日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第十四項 『化儀抄』に制誡される僧俗の筋目を否定し、日蓮正宗僧俗の広布前進を怨嫉する醜説を破折する

 第十四項 『化儀抄』に制誡される僧俗の筋目を否定し、日蓮正宗僧俗の広布前進を怨嫉する醜説を破折する


 「竹に上下の節の有るが如く其位をば乱さず僧俗の礼儀有るべきか」(堀日亨:「有師化儀抄註解」富士宗学要集第1巻P.128)とあるとおり、僧侶は尊敬し、上下の位を守らねばならない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 こういうのをまさしく切り文と呼ぶのです。ちゃんと前後を読んで、その意味を正確に理解しなさい。この文の直後に、
  『信心の所は無作一仏即身成仏なるが故に道俗何れも全く不同有るべからず、縦ひ人愚痴にして等閑有るも我は其心中を不便に思ふべきか、之に於て在家出家の不同有るべし等閑の義をなを不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり』(富士宗学要集第1巻P.128)
  (通解:信心している人は無作一仏即身成仏なので、道俗を問わず全く違いはないのである。たとえ人が愚痴であってなおざりな振る舞いをしても、自分はその心を不便に思わねばならないのではないか。ここにおいて在家と出家の違いが有るのだ。なおざりにされたことをなお哀れだと思うのは出家、悪く思うのは在家である。)
と、この文が在家と出家の差別を言っているのではなく、出家の心構えについて述べていることが明確です。
 この化儀抄の指南に逆らって、信徒にやきもちを焼き、逆恨みし、切り捨てようとするような坊主は在家と同じだ、ということが日有上人の指南から結論できるではありませんか。要するに日顕宗の坊主どもは袈裟は着ていても心根は在家以下なのです。まさに末法です。

 創価学会は、この文を、在家と出家の差別を言っているのではなく、出家の心構えについて述べている、と言っております。そして、この「僧侶を尊敬すべし」という解釈は切り文であり、前後を読んで正しく解釈せよ、と言うのです。しかし、虚心坦懐に読んで、創価学会の解釈は一方的であります。
 この文は、信心即身成仏の意義も功徳も、僧俗は共に妙法蓮華経であり、いささかも変わらないと、本宗の法華信仰の義を述べ給うとともに、しかれども、また、僧俗共に上下の位における節目を重んずるべきであると、差別と平等の両面を述べられているのです。故に,この文が「出家の心構えについて述べている」という創価学会の言は,例によって手前勝手の没義解釈であります。
 故に、我が日蓮正宗においては、僧俗共に妙法の受持の上に尊敬をなし、一大和合宗団として、うるわしい異体同心の団結をもって進んでおります。右の御文にある平等の面と差別の面を、信心の上に正しく把握して広布へ進むことを心掛け、もし誤りあれば常に相誡める配慮を忘れず、実践しております。
 また、次に続く
  「等閑の義をなを不便に思うは出家、悪く思うは在家なり」 (富士宗学要集一巻128)
の文は、さらに僧俗の心地についての指南であり、僧の慈悲・仁譲の心の大切さを述べられておるものであります。しかし、ここにも僧俗の立て分けが明らかに示されているではありませんか。
 しかるに、この文をもって創価学会が、「この化儀抄の指南に逆らって、信徒にやきもちを焼き、逆恨みし、切り捨てようとするような坊主」云々と言い、「日顕宗の坊主どもは袈裟は着ていても心根は在家以下」だ、と言って、それこそ逆恨み的心情を爆発させていますが、ここに創価学会のスリ替えが明らかに認められます。
 この文は、在家・俗人の無智の者が種々、なおざりの義があっても、出家として大きい心で許すべきことを言われるのであります。徹底した邪心をもって宗門の支配を企て、また、種々の邪義をもって大聖人の清浄な仏法を乱した池田大作。衛星放送などを用いて我見・偏見の上から法主を誹謗しつつ、会員の宗門離れの洗脳を行い、かねてからの「創価仏法」なる大謗法の復活を志した大作どもを、破法の人としてその非を指摘することは、謗法の邪義・邪心への慈悲の折伏であります。故に、涅槃経の「仏法中怨」の誡めを実践したことに尽きるのであり、宗門の謗法指摘は当然のことであったのです。
 また、「やきもちを焼き」など、実際に少しも当たっていない曲言は、よほどのうぬぼれが池田一派に存在することを物語っております。創価学会のあらゆる事物は、その金権体質から、洗脳された会員組織から、財産から、すべてが汚れきった存在であるから、なんのうらやましさも、初めから全く存在しません。それのないところに、やきもちなどの心のあるはずはありません。
 また、妙楽の言に、
  「障り未だ除かざる者を怨と為し、聞くことを喜ばざる者を嫉と名づく」
とあります。この怨嫉の意味からすれば、現在の下種三宝の大善の義を、我見の創価宗の立場からは聞くことを喜ばない姿であり、この「やきもち」は創価宗のことである、と返上しておきます。
 次に「切り捨てようとする」など、恨みがましい言を吐きますが、宗門より慢謗法を指摘したところ、さらに上回る謗法の怨念をもって宗門への悪口・誹謗をこととした経緯は、「一一・一六」以降の交換文書をとって見ても明らかであります。宗門を恨むより、自分らの反抗・逆罪の長い経過を顧みよ、と述べておきます。


 『放逸とは謗法の名なり入阿鼻獄疑無き者なり』(P.758) (※御義口伝)
  (通解:わがままで乱暴なことは謗法の異名である。阿鼻地獄に墜ちることは疑いないのである。)
  『謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし』(P.1056) (※曽谷殿御返事)
  (通解:謗法を責めないで成仏を願うならば、それは火の中に水を求め、水の中に火を求めるようにはかないものである。)
  『一乗流布の時は権教有って敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり』(P.503)(※如説修行抄)
  (通解:正法が流布する時代に、権威主義のニセの教えがあって敵となって紛らわしいなら、真実の教えの側から邪義を責めなければならない。これを摂受と折伏の二門の中で法華経の折伏と言うのである。)
  『権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや』(P.503) (※如説修行抄)
  (通解:ニセの教えと真実の教えとが紛らわしくて乱れている時に、法華経の敵を責めずに山林に閉じ込もって摂受を修行するのは、法華経の修行の時を失う物の怪ではないか。)
大聖人の門下であるならば、この大聖人の言葉どおりに、断固として日顕宗という謗法を破折し抜こうではありませんか!

 次に挙げる、
 「放逸著とは謗法の名なり、入阿鼻獄疑ひ無き者なり」(御義口伝・御書一七七一)
 「謗法を責めずして(乃至)はかなしはかなし」(曽谷殿御返事・同一〇四〇)
 「一乗流布の代の時は(乃至)折伏と申すなり」(如説修行抄・同六七二)
 「権実雑乱(乃至)物怪にあらずや」(同右・同六七三)
の四文は、すべて、よく考察するところ、創価学会の謗法を指摘された文でありますから、自らよく真義を顧みよ、と申しておきます。
 日蓮正宗の僧俗和合しての堂々たる広布への前進に対し、これを怨嫉する創価学会は、無恥忘恩の徒となって邪宗に擦り寄り、根本の教えに背いて正法を罵倒するもので、宗祖の教えに背く者はまさに創価学会であります。故に、我等は、その謗法を徹底して打ち破るべきであります。

 

※『第十五項 僣聖増上慢・池田大作を大聖人に擬する大邪説を破折する』へつづく