからだの震えがとまらなかった」
との証言がある。
 日有上人は、『化儀抄』に、
「門徒の中に人を教えて仏法の義理を背せらるることは謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり」
と示されている。この意味について、日達上人は、
「本宗の僧俗の中で、他の信者を教唆して、本宗の宗綱に違背せしめることは、謗法であります。五逆罪の内破和合僧(和合僧団を妨害し破壊すること)の罪を犯すことであって、自身が直接謗法することよりも、他人を教唆した謗法は重罪ですから、よく誡心しなくてはなりません。」
と解釈されている。
 最高幹部だけで、「本部の指示ではないことを前提とする」
と打ち合わせ、
「学会員に学会葬を希望させ、会員が自主的に、在家の導師による葬儀を行なっているという雰囲気をつくっていく」
とか、
「あくまでも、学会葬を強く要望する会員の声があったとする」
などという秘密指示を出して、会員に謗法を教唆しているようであるが、日蓮大聖人は全ての所行を御覧になっていらっしゃるのである。
 少しでも信心が残っているのなら、最高幹部にいわれるままに導師をするような、恐ろしいことはやめるべきである。導師も死者も、ともに大地獄へ堕ちるのである。

 第3条の、
「仏法僧の三宝を守ること」
について、『創価学会会則』第62条には、
「会員は、日蓮正宗の教義を遵守し、三宝を敬い、この会の指導を実践し、この会の目的達成につとめる。」
と記されているが、これも実際には、僧宝を日興上人のみとし、御歴代上人を故意に三宝から外している。そのような論調は、『聖教新聞』にもあるが、最近の柏原ヤス氏の指導にも、御歴代上人を僧宝と認めない発言があった。
 しかし、勤行の御観念文には、
「南無一閻浮提の御座主第三祖新田卿阿闍梨日目上人御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に南無日道上人日行上人等御歴代の御正師御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に」
と、御歴代上人に「南無」とあり、日寛上人の『当家三衣抄』には、
「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を云云」
と、御歴代上人が三宝であることが明記されいる。創価学会においても、以前は『大白蓮華』(昭和54年11月号)に、
「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。大聖人が『仏宝法宝は必ず僧によりて住す』と仰せのように、仏恩も法恩も広大であり、甚深でありますが、その仏法を正しく伝持して来られた方々がいなかったならば、現在の私達に、御本尊を受持して、希望と確信に満ちた人生はありえないのです。僧宝がいかに尊く大事な存在であるかを知り、尊敬と感謝と報恩の信心をもって御僧侶を敬い、僧俗和合の姿で広宣流布に邁進していくことが肝要です。」
と記されてあったのである。また、先にも引用したが、かつての正信会問題の折には、池田氏も、
「今、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人に師敵対する僧俗がでたことは、まことに悲しむべき事である。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮正宗の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。」
(昭和57年7月の発言)
といっていた。現在の創価学会は、これらの明確な文証をどうするのであろうか。学会の都合のために担ぎだされている識者や、ルノワール絵画疑惑で有名になった「ある団体」の弁護士の方々に聞いてみたいものである。

 このように、創価学会はその法人設立に当たって、3箇条を規定したにもかかわらず、それらをことごとく破っているのである。基本的な規定すら守れないのであるから、もはや創価学会は、宗教法人を解散すべきである。そして、池田氏はじめ職業幹部は、現在の出家でも在家でもない生き方はやめて、在家として普通の仕事に就かれることをお勧めする。
 創価学会の中では、よく「1人1人を大切に」といわれるが、反対に、たった「1人のために」創価学会全体が謗法になってよいものであろうか。決してそうであってはならない。会員は、今こそ勇気を出して、
「この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。」(『創価学会会則』第67条)
との条項により、池田氏はじめ最高幹部の処分を行なうべきである。そうすれば、創価学会は正常化し、枯れかかった功徳の花は、再び立派に咲き誇るだろう。


