正林寺御住職指導(H29.7月 第162号)
言葉は生きていくなかで、欠かすことのできない相手とのコミュニケーションをはかる大切なものです。その言葉にも大別すると善言と悪言があります。人生を幸福にする善言を取り入れて心を豊かにし、悪言は聞いたとしても受け付けることなく、聞き流していくことが、心の重荷になることなく大切なことです。
この言葉も釈尊が諸経典で予言された末法濁悪世の影響を受けて、仏法では本来、善言であるとされる教えを、悪言の教えと思われたり、末法において悪言となる教えが、善言の教えと思われる風潮が根強くあります。
その理由について日蓮大聖人は『小乗大乗分別抄』に、
「自然に法門に迷ふ者あり、或は師々に依って迷ふ者もあり、或は元祖・論師・人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来たる者もあり。或は悪鬼天魔の身に入りかはりて悪法を弘めて正法とをもう者あり」(御書710)
と仰せであります。各宗派のはじまりとされた元祖を信用した論師や人師の迷法を、年久しく真実の法であると伝え来ている場合や、悪鬼天魔の身に入りかはりが影響して善言と悪言との混迷があります。
そして大聖人は『聖愚問答抄』に、
「経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ(願口)誉れを擅(ほしいまま)に」(御書402)
と仰せのように、末法の権実雑乱が起因して諸経・諸宗がさまざまに咲き乱れての闘諍堅固、釈尊の教えの力を失い白法隠没して、諸宗が意味深な法門を立てて名声をほしいままにしていることが原因です。
さらに大聖人が『兄弟抄』に、
「此の世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり。」(御書980)
との仰せから、本未有善であると同時に、娑婆世界は無始已来、過去世からの因縁により、以上のような影響が多大であるからでしょう。
その第六天の魔王の性格について大聖人は『四恩抄』に、
「第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと、たばかりを成して、かく事にふれてひがめる事をなすなり。此のたばかりも詮ずる所は仏に法華経を説かせまいらせじ科と見えて候。其の故は魔王の習ひとして、三悪道の業を作る者をば悦び、三善道(さんぜんどう)の業を作る者をばなげ(嘆)く。又三善道の業を作る者をばいたうなげかず、三乗とならんとする者をばいたうなげく。又、三乗となる者をばいたうなげかず、仏となる業をなす者をば強(あなが)ちになげき、事にふれて障(さわ)りをなす。法華経は一文一句なれども耳にふるゝ者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思ふ故に方便(てだて)をまはして留難(るなん)をなし、経を信ずる心をすてしめんとたばかる。」(御書265)
と仰せであります。
それらの影響のため、大聖人が『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。」(御書403)
と仰せの、仏法的に悪言となる権教謗法のみが多く、善言である正法が弘まり難い現実があります。
その悪影響を受けないためにも大聖人は『最蓮房御返事』に、
「予日本の体を見るに、第六天の魔王智者の身に入りて、正師を邪師となし善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是なり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず。」(御書585)
と仰せのように、常日頃からの善言と悪言を見極める用心が必要です。
一般的に善言とは、ためになるよい言葉、戒めとなる言葉、理にかなった言葉のことです。
悪言とは、ためにならない言葉、理にかなわない言葉、さらに、人をあしざまにののしる言葉、悪口という意味があります。
末法に流布すべき仏法的観点から大聖人は、善言と悪言について『立正安国論』に、
「善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。」(御書242)
と仰せであります。
今月7月は『立正安国論』が、文応元年(1260年)7月16日に宿屋入道を介して、ときの最高権力者・北条時頼に奏進された由緒ある月です。大聖人の教えを信心する私達は、この安国論の御精神を心に刻んで、善言を聞いて、先の因縁による悪知識化した他者からの影響により悪言と錯覚しないように、信仰の寸心を改める意識を常に持ちましょう。
善言と悪言の違いは、人により十二因縁による生い立ちなどの立ち位置が異なるため意見が様々です。そのために善言と悪言の違いを明確にする判断基準が必要であり、その基準を中心として、善言と悪言の区別をしていくことが大事です。
正しく善言と悪言を見極めていくために大聖人は『曽谷入道殿御返事』に、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書794)
との仰せや、法四依を基本的な立ち位置として区別することが不可欠です。
また大聖人は『唱法華題目抄』に、
「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。」(御書233)
と仰せのように、利根と通力に依らず、正しい付嘱の上からの御法門の正邪を以て判断し、善言であるか悪言であるかを区別していくことが大切です。
さらに、その区別は先の『立正安国論』に御教示であります「正師」から御指南を賜ることで、善言と悪言との明確な違いを知ることができます。正しい師匠を疑って、本物らしく似せられた迷法を宣揚する悪侶を信用しないことです。
「正師」とは、遡ることインドの釈尊が、滅後の末法を心配され、西暦1052年以降からの「正師」について、法華経では予証されています。その「正師」は、釈尊に代わる上行菩薩であり、宗祖日蓮大聖人です。
その予証された法華経の『従地涌出品第十五』に、
