日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

最近の学会における「追善供養の考え方」を破す

   最近の学会における「追善供養の考え方」を破す

              時局協議会文書作成班3班  

1.化儀の変更は御法主上人が御裁断

 『聖教新聞』紙上における、前代未聞の不遜な御法主上人批判、宗門僧侶への誹謗・中傷、あるいは世界宗教の名のもとに在家主義に傾く不解・浅識の言論など、これらの記事を平然と掲載できる原因を辿れば、間違いなく池田名誉会長並びに学会首脳の、教義と信仰に対する根本的な誤りへと行き着くのである。
 また、最近では、塔婆供養をはじめとして、本宗の化儀に対する軽視発言が盛んに行なわれ、葬儀・法事などの儀式は、仏教本来のものではないとの、伝統儀式無用論が吹聴されている。これらの化儀軽視、儀式無視の言行は、やがて日蓮正宗の三宝を破壊するという、根本謗法へ行き当たるのである。
 そうした状況を踏まえ、本稿においては、最近の学会における「追善供養の考え方」に対し、その基本的な誤りを糾しておきたい。
 平成3年(1991年)3月20日付『聖教新聞』の7面には、「先祖供養について」と題して、「唱題・弘法こそ追善の根本」「彼岸会は本来、仏教と無関係」「習俗を仏教の本義とみる錯覚が定着」「回向は必ずしも塔婆を要しない」という見出しを掲げて、日本仏教学会会員・小林正博氏に聞くという体裁を装い、問答形式で論じられている。この小林氏の所論について率直にいえば、正宗寺院における化儀・儀式は、重要なものではないという誤った考えを、意図的に読者に植えつけようとしたものである。『聖教新聞』は、本来ならば、正宗信徒の信仰を高めるための機関紙であるから、氏の所論に対する直接的な掲載責任は、氏のみならず学会首脳部にあると判断できる。また、それを裏付けるように、同日付『聖教新聞』の「社説」にも「回向の真義を考える」「自行化他の仏道修行が前提」「追善供養の塔婆は慣習」の見出しのもとに、従来と異なる追善回向についての論説がなされている。
 本宗において、御本尊をはじめ仏法の本義の一切は、唯授一人の御法主上人が御所持あそばすのである。これは、御本仏大聖人の絶対的な御遺誡である。故に、創価学会における今までの教義や指導の展開も、一応は日蓮正宗の教義と三宝を遵守するという大前提のもとに、御法主上人より特別に許されてきたと拝すべきである。したがって、もし御法主上人の御指南により、学会に糾すべき教義や指導があれば、学会首脳がただちにその教義と信仰の誤りを反省し、糾していかなければならないのである。このことは、むしろ当然のことである。
 宗祖大聖人よりの、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(『一代聖教大意』)
との御仏誡、また日興上人よりの、
「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝し」(『日興遺誡置文』)
との御遺誡のままに、血脈付法の御法主上人の御指南を拝してこそ、大聖人の仏法の極理は、僧俗に正しく伝わり、仏法の功徳が具わるのである。
 本宗の葬儀・法事・塔婆供養にしても、衆生にとってみれば、成仏のための大事な化儀である。その化儀の儀式形態を、時代に応じて変更することがあっても、それは血脈を根底とした御法主上人の裁断によるものであるから、そこには何ら問題はない。したがって、このことを謗法の既成宗教教団などと同次元で論じたり、あるいは民衆の多数決という次元などで論じられる問題ではないのである。