12.詭弁を破す

 最後になるが、創価学会最高幹部は、自分達の邪義を押し通すために、御法主上人が間違っていると公言して憚らないことを指摘しておく。
 さすがに、ただ間違っているといっても、通用しないことは知悉しているので、次のように御法主上人の御指南を、利用するのである。
 平成3年1月10日付の『聖教新聞』には、青年学術者会議からの質問書が掲載されているが、そこには、御法主上人の、
「色々な疑問がありましたり、また私に間違ったことがあると思っておられる方がいたならば、遠慮なく言ってきてください。私はその人に対して、けっして怒りもしないつもりですし、おっしゃることは素直に聞きます。」
また
「また法主が間違っているところは、その法主の間違ったことに対して大衆は従ってはならないという御指南があるとおりです。従ってはならないということは、消極的ではあるけれども一つの反抗をするわけですから、その反抗の姿を見て、私なら私の立場において、自分が間違っていたように思うこともあると思います。」
との御指南を引用している。この御指南を引用することによって、御法主上人に反論・批判する論拠としている。これだけ読めば、御法主上人に何を申し上げてもよいのかもと、考える者も出てくるだろう。
 しかし、次に御法主上人の御指南の全文を挙げるので、よくみていただきたい。
「【色々な疑問がありましたり、また私に間違ったことがあると思っておられる方がいたならば、遠慮なく言ってきてください。私はその人に対して、けっして怒りもしないつもりですし、おっしゃることは素直に聞きます。】ただし聞くけれども、やはり私からの意見、つまり「あなたはそのように思われるでしょうが、ここのところは違うのではなかろうか」
というような意見を申し上げる場合もあるかもしれません。あるいはまた、皆さんの思っていることが本当に正しいということになれば、私も沈思した上で、あるいは私自身が考え方を変える場合もあるでしょう。そういうところは、日興上人様が、
《いくら大勢の大衆の意見ではあっても間違ったことをしたときには、貫主すなわち法主がこれを挫くべきである》【また法主が間違っているところは、その法主の間違ったことに対して大衆は従ってはならないという御指南があるとおりです。従ってはならないということは、消極的ではあるけれども一つの反抗をするわけですから、その反抗の姿を見て、私なら私の立場において、自分が間違っていたように思うこともあると思います。】
ですから要するに、正理をもって先として、あくまで仏法を護持し、立てていくということが日蓮正宗の僧侶および寺族の大事なことだと思います。」(『大日蓮』平成3年1月号)
 【】の中が、青年学術者会議の引用している箇所である。ここで、特に引用しなかった《》の部分、すなわち、
「いくら大勢の大衆の意見ではあっても間違ったことをしたときには、貫主すなわち法主がこれを挫くべきである」
の部分を、削り取っている点に御注目いただきたい。このように、故意に削除した文を使用することを、「切り文」というのである。これは、文証を悪利用しようとする者の用いる常套手段である。「正義の人」であるはずの学会員が、なぜこんな真似をする必要があるのだろう。答えは簡単である。池田氏が正義の人でなくなったからである。
 次に、同質問書には、
「私自身も、もし私の行為・行動に対して誤りを指摘してくださる方があるならば、それを大聖人様の教えに照らして考えた上で、誤りと自分が解れば直ちに改めるつもりであります。」
との御指南も利用している。しかし、実際には、
「【私自身も、もし私の行為・行動に対して誤りを指摘してくださる方があるならば、それを大聖人様の教えに照らして考えた上で、誤りと自分が解れば直ちに改めるつもりであります。】
 また、その方に深くお礼を申し上げたいと思います。私もその心掛けを持っております。
 私の下におります僧侶の者達にも場合によって心掛けが不充分であるというような振る舞いがあれば、私は充分注意をいたします。もし皆さん方に、これでは日蓮正宗の僧侶としてふさわしくないから御注意申し上げたいということがあるならば、遠慮なく注意をしていただきたいと思います。《ただし、それは人と相談して陰口を言いながら注意をするのではなく、自分一人で深く考え、その上できちっとした文書にして、あるいは口頭において、何人とも関係なく自分の真心をもって、その僧侶なら僧侶に注意をしていただきたい。》」(『大日蓮』昭和63年9月号)
という御指南である。これも、【】以外の《》の部分、「ただし、それは人と相談して陰口を言いながら注意をするのではなく、自分一人で深く考え、その上できちっとした文書にして、あるいは口頭において、何人とも関係なく自分の真心をもって、その僧侶なら僧侶に注意をしていただきたい。」
との部分が大切であり、結論なのであるが、現在の『聖教新聞』や『創価新報』等での僧侶攻撃には、この御指南が非常に都合が悪いので、故意に削り取るのである。
 以上は、「青年学術者会議」からの質問書である。

 もう一例、秋谷会長からの抗議書(『聖教新聞』平成3年1月18日付に掲載)を挙げる。
 ここには、「僧俗平等論」の論拠として、『日蓮正宗略解』から、次の文章を引用した。
「本宗は一切の解了によらず、ただ本尊に対する信の一念の上に建立される宗旨である。したがって、古来の行業において、【僧俗の区別はもとより存在しない。】

