第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う
『此の経は相伝に有らざれば知り難し』(P.398)とあるとおり、相伝を受けた法主でなければ分からないことがある。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張を挙げたもの)
これも宗門の常套手段である「切り文」の典型でしょう!「切り文」とは、文章の一部分を抜き出してきて、全体の文章で述べている内容と逆のことや、真実と異なることを主張することで、世間では歪曲とかウソとか呼びます。例えばこの文では、続けてその後に、
『所詮悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四趣・八部総じて十界の衆生の為なり乃至此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す・仏意恐れ有り』(P.398) (※一代聖教大意)
(通解:法華経は悪人や・・・総じて十界のすべての衆生を成仏させるために説かれた教えであり,このことを知らない不相伝の学者たちが法華経はわれわれ凡夫には難しく機根に合わないし理解できない,などと言うことは仏の心に背き、恐れ多いことである。)
とあるとおり、この文意は「法華経が一切衆生の成仏のために説かれたことを知らない者こそ不相伝の輩である」と言われているのです。
創価学会では、この文を挙げて、相伝の大事のあることを主張するのは切り文の典型だと言い、その理由として、この文の意は法華経が一切衆生の成仏のために説かれたのであり、それを知らない者こそ不相伝の輩だと言われるのである、としています。
まず、「切り文」の意味を御丁寧に説明していますが、その盗人たけだけしい嘘言について一言すると、およそ自分達創価学会で引くところの文証こそ、徹頭徹尾、都合の悪い所を全体の文章から切り離した内容であったり、御書の真意と異なることを主張する切り文であります。故に、切り文の常習犯は、前にも証明する如く創価学会である、と返上しておきます。
次に、『一代聖教大意』の、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二)
の文を、それに直続する御文を挙げて、これが十界皆成のために説くというだけの意味であり、そこに相伝の意味があり、法主の相伝を証するものでない故に切り文と言うのだ、と述べております。この莠言において、創価学会の見解が「御書根本」と言い、「文証、文証」と一つ覚えに騒ぎ立てますが、諸文をただ横に並べてわめき立てるだけであり、宗祖大聖人と御書の御心に背反した、薄っぺらな浅識・浅解であることが明らかであります。
およそ御書の御法門には、本末あり、開合あり、附文・元意あり、文義の隠顕あり、一代の御施化の本末・旨帰あり、素人がちょっとぐらい御書を読んで自ら至れりとなし、「文証、文証」などと居丈高に威張っても、聖意とはほど遠く、そういうのを「未得謂得、未証謂証」と言うのであります。
今、この文の正しい拝し方を教えましょう。この御文には附文と元意があるのです。一代聖教の教相に準じて説かれておりますから、附文の辺は権実相対の趣意をもって、爾前権経のそれぞれの約機化導に対し、十界皆成を示されておるのであります。この重においても、相伝でなければ法華経の正意を得られないのです。
それは権経の各宗の迷見に徴して明らかであり、これに対し、霊山会上の法華一経付嘱の相伝により、薬王の再誕・天台が出世して、明らかに権経と実経の違いを顕したのであります。これは権実相対の上の相伝です。しかし、元意を拝すれば、大聖人には、さらに本迹相対の御法門あり、種脱相対の法門あり、さらには宗教の五箇、宗旨の三箇等、末法万年弘通の御法門と所顕の法体が存するのであります。これに対し、相伝を欠く故に、天台宗や過去に一致派と称して本迹一致を唱えた日蓮各派は、本迹相対の法門を知りえなかったのです。
また、現在の日蓮各派が釈尊の仏像を本門の教主とするのは、種脱相対において相伝を欠くため、法華経文底の正意が知り難いのであります。さらにまた、創価学会が日蓮正宗に背き、現法主の血脈を否定し、あらゆる我見・偏見の屁理屈法門を構成するのは、三世常住の仏法として蓮、興、目の御三師より今日に至る、三大秘法の甚深の内用、外用の相伝を疑い、誹謗するからであります。
この「相伝に有らざれば」云々の文は、まさに附文と元意の両面より、特に元意の辺を深く拝すべきであります。創価学会が、「大聖人直結の法主」などと言って、悪ほめの言で返って誣告している日寛上人が、この文をいかに大事とされているか、知っているのでしょうか。『撰時抄愚記』に云わく、