「我が娑婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等、能く我が滅後に於て、護持し、読誦し、広く此の経を説かん。(中略)是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆の中に於て、最も為れ上首唱導の師なり。(中略)是の如き諸の菩薩 神通大智力あり 四方の地震裂して 皆中より涌出せり(中略)此の諸の菩薩は、皆是の娑婆世界の下、此の界の虚空の中に於いて住せり。(中略)是の諸の大菩薩は 無数劫より来 仏の智慧を修習せり 悉く是れ我が所化として 大道心を発さしめたり 此等は是れ我が子なり(中略)是の如き諸子等は 我が道法を学習して 昼夜に常に精進す 仏道を求むるを為ての故に 娑婆世界の 下方の空中に在って住す 志念力堅固にして 常に智慧を勤求し 種種の妙法を説いて 其の心畏るる所無し(中略)我今実語を説く 汝等一心に信ぜよ 我久遠より来 是等の衆を教化せり」(法華経408)
と説かれる、釈尊が久遠より教化されてきた「上首唱導の師」を「正師」として、上行菩薩の御立場から発迹顕本あそばされた、日蓮大聖人を「正師」と尊崇申し上げて、善言と悪言との違いを明確に理解していくことです。
先の大聖人が『小乗大乗分別抄』に説かれた、他宗派の元祖をはじめ論師と人師は、久遠から釈尊の教化を受けてはいません。釈尊在世、八年間にわたり説かれた法華経の会座、二処三会にも全くいなかったと断言されます。
それは釈尊が法華経の方便品に、
「会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。即従座起。礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証。(会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。)」(法華経100)
と説かれている、五千の上慢にあたります。
そのため末法において流布すべき観点の善言からは、どんなにすばらしく聞こえの良い弁舌な教えでも随他意となり罪根深重のため悪言となります。
さらに、「上首唱導の師」との御立場から、大聖人御入滅後の末法万年尽未来際に備えて、大聖人が『百六箇抄』に、
「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」(御書1702)
と仰せであります。「末弟等異論無く」と御示しのように、無疑曰信のもとに異論なく、『従地涌出品第十五』に説かれる「上首唱導の師」であらせられる御本仏・宗祖日蓮大聖人を「正師」と拝し奉り、さらに「日興が嫡々付法の上人」であらせられる、時の御法主上人猊下を「正師」として善言を拝信させて頂くことが大切です。「尽未来際に至るまで」の意味には、『薬王菩薩本事品第二十三』に説かれる、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」(法華経539)
との文意と、さらには『普賢菩薩勧発品第二十八』に、
「如来の滅後に於て 閻浮提の内に広く流布せしめて 断絶せざらしめん」(法華経603)
と、釈尊の予証が存することを拝信して、末法が始まる五百年は当然ながら、その後、唯授一人の血脈相承が、大聖人の出世の本懐、本門戒壇の大御本尊の御威光に照らされて広宣流布の暁まで断絶されることがないことを、確固たる善言として確信することが大事です。
その御威光とは『薬王菩薩本事品第二十三』に、
「諸余怨敵。皆悉摧滅。善男子。百千諸仏。以神通力。共守護汝。(諸余の怨敵皆悉く摧滅せり。善男子、百千の諸仏、神通力を以て、共に汝を守護したもう。)」(法華経538)
と、また『普賢菩薩勧発品第二十八』に、
「従久遠来。発阿耨多羅三藐三菩提意。而能作是。神通之願。守護是経。我当以神通力。守護能受持。普賢菩薩名者。(久遠より来、阿耨多羅三藐三菩提の意を発して、能く是の神通の願を作して、是の経を守護す。我当に神通力を以て、能く普賢菩薩の名を受持せん者を守護すべし。)」(法華経604)
との釈尊が説かれる御金言に依る御威光に照らされ守護されていきます。
その証拠として、本門戒壇の大御本尊が在すことを堅固な信心で『薬王品』の「断絶せしむること無けん」と『勧発品』の「断絶せざらしめん」との、血脈尊崇の強固な信心を法華講衆は確立していくことが必要です。「断絶せしむること無けん」と「断絶せざらしめん」との文証は、釈尊が末法万年尽未来際までと、広宣流布の暁まで、血脈相承が「正師」に信伏随従する僧俗の内護外護により、断絶することがないとの、法華経の文底に秘められた非常に尊い予証と拝します。そのためにも育成と法統相続が大切です。
第二十六世日寛上人も『六巻抄』の『文底秘沈抄』に、
「一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」(六巻抄66)
との『薬王品』と『勧発品』の文意を受けて「清浄の法水断絶せしむる事無し」との御教示と拝します。
まさに「断絶せしむること無けん」と「断絶せざらしめん」との釈尊のお言葉は、大聖人が『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。」(御書268)
との仰せに添い奉る御指南と拝します。
その釈尊のお言葉は、大聖人が『三沢抄』に、
「聖人は未萌を知ると申して三世の中に未来の事を知るをまこと(真)の聖人とは申すなり。」(御書1203)
と仰せであります。
平成時代の現在は、総本山大石寺の第68世御法主日如上人猊下を「正師」と尊崇申し上げて、善言と悪言の違いを理解して信心修行に努めていく時です。
平成の法華講衆は、当宗の根幹である血脈相承に対して「象の譬へ」(御書485)の如く、第六天の魔王の所領という習気が影響し、悪言化した情報・印象の両操作に盲従することなく、御法主上人猊下の正しい善言を信じて、自行化他に精進してまいりましょう。
『従地涌出品第十五』に曰く、
「此の諸の仏子等 其の数量るべからず 久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し 地より涌出し 皆恭敬の心を起して 世尊の前に住せり」(法華経425)