2.本宗の化儀は御本尊を根本とした報恩行と折伏行

 小林氏の所論においては、先祖の追善回向の本義に関して、
  「『自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし』と大聖人が仰せのように、自身が御本尊に勤行・唱題し、折伏に励んで、その功徳善根を故人に回向することです。」
  「この成仏の法、正法への強い清らかな信心を教えないでは、」
  「単なる形式、習俗にとどまり、“彼岸の仏教性”はきわめて薄いといわざるをえません。」
と述べているが、その趣旨とするところは、「唱題・弘法こそ“追善”の根本」という見出しに、そのまま表われている。便宜上、氏の一連の文章を、   の文章に区切りながら紹介した。まず、氏の  の見解は、宗門僧侶が常日頃述べていることであり、特に でいう「強い清らかな信心」は説いているのである。したがって、僧侶が  を教えていないことを前提とした の見解は、撤回し破棄されなければならない。
 本宗の化儀における彼岸法要は、単なる形式、習俗にとどまらず、むしろ他宗謗法の彼岸会を破折して、衆生の報恩による真実の追善供養を行じているのである。
 また、あえていうならば、本宗の御本尊を根本とする、四力成就の追善回向の本義に対し、衆生の功徳善根、あるいは衆生の唱題・弘法の一面のみを取り上げ、それを追善供養の根本とするところに、氏の仏法に対する致命的な信心の誤りが隠されているといえる。この氏自身も気がつかないであろう不遜な見解は、平成3年3月20日付『聖教新聞』の「社説」に、次のように論じられている。
  「自分自身が仏道修行することによって得た功徳を他者にさしむけるという回向の意義に照らして、まず自らがしっかり自行化他にわたる仏道修行に励んでいることが回向の大前提となる。自らの修行なくして他に功徳を与えることなど、できる道理はないからである。」
 この論説の何が不遜かといえば、御本尊と、衆生の修行と、その功徳との次第が、全く整理されていないことである。すなわち、御本尊よりも、むしろ衆生が中心となった功徳論に堕しているのである。
 衆生自身が、御本尊を受持信行することによって、その功徳が他に回向されるということには、何も異論がない。しかし、衆生自身の力のみで、功徳を得るのではない。仏法の追善回向は、あくまでも御本尊に具わる法仏の力用が根本である。衆生の側にとっては、この御本尊を根本とした、報恩行としての信力・行力が必要なのである。この受持即観心の修行のところに、四力が成就され、はじめて真実の追善の功徳が顕われるのである。しかも、衆生側の報恩の信心を受け止め、その功徳を顕わすことのできるのは、本宗の御本尊と、一体不二の血脈相伝以外にないのである。仏法の追善供養の本義は、御本尊を根本とし、衆生の成仏を旨とする報恩行であることを、決してなおざりにしてはならない。
 それ故に、日寛上人は、
「凡そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず」
「若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや」
と仰せなのである。確かに同日付「社説」の中にも、
「御本尊を信受して、南無妙法蓮華経の題目を唱える功徳を他にさしむけることをいう。」
と、御本尊受持のことに触れてはいる。しかし、残念ながら、「社説」全体の論調には、衆生自身の修行の功徳は、自らの修行が前提になるのだと誇示するばかりで、それらの衆生の功徳善根の源は、御本尊即三宝尊の徳用にあるのだという、第一義の信仰が見受けられないのである。
 このように、先の小林氏の所論、及び社説の 見解は、御本尊を信受するといいながらも、その信仰の姿勢には、衆生の修行を尊ぶことはあっても、仏法に対する報恩の念を少しも感ずることはできない。常盆・常彼岸の日常の信心はもとより尊いが、本宗の化儀・儀式は、全て御本尊を根本とした報恩の信心による、衆生成仏のためのものである。父母先祖の供養をしたいという衆生側の願業は、御本尊への報謝を根本とした葬儀・法事・盆・彼岸などの儀式において、四力成就の功徳のもとに追善回向されるのである。それは、また亡者のみならず、自身の善根を積むことにもなるのである。
 また、本宗の葬儀・法事・盆・彼岸の儀式のときに、末寺僧侶が白袈裟と薄墨の衣を纏い、御法主上人の名代として導師を務めるのは、下種三宝の御本尊の功力を根本にした、真実の追善回向を行なうためである。しかし、それはまた、同時に『当家三衣抄』に示されているように、他宗謗法の黒紫金襴の法衣を簡別し、本宗の薄墨の名字本因下種の仏法を表明し、参列の衆生をして順逆二縁を結ばせる、折伏行でもある。
 こうした、本宗の化儀即化法のあり方を、世間や謗法の学者の意見を借りて、既成宗教の形式・風俗と同列にし、しかも混同して論ずるのは、本宗の教義と信仰に対する不解・浅識の暴論でしかない。本宗の化儀は、宗開両祖の化儀・化法をもととするのである。この御本尊を根本として、衆生を成仏へ導く本宗の化儀には、必ずそこに報恩行と折伏行が具わることを忘れてはならない。また、本宗の化儀を通して、僧俗ともに正しい信心の筋目と功徳とを、自然に身に具えていくことができるのである。