 このことは僧と俗が本来、毎日の修行と下種仏法の弘通、さらに成仏という大目的に対して、平等であることを示している。

 僧侶のみあって清浄の檀越がなければ仏法は地に堕ちること必定であり、その反対に数百万の信徒を擁しても、僧侶に真の仏法護持の精神がなければ、正法正義は危殆に瀕しよう。
 故に、正法久住のためには僧俗相互の地位について、正しい認識こそ大切であり、仮にも誤解があってはならないのである。
 すなわち、僧俗は竹に上下の節があるごとく、おのずから根本に対する内外遠近の差別はあるが、仏法の目的や役割の意義において、本来平等であることを知るべきであろう。
 ただし、これには時代というものをよく鑑みねばならない。現在、日本及び世界における弘通の大発展は、その折伏の主体性が在家にあることによって達せられたのである。
そして、これこそ末法における時代的必然性であろう。」
 ◎のところが空いているのは、その部分が削り取られているからである。最初の、
「僧俗の区別はもとより存在しない。」
というのは、実は削り取られた文章の内容は、
「すなわち、毎日の行法も方便寿量の二品を助行として読誦し、本門の題目の信心口唱を正行とすることに定まっている。大聖人も日興上人も共にこれを末法の修行の要道として僧俗にお示しあそばされ、また、僧俗に対し妙法の弘通をも分々に指導されたことが、御書やその他の文献に明らかである。
 このことは僧と俗が本来、毎日の修行と下種仏法の弘通、さらに成仏という大目的に対して、平等であることを示している。」
である。このことに区別のないことは当たり前であるが、後の文章を引用しないことによって、意味が全く違ってくるのである。
 そして、またこの文章は「時代的必然性であろう」で終わるのではなく、このあと最後に
「勿論、大聖人の仏法の法体は厳然として、唯授一人金口の血脈の上に法主上人の所持あそばすところであり、ここを源とする本宗僧俗の姿こそ、末法万年へ向っての恒久的、基本的な在り方といえよう。」
との記述がある。この部分を削除した理由は、もう説明する必要もないであろう。しかもこの抗議書は、厚かましくも、
「『日蓮正宗略解』の次の記載をお読みいただきたいと申し上げるほかありません。」
と述べた後に、以上の文章を引用している。この文章を書いた者は、『日蓮正宗略解』について、日顕上人が教学部長時代に書かれた本であり、ごまかしが通用しないことを、知っているはずである。
 思うに、これは宗門が「抗議書は無視する」といったのをよいことに、破折されないとみて、このようなインチキをして強がりをいうのであろう。これをみると、大聖人が遠くに行かれたのを知って、かの良観が急に強がったのと全く同じで、
「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」
のである。学会首脳は、自らの精神が、良観と少しも変わらないほど堕落していることに気付かねばならない。
 このように、抗議書に名を借りてはいるが、これも実には純真な学会員をだますための、洗脳作戦の一環として書かれていたものなのである。

 「開かれた宗門になってほしい」などと、もっともらしいことをいって「外護」を装うが、もし本当に宗門をよくしようとの、信心から出た「外護」の言動ならば、このようなことができるはずがないではないか。
 このように、池田氏や学会首脳の現在の「外護」という言葉には、実には「外護」の精神など全くないのである。
 かつて天台大師は、「即」を解することのできない者が、誤って「即」をいうことは、ねずみが「ソクソク」というようなものであり、もしまたそのような者が「空」をいうことは、鳥が「クウクウ」鳴くのと同じであると指南された。
 いま、無反省の池田氏達が「外護・外護」ということは、池や田んぼのカエルが「ゲゴゲゴ」と鳴くのと、なんら変わることはないのである。


   おわりに  

 今日の日蓮正宗の発展に精進された、純真な学会員の尊い信心に対して、私達は賞讃を惜しむものではない。また、強盛な信心からの巧みな指導には、衷心より敬意を表するものである。
 それだけに、
「なぜ日蓮正宗だけが日の出の勢いで発展しているのか、世間では、その理由を折伏による布教法によるとか、創価学会に強固な組織があるからなどときめつけておりますが、そんな表面的な理由で発展の原動力を説明できるわけがありません。その真の理由は、この日蓮正宗にこそ、仏法三千年の生命が正しく受け継がれているからなのです。」
と『創価学会入門』に記された純粋な信心が、今、風前の灯となっていることを、哀しむのである。

    以 上