「若し法華経の謂を知らざれば法華も仍これ爾前の経なり(乃至)若し本門の謂を知らざれば本門は仍これ迹門なり(乃至)若し文底の謂を知らざれば文底は仍これ熟脱なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云。『塔中及び蓮・興・目』等云云。これ知る所に非ざるなり」
(日寛上人文段集二七一)
と、三重秘伝の上に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」の文を明らかに示され、さらに、この「相伝」云々の文を受けて、霊山の塔中別付相承より、大聖人、日興上人、日目上人への相伝を寸記されております。
まさに創価学会の者どもは、この文の附文にのみ執われて元意を知らず、あまつさえ切り文などと厚かましく謗ることは、蓮、興、目の御三師はもちろん、日寛上人の教義に背くことをも露呈しているのであります。
なお、創価学会の出版物を見ると、「此の経は相伝に有らざれば知り難し」の御文が、『仏教哲学大辞典』の別巻には御書の要文として記載されておりますが、平成五年に刊行された『御書要文索引』には載せていないのです。日蓮大聖人の仏法を学ぶ者ならば必ず知っておくべき重要な御聖文も、創価学会では、自分達にとって都合が悪くなるや、いとも簡単に削除してしまうのです。このような、御書を軽視する輩を「御書根本」の人とは絶対に言いません。
大聖人が相伝の書で何と御指南されているかを示しましょう。重書中の重書である「御義口伝」には、
『此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり乃至必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり』(P.781)
(通解:普賢品の時に最上第一の相伝がある。釈尊の八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲られたのである。八字とは当起遠迎当如敬仏の文である。(中略)必ず仏に対するように法華経の行者《三類を呼び起こして妙法を広めた人》を敬わなければならない、という経文である。)
要するに、末法に三類の強敵を呼び起こしながら妙法を広める「法華経の行者」を仏のように敬いなさい、と言うのが法華経の最上第一の相伝だと言われているのです。まさに今池田先生をリーダーとして、創価学会が昭和35年から丁度10年毎に、順番に俗衆増上慢(妙信講、言論問題)、道門増上慢(正信会問題)を呼び起こし、そして昭和63年頃から心あるメンバーが叫んでいたとおり、次の10年目の創立60周年には、見事に僣聖増上慢(日顕宗)を出現させ、経文どおり「法華経の行者」になったのです!
この「法華経に行者」である池田先生と弟子の学会員をまさに仏の如く敬うことが法華経の最上第一の相伝であり、このことが理解できない宗門はすでに相伝の資格を失っていると言うことが出来ます。
次は『御義口伝』の「当起遠迎当如敬仏」の文の御指南を引き、この文によって法華経の行者を敬わなければならないとし、その法華経の行者とは、昭和三十五年から十年ごとに、俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢を呼び起こし、池田をリーダーとする創価学会が「経文どおり『法華経の行者』になった」などと嘯き、しかも、池田らを仏の如く敬うことが法華経の最上第一の相伝であり、このことを「理解できない宗門はすでに相伝の資格を失っている」と言っております。
この途方もない図式こそ、彼等が邪智を練りに練って作り上げた、憍慢・増上慢の証明であります。第一に、「法華経の行者」も、御書の御指南から拝すれば、当然、総別の二義があるのであります。別して言えば、宗祖大聖人のみが末法唯一の法華経の行者であり、流罪、死罪、刀杖瓦石、数々見擯出の身読は空前絶後であります。池田大作が卑怯者として国会喚問にも怖じ恐れ、なんの大難の実証もない姿で、大聖人に比肩する法華経の行者だなどと言っておりますが、断固としてこの痴れ者を糾弾すべきであります。
別しての法華経の行者とは、宗祖大聖人御一人であり、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三)
と示される如くであります。このことは、人本尊開顕の『開目抄』の趣意よりしても明らかです。故に『御義口伝』の、
「最上第一の相伝あり(乃至)法華経の行者を敬ふべし云云」(御書一七九四)
という文は大聖人御自身のことを仰せであり、当然、池田や創価学会の謗法団体のことではありません。
次に、総じての法華経の行者とは、正しい信心修行の日蓮正宗の僧俗を意味しますが、正法の中心より悪逆の心をもって背いた創価学会は、行者となる功徳は消滅し、行者の資格はないのです。仏意仏勅による広布の根本宗団である日蓮正宗より派生しながら、いつしかその元を忘れ、自らを広宣流布の中心団体と誤り、妄想し、中心の団体を誹謗し続ける創価学会は、まさに仏勅破壊、仏敵・法敵の魔性団体であり、法華経を行ずる意義はないのであります。
次に、彼等の言う、三類の強敵に関する図式はまことに手前勝手であり、この経過は、けっして池田や創価学会が法華経を行じてきた結果ではありません。
初めの、俗衆増上慢に関する思い上がりの妙信講問題というのは、池田が正本堂の建立をもって『三大秘法抄』の戒壇としたいために、宗門にも様々な圧力をかけ、とどのつまり、その仏勅違背の不逞なる野望を全面的に押し通すことができなくなったことであります。こんな大それた本門戒壇に対する過ちを犯し、しかもそれに失敗したような事件で、宗門に要らぬ波風を立てた事例です。また、言論問題というのは、創価学会が、学会批判の言論出版を妨害したことにより非難を受け、池田が世間に謝罪した事件です。これらがどうして、法華経の行者の振る舞いに当たるのでしょうか。まさに法華背逆の所業であります。
次の、道門増上慢に関する彼等の思い上がりとしての正信会問題は、その元の原因として、池田大作が創価仏法を標し、「学会主、宗門従」の反逆思想のもとに種々の偏見を説いたことに対する宗門の反発と指摘があり、このような流れのなかで起こったのであります。したがって、この件も内面的には全部、池田大作と創価学会の憍慢・我見に基づく思想および法義の誤りが根底にあるのですから、その行為に法華経の行者の意義など、薬にしたくも存在しないのです。
当時、大作が自らの誤りを認め、日達上人や宗門に対して行った謝罪の主なものを挙げてみれば、昭和五十二年十二月、九州・定善寺における平身低頭してのいわゆる「御寛恕願い」、同五十三年十一月の通称「お詫び登山」における「お詫びと決意」、同五十四年四月、法華講総講頭および会長の「引責辞任の辞」、そして同五十五年四月の「恩師の二十三回忌に思う」の自己総括というように、毎年、お詫びと反省を繰り返したのです。
これは、この問題の本質が、学会の言うような正信会問題などではなく、創価学会の謗法逸脱問題であったことを明白に示すとともに、池田大作の反省が、いかに心にもない上辺だけのものであったか、その二枚舌ぶりを露呈していると言えましょう。
真実の「法華経の行者」にまします大聖人様は、誰人に対しても一度もお詫びなどされていないし、ましてや二枚舌の「法華経の行者」など、いるはずがないのです。
次の、僣聖増上慢に関する思い上がりとして、彼等は「僣聖増上慢(日顕宗)を出現させ」た、と言いますが、これは創価学会と池田があらゆる面からの宗門支配の野望のもと、じりじりと迫害・包囲の輪を縮めて、特に衛星放送等を使って宗門と法主の軽視・蔑視の洗脳を全会員に徹底させ、法主を悪し様に罵る姿が続いたのであります。特に平成二年十一月十六日の池田のスピーチは、誹謗の言がはなはだしく、このすべてを録音したテープを、彼等の厳重な警戒のなかから届けてくれた複数の篤志者がありました。
この内容について創価学会に尋ねましたところ、全くまじめな対応はなく、改竄テープだなどと言を左右にした挙げ句、かえってそれまでの宗門と学会のいきさつで、余りに創価学会が非道・無礼なため、柔かく注意をしたような問題を取り上げて宗門を攻撃し、答えるべき内容をスリ替えて、「お尋ね」に対する正規な返事はありませんでした。
その後の文書応答においても全く誠意が見られず、創価学会の独善的な、宗門軽視、蔑視、背逆が明らかなため、かかる謗法者の池田が終身、総講頭の地位にあることは宗門の大不祥事惹起の原因とも思われましたので、平成二年、「宗規」のなかの法華講本部規約に関する条文の改正を行い、総講頭の任期を五年とし、また、新規則の改正により前規則で任命された本部の全役員、法華講連合会の大講頭も含む全員が、その資格を喪失しただけのことであります。
また、池田らの正本堂の意義に執着する見解を糾したこともありました(着工大法要における『三大秘法抄』の文云々の池田の悪言を指摘。また、正本堂に関する学会の固定的、独善的見解を排除)。
また、十年目ごとに、順番に三類が出たと言うが、これは池田らの根底に巣食う下種三宝背逆誹謗の罪業が、池田の会長就任より十年ごとに出たのだ、と指摘しておきます。
さらに、池田や創価学会には、根本的に法華経の行者たる資格はない理由を示しましょう。法華経は正直の御経であり、『諌暁八幡抄』に、
「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭らず」(御書一五四二)
と、また、『御義口伝』に、
「正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり」(同一七二九)
と仰せであり、その他、信ずる者は正直たるべきことが御書に明らかであります。
ここで、創価学会が不正直団体たる所以をまとめてみましたので申し上げます。
第一に、創価学会は自分に都合のよいように、ウソで塗り固めた謀略情報を流して会員を洗脳し、組織を保っている不正直団体であります。平成二年、放置できない池田発言を厳しく糾し始めてから、宗門は池田学会の不正直極まりない体質とまともに対することになりました。創価学会は、昭和五十二年に目指した宗門支配は破綻し、失敗しましたが、再び野望達成のために準備を整え、平成二年から行動を開始したのであります。その内容は、まさに捏造、ウソ、スリ替えで、五十二年の反省を反故にし、宗門批判、法主をはじめ僧侶に対するすさまじい悪口中傷の個人攻撃でありました。もって会員の宗門離れ、組織防衛を図ったのであります。
第二に、池田は「ウソも百遍繰り返せば真実になる」と、平気で人前で口にします。これは藤原行正という人の書いた『池田大作の素顔』(講談社刊、四二)に書いてあります。こういうウソつき男によって、自分達の目的のためなら、なんの罪悪感もなく平気で他人をだまし、ペテンにかける不正直集団・創価学会が出来上がったのでありますが、その元凶は池田であります。
第三に、昭和五十二年路線反省の不正直。御本尊模刻、僧侶・寺院軽視、会館の寺院化等々、宗門支配をもくろんだ五十二年路線が、逆に宗門から破折・教導され、反省懺悔を表明して許されたのですが、平成二年の池田スピーチをはじめ、幹部の発言で、それは本心からではなく、ポーズだけで、宗門を欺くものであったことが判明した不正直が挙げられます。
第四に、「山崎・八尋文書」「北条文書」発覚時反省の不正直。宗門支配、または独立を画策した昭和四十九年の内部機密文書が流出・発覚した昭和五十四年十一月、北条浩等の責任者が登山して、今後、永遠にそういうことは行ったり考えたりしないと詫びたのも、表面上のことでありました。これも不正直の姿であります。
第五に、池田の「脱会は自由」との発言の不正直。今回の学会問題発生当初、某テレビ局の人間が空港で池田にマイクを向けた時、
「いいじゃないですか、自由で。信教は自由ですから」
と、脱会は会員の自由意志であるという旨の答えをしたそうです。しかし、実際には「脱会者が自殺するまで追いつめろ」(福井県・田賀一成氏証言ー永島雪夫著『創価学会池田王国の崩壊』一九六から引用)と指令を下し、あらゆる手段を使って執拗に脱会者に迫害を加え、嫌がらせを行い、他の脱会を阻止しているのであります。それにもかかわらず「信教は自由」と、心にもないきれいごとがとっさに口から出る、根っからのウソつき、不正直者であります。
第六に、学会関連の裁判例に見られる不正直。これは言わずもがなですが、クロウ事件、写真偽造事件をはじめ、様々な訴訟において、事実無根の事柄を事実の如くでっち上げ、はなはだしく宗門の名誉を毀損している不正直であります。
第七に、僧侶への中傷誹謗に見られる、捏造の不正直。平成三年以来、学会が様々な機関紙や謀略文書を使って、法主をはじめ多くの僧侶に対して口を極めて罵詈讒謗を加えた事実は枚挙にいとまがありませんが、これも捏造、スリ替え、誇張であるという不正直があります。
このように、池田および創価学会は、背信、卑劣なウソつき、不正直、謀略の反社会的存在であります。大聖人は、
「法華経は正直の金言なり」(御書九〇八)
また、
「日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ」(同四三五)
と、正直の尊さ、大切さをお示しであります。どうして、このような不正直極まる池田大作ならびに下劣な団体が、おこがましく「法華経の行者」などと言えるでしょうか。
だいたい「法華経の行者」の義には、重々の深義が蔵されております。軽々に末法今時の凡夫が、自らをなぞらえて振り回すべき語ではないのです。増上慢にも程があります。
池田は、大謗法を犯して宗門から信徒除名の処分に付された者であります。その際、せっかく弁疏の機会が与えられているのに一言の申し立てもできず、悄然と処分に服し、永久追放の憂き目に遭っております。また、国会喚問と騒ぎ立てられるたびごとに、法を弘めるための願ってもない好機と乗り込むどころか、コソコソと逃げ回り、あろうことか議員に何日間もピケを張ってもらって、やっと回避する始末であります。しかも、破廉恥罪の被告にされて世間の指弾を受けております。このような人間を大将に戴く団体が法華経の行者とは、聞いてあきれるではありませんか。
御義口伝には、大聖人の弟子檀那で題目を唱える者こそが究極の存在であると繰り返し繰り返し御指南されているではありませんか!
『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり』(P.752)
(通解:今日蓮等の類いの心は、広く言えば如来とは一切衆生である。より深く根本的に言えば日蓮の弟子檀那である。)
『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり』(P.753)
(通解:今日蓮等の類いで南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主=久遠元初の仏である。)
『無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり』(P.754)
(通解:無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等のことである。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉るからである。)
また、題目を唱える者が究極の存在であるということは、正依である日寛上人の文段にも明らかです。
『我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり』(観心本尊抄文段 文段集P.548)
次に、文証を挙げて、初めの四文には解説を施しておりますが、これも我田引水のスリ替えであります。
初めの「今日蓮等の類の意は」云々の「如来」とは、別して「日蓮の弟子檀那」と仰せられる文を自分達のことと思っているらしいのですが、不正直なこと、会員は盲目的なウソによって支配されていることのみを挙げても、日蓮大聖人の弟子・檀那ではありません。謗法者である故に、この功徳はないのであります。
また、次の「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」云々の文の解説では、まことに驚くべき、飛び上がりの解釈をしております。「日蓮等の類い」といえども、ここに厳然たる総別があります。まして、創価学会の不正直な謗法悪臭の者どもが、寿量品の本主とか、久遠元初の仏ではありえないのであります。
三番目の「無作の三身の当体の蓮華」云々の文も、「日蓮が弟子檀那」と仰せであり、「檀那」とある以上、「弟子」とは僧を言います。その僧を全く無視し、怨嫉し、悪口する創価学会は、大聖人の仏法より外れた存在です。あらゆる三宝違背の邪義とウソをたたき込まれた創価学会の亡者どもに、弟子・檀那の資格も功徳もないのであります。
次に、日寛上人の『本尊抄文段』の文を引いて「題目を唱える者が究極の存在である」ことが明らかと言っております。それならば、さんざん、おまえ達が破戒無慙の悪僧・邪僧と言っているところの日蓮正宗の僧侶も、毎日、勤行に励み、題目を唱えているから「究極の存在」であるはずであります。それを、あらゆる限りの悪口を言うのはどういうわけか。それは、おまえ達の考えのなかにも例外がある証拠であります。
宗門の正しい目から見てもまた、これらの文について例外があるのであります。それは、前から言う如く、破法の団体・創価学会の信心は、根本より外れ、狂った邪信であるから、これらの文には当てはまらず、「究極の存在」どころか、地獄行きなのであります。
『「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」とは本門の題目なり。「煩悩・業・苦乃至即一心に顕われ」とは、本尊を証得するなり。中に於て「三道即三徳」とは人の本尊を証得して我が身全く蓮祖聖人と顕るるなり。「三観・三諦・即一心に顕われ」とは法の本尊を証得して我が身全く本門の戒壇と顕るるなり。』(当体義抄文段 文段集P.683)
『末法の初めは本門流布の時なり。故にこれを信受する者は、皆これ本門寿量の当体の蓮華仏なり。故に(注:天台・妙楽・伝教は)末法の始めを恋うるなり。』(当体義抄文段 文段集P.673)
以上のとおり、どこにも法主に特別の相伝があるとか、法主は特別だとか、邪宗のような言葉は一言も述べられていません。ただ、大聖人のみが究極の本仏であり、それ以外の一切の弟子檀那は題目によって同じく如来となるというのが日寛上人の確立した教学体系なのです。先述の御義口伝の「如来の総別」についても、日寛上人は「法華経の行者は大聖人唯一人」を前提としてではありますが、御書に書かれた内容と全く同じ考え方を述べています。
次に『当体義抄』の文段の「正直に方便を捨て但法華経を信じ……」と「末法の初めは本門流布の時なり……」の二文を引いております。
この両文に共通しているのは、教・行・証の三重のうち、証の重の法門であるということであります。この証の重の法門に肝要なのが「信」あるいは「信受」の語であり、即身成仏の条件であります。しかるに、創価学会は不正直極まる団体で、自ら下種仏法に対する信の功徳を破り棄てています。故に、これらの御文には全く当たらないのであります。
また、この二文について、「以上のとおり」として、法主に特別の相伝があるとか、法主は特別だとかは、ひとことも言っていないとしていますが、まことに法門に無知な素人どもではあります。つまり、文証の引き方も知らないのです。
この御書の二文は、信受の格別の功徳を述べられたものですが、およそ法門は、その所対によって異を弁ずるのであります。故に御書も、また歴代上人の文献も、五綱、三秘、教・行・証、法体、行法、功徳そのほか、下種仏法にも種々の面からの御指南があるのです。この二文に、特に相伝のことがないからといって、それが全くないという証拠にはなりません。
特に付嘱・相承の件は、仏法の一大事であり、やたらあちこちに多く説かれるはずがないではありませんか。釈尊より上行菩薩へ要言の法を結要付嘱されたのは、一代五千・七千の経巻中、ただ法華経神力品の一品であります。大聖人の御書は一代五百篇に垂んとするも、日興上人への明白な付嘱を書かれた御書は『一期弘法抄』と『身延山付嘱書』ほか、わずかな相伝書と、唯授一人秘奥の相伝書のみであります。
しかるに、法門の上の種々の御指南や解説の各文を挙げて、そこにないから相伝がないと言う。こんなことをまともに言うのは、よほどの「たわけ」であります。真実甚深の正義は文証の数ではなく、文証そのものであります。つかみそこないの文証をいくら挙げても創価学会の謗法は免れず、論理の破綻をきたすだけなのであります。
『本地無作の三身は即ちこれ一切衆生に非ずや。答う、今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり。』(取要抄文段 文段集P.570)
『蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと言えども、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。』(取要抄文段文段集P.571)
と、大聖人と弟子檀那の関係が全てで、弟子檀那は一切平等であることが明らかです。法主に何か特別の相伝をしているどころか、懸命な題目を唱える一人一人が究極の存在となることを明確に示されているではありませんか!その証拠として、もう一つ、相承書である「本因妙抄」の御文を挙げれば、
『信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く』(P.872)
したがって、一心に自行化他の題目をあげること以外に何か特別の実践や秘法があるようなことをいう日顕宗の坊主は、明らかに相伝を受けていないということになるのです。
次に『法華取要抄文段』の文を二文、さらに『本因妙抄』の文の唱題成仏の深意の文を挙げて同じようなことを言っていますが、法門総付の内容であり、別付ではありません。その破折は今までに述べたところであります。
また、「弟子檀那は一切平等であることが明らか」だと一知半解の偏執を述べていますが、「蓮祖の門弟(乃至)仍これ因分にして」の文のなかにはっきり、名字乃至、分真の区別が具わっているのです。総じてまとめられただけの文について、一切平等だと短絡するところ、また、『化儀抄』に示された手続の師、延いては僧俗の異なりを、切り文によって敢えて無視するところに、彼等の短見・偏見があるのです。また、六即の六は差別であり、即は平等である。平等の一辺に執われるのが素人なのです。
要するに、大聖人、日興上人の明確な付嘱相伝に基づき、以後は、日興上人、日目上人以下、歴代上人の道理、文証、現証において、唯授一人の法脈相承は厳として伝わっているのであります。この付嘱の文が僅少であることは、釈尊一代経の例、大聖人一期の例に皆、明らかであります。創価学会の筋違いの引文はめくら滅法の錯誤であり、法門の筋道立て分けに反する邪義であります。
ところが日顕宗の坊主は、必死に僧俗に差別をつけようと、日寛上人の「取要抄文段」の、
『若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但これ蓮祖大聖人の御事なり。』(取要抄文段 文段集P.751)
を根拠に、大聖人の弟子檀那にも自ずと差別があると主張するのですが、これも御書に戻ってその本義を拝せば明らかなのです。御義口伝には、
『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり,されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり、聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出ずるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり」(P.752)
(通解:今大聖人門下の考え方は、広く言えば如来とは一切衆生のことであり、深く根本的に言えば大聖人の弟子檀那のことである。したがって無作の三身とは末法の法華経の行者のことを言うのである。この無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と言うのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。これを六即に立て分けた時は、一切衆生が如来であるというのは理即の凡夫のことである。題目を受持した時が名字即である。その理由は、初めて聞く題目だからである。題目を聞いて修行する(唱題行に励む)のは観行即である。この観行即とは事の一念三千の本尊を持つことである。次に惑障を伏するのを相似即と言うのである。折伏をするのを分真即と言うのである。わが身が無作の三身の仏であると究竟した境涯を究竟即の仏と言うのである。一般的に伏惑を以て寿量品の究極とはしない。ただ凡夫の当体本有のままをこの寿量品の極理と心得るべきである。)
この御文に照らせば、唱題し折伏に励んでいる学会員は少なくとも分真即の如来ではありませんか。更に難を乗り越えて広宣流布こそ我が人生の使命と決定した境涯の会員は、間違いなく究竟即の仏でしょう。
次に、日寛上人の『取要抄文段』の文底下種の法門よりの六即の立て分けと、『御義口伝』の下種六即の文を引いて、日顕宗の坊主は弟子・檀那に差別があると言うとしていますが、この中の「寿量品の事の三大事」という大事な文を忘れています。これは、創価学会の如き在家のあずかり知らぬところであり、故に、この文全体の根本を既に喪失しているのです。
また、この文のみによって明白に僧俗の違いを論じ、在家の方を差別する必要はありません。この文は、下種仏法の功徳における六即を示すもので、直ちに僧俗手続の師等についての趣意を示し給う文ではないからです。ただし、「事の三大事」の文に、血脈の大事がおのずから存するのです。
さて、次に彼等は、下種本門の六即について示された『御義口伝』の文を引いて説明を加え、さらに自分達創価学会に当てはめて、あきれ返った僣上の沙汰、増上慢極まる慢の言を吐いております。
およそ下種仏法の信心の折伏、自行化他の徳は、前から論ずる如く、真の仏勅・広布の宗団たる日蓮正宗血脈相伝の三大秘法を、素直に、我見なく持ち、信心するところに生ずるのであります。創価学会が派生団体として中心の正法宗団に背き、勝手な意趣を立てる以上、下種六即のすべての諸徳は喪失するのです。これは謗法・堕地獄の位であります。まして大謗法の池田や秋谷らに洗脳され、悩乱している幹部や一般会員も同様であります。特に最近、折伏など忘れて、「会友」などの珍語による、摂受にも当たらぬ金集めと勢力維持に狂奔し、邪宗と結託し、『中外』紙で正法を徹底的に誹謗するなどしておりますが、このような者どもに大聖人の正直の正法の功徳はいささかも存しないのです。
しかるに、学会員は「分真即の如来」だとか、間違った広宣流布について「広宣流布こそ我が人生の使命と決定した境涯の会員は、間違いなく究竟即の仏でしょう」とは、なんたる言い草でしょうか。
「無作三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云ふなり」(御書一七六五)
とは、別して日蓮大聖人御一人であることは、おまえ達が直前に引いているではないか。それを無視して、今度は自分達について「間違いなく究竟即の仏でしょう」などと言う者こそ「未得謂得、未証謂証」の増上慢であり、まさしく大聖人を冒涜し、『御義口伝』ならびに日寛上人の教えに違背する言であります。
だからこそ、池田先生を中心とした「本化国主」の創価学会は三類の強敵を全て呼び起こし、法華経の行者の位を勝ち取ることが出来たのです。この文のどこが坊主と信徒に差別があるという意味に読めるのでしょうか。逆に折伏も勤行もしないで、法華経の行者の弾圧ばかりをたくらむ坊主のことは経文に照らして何と呼ぶのでしょう?御書にはこのような坊主について「狗犬の僧」(P.1381)「法師の皮を着たる畜生」(P.1386)等々と厳しく破折されています。その一つを挙げて彼らの本質をえぐり出しておきましょう。
『「当来の世仮に袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり』(P.958) (※佐渡御書)
次に「池田先生を中心とした『本化国主』の創価学会は三類の強敵を全て呼び起こし、法華経の行者の位を勝ち取ることが出来た」などの浮言は、既に前に破した如く、大作には国主などの意味も、法華経の行者の位の意義も全くなく、仏法と世法の道理、共に外れているのです。かえって、三類の敵人たる経文の傾向は、そのままぴったり、池田大作ならびに創価学会の所業に当たっているようです。
さらに、引き続いて僧侶の悪口を言い、『松野殿御返事』のなかの「狗犬の僧」と、同書の「法師の皮を著たる畜生」の文を挙げ、次に『佐渡御書』の御文を引いておりますが、現日蓮正宗の僧俗は、団結和合をもって宗開両祖の御遺訓を体し、正法弘通に精進しております。かえって、この文に当たるのは、会員の金をむしり取って豪華な生活を送る池田大作、秋谷ほか職業幹部の、僧にもあらず、在家にもあらざる、コウモリのような魔族集団を言うのであります。
さて、ここまで日寛上人の教学と御書との違いが明らかになりました。日寛上人の時代には、末法に入ってから三類の強敵を呼び起こした「法華経の行者」は日蓮大聖人唯一人だったのです。したがって、先ほどの御義口伝を引かれて日寛上人は、
『故に御義口伝に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」文。末法の法華経の行者、豈蓮祖大聖に非ずや。』(取要抄文段 文段集P.571)
と,法華経の行者は日蓮大聖人だけだという大前提を宣言されています。当時はまだ「法華経の行者」とは日蓮大聖人ただ一人しか存在せず,日寛上人さえも,謗法の徳川幕府からの御朱印を受けて弾圧を避け、直面する要法寺等の邪義の破折に全力投球せざるを得ない状況だったのです。
しかし、嬉しいことに昭和に入って我が学会の初代・二代会長が、国家神道という大謗法とそれに与同した日蓮正宗を諫曉し、有徳王の如き身命を捨てた実践で正法を守り抜き、創価学会に大聖人の生命は燃え移ったのです。
さて、この所から、いよいよ彼等の本音としての、池田本仏の線が出始めるのです。
日寛上人の教学は、まだ広布未熟の時代だったから、六即中の究竟即、ならびに法華経の行者とは日蓮大聖人御一人であると言われているが、これは創価学会の新たな時代を迎えて再構築すべきであると、大聖人、日興上人、そして日寛上人にも背く言を吐いております。
さて、その初めとして「学会の初代・二代会長が、国家神道という大謗法とそれに与同した日蓮正宗を諌暁し」と、まず日蓮正宗に対する大ウソの誹謗をしています。戦争中においても、日蓮正宗が国家神道に与同したことなど、一切ありません。
また、「有徳王の如き身命を捨てた実践で正法を守り抜き」の言も、牧口常三郎氏が投獄され獄中で亡くなったのは、自身の主張による折伏の内容が当時の特高警察の忌避に触れたためであり、直接、宗門とは関係ないのであります。ともかく、戦争中、この二人がいたから日蓮正宗の正法が護られたという事実は存在しません。
次に、引き続く言に「創価学会に大聖人の生命は燃え移ったのです」の言い草こそ、まさに創価学会の増上慢の体質、独特の我田引水、宗門七百年の法統否定の邪念が明らかに看て取れます。移るも移らぬも、大聖人の御法魂は本門戒壇の大御本尊として三世常住に、唯授一人の血脈相伝をもって富士の麓、大石精舎に厳然とましますのであります。だからこそ、この浄地を拠り所として創価学会も派生したのではないですか。その恩も忘れて「創価学会に大聖人の生命は燃え移ったのです」と言うのです。こういう自己中心のわがまま勝手な論断こそ、仏法の根本の道理に背くものであります。
更に我等の師匠池田先生は、昭和35年に会長就任以来10年毎に順に昭和45年俗衆増上慢(諸々の無知の衆生。外からは言論問題、中からは旧妙信講=現顕正会問題)、昭和53~5年道門増上慢(宗教的権威主義の正信会)、そして次の10年である創立60周年には予定どおりに僣聖増上慢(中からは日顕宗。そしていよいよ外からは権力者たちの弾圧)を呼び起こし、末法に入って以来、大聖人に続く二人目の「法華経の行者」になったのです。二人目が出現したということは、誰でもが「法華経の行者」になれるということです。御書には、地涌の菩薩の涌出について、
『涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり』(P.834) (※御講聞書)
と、三類を呼び起こしながら法華経を広め抜く人=法華経の行者が必ず全世界に出現することを述べられています。まさに今、SGIが全世界で全ての難を耐えて妙法流布に生命を賭して戦っている姿を想起させる御文ではありませんか!この新たな時代を迎えて、日寛上人の教学は、再び御書に基づき真実の仏法として再構築されなければならない状況になったのです。
『如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり』(P.772)(※御義口伝)
次に、池田が三類の強敵を引き起こしたという件は前に破折したとおりでありますが、ここでは続いて「末法に入って以来、大聖人に続く二人目の『法華経の行者』になったのです」との驚くべき思い上がりは、道理、文証、現証に反する増上慢の悪言として、許すことはできません。
つまり「大聖人に続く二人目の『法華経の行者』」とは、大聖人と肩を並べる仏という意味であり、こういうことを言い出す池田はじめ創価学会の者どもは頭がおかしくなっており、まさに頭破七分の現証と言うべきです。
もし、大作が「大聖人に続く二人目の『法華経の行者』」と言うならば、それこそ、「大作の本地はなんだ!垂迹はなんだ!顕本はなんだ!」と攻めましょう。
大作のどこに、大聖人と比肩すべき法華経の行者たる振る舞いがあると言うのでしょうか。いかがわしい淫乱の振る舞いや、ウソつきの言はあっても、勧持品二十行の文々句々の身読が、どこにあるのでしょうか。真っ赤なニセ行者であり、世を欺き、会員を偽る咎は甚大であると知りなさい。
次に『日向記』の文をもって、一切衆生が地涌になるという意味がSGI(創価学会インタナショナル)であると言いますが、現実には日蓮正宗の僧俗が、全世界において正法弘通の大前進を果たしている姿こそ、真の地涌の菩薩と言うべきなのです。これに対して創価学会は、常にあらゆる所で、陰険・悪辣な手段をもって日蓮正宗の弘通を迫害し、邪魔しているのです。しかし、この苦難に耐えて、今、日本国内より全世界に正法は堂々と広まりつつあるのです。世界を毒気によって汚す創価学会こそ、速やかに撲滅されるべきであります。
そして「日寛上人の教学を再構築する」旨の言は、池田を本仏とし、会員も本仏だと主張する「未得謂得、未証謂証」のたわごとであり、さながら自己に無上の権威を付与せんとする姿は「己れ仏に均し」という禅宗の邪義に傾くものであります。故に、この言は、日寛上人が言われる、宗祖御一人が真の法華経の行者であるとの義を押しのけ、池田を本仏とする大悪義なのであります。
我々は、これにあきれているだけではなりません。徹底的にこの邪義を打ち破ろうではありませんか。
およそ池田には、過去より現在に至るまでに、破法の大罪が六つ乃至それ以上、数えられます。これは最後に申し述べることにしますが、このような大謗法者の教導による創価学会の会員は地獄行きの船に乗っており、根本が狂っているから、いくら唱題しても成仏はできないのであります。
※『第四項 ②血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う』へつづく