3.本宗の化儀と葬送儀礼無用論

 小林氏の所論に出ている、「彼岸会は本来、仏教と無関係」「習俗を仏教の本義とみる錯覚が定着」との見出しの内容について、氏の所論の中では、「(質問者)この彼岸会というのは、仏教本来のものなのですか。
 いいえ。この習俗はインド、中国にはなく、日本独自のものですから、本来、仏教とは無関係であることが明らかです。」
と、まず彼岸会の時節に合わせてか、彼岸会を日本の風習に過ぎないと論じている。また、仏教学者の中村元氏の次のような見解も載せている。
「仏教では儀式で人を縛ることはしない。原始仏教は葬儀に否定的だった。日本では、徳川時代にキリシタン禁制と結びつき檀家制度が確立、葬儀は寺でやることが決まりになった。その名残が今日まで及んでいる」(3月18日付『朝日新聞』)
 以上のように、世間の学者の見解を取り入れながら、葬儀も法事も彼岸会も、全て本来は、仏教に無関係であると述べている。そして、それらの葬送儀礼は歴史的所産であり、結局それらの真義は、「衆生の信心の深化と故人への温かい心にある」などと、邪宗の輩のいう心情論と、同じ程度のことを述べているのである。
 宗祖大聖人は、『太田左衛門尉御返事』の中で、世間の厄年のことに寄せて、
「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用うべきか」
と仰せである。すなわち、本宗の彼岸会の法要が、先祖に対する正しい追善供養であることはもちろんである。また、たとえ彼岸会が、本来仏教と関係がなかったとしても、日本中で先祖を敬う一般的な行事となっていたならば、世間普通の義を用いて、謗法の他宗で行なう彼岸会の意義を破折し、また正宗信徒が謗法の儀式に与同しないように、防非止悪のためにも、本宗としての彼岸会を修する必要性があろう。
 日本人は、特に故人先祖に対する愛惜の念が深いといわれる。故人の葬儀を執行し、法事を営み、墓参りをするのも、その現われである。また、日本人の多くは、こうした慣習の中で、先祖を拝むことが正しいとも思っている。他宗の多くは、仏法の基本的なことさえわきまえず、このような日本の慣習に、そのまま同化している。しかし、大聖人の仏法では、故人先祖を拝むのではなく、正しい御本尊に帰依すべきことを教えるのである。
 それを、小林氏は、平成の時代に入って、突如として仏法の化儀・儀式を無用なものと否定し、しかも日本人の宗教心までも、根こそぎ刈り取ろうとしているのである。そうしなければならない理由は、宗門に対して、ためにする以外、全く見当たらない。
 宗祖大聖人が、三大秘法の御本尊を建立され、衆生が帰依すべき尊い仏法を説かれていても、それを修行する方式・方法がなければ、衆生は成仏することができない。この修行のあり方を説いたのが本宗の化儀である。すなわち、御本尊を絶対と信じ、余念なく下種の題目を唱えること、これは大聖人が定められた根本化儀である。この化儀を軽んじたり、己義をもって勝手な方法に変えてしまうことは、そのままが既に謗法であり、到底、成仏は遂げられないのである。
 同じように、本宗の化儀即化法に基づく総本山の儀式法要は、全て宗開両祖を嚆矢としているのである。したがって、宗開両祖以来、嫡々付法の御法主上人がその根本化儀を伝承されているのである。宗内の僧俗は、それら総本山の化儀を中心として修行し、成仏の境界を開いてきたのである。
 総本山700年来の丑寅勤行、あるいは古式ゆかしい御大会や御霊宝虫払大法会に参列すれば、宗開両祖の尊い御精神を、誰もが心に深く拝するはずである。
 その他の、本宗における葬儀・法事・塔婆供養等の化儀においても、宗祖大聖人の御在世には、例えば富木常忍氏に与えられた『始聞仏乗義』に、
「青鳧七結下州より甲州に送らる其の御志悲母の第三年に相当る御孝養なり」
とある。これは、富木氏が、大聖人のもとへ御供養を奉り、母の三回忌の追善を願い出られた現証である。ほかにも、『曽谷殿御返事』『忘持経事』『千日尼御返事』『四条金吾殿御返事』『中興入道消息』などを拝せば判るように、弟子檀那達は年忌・盆・彼岸の折に、宗祖大聖人へ故人の追善回向を願い出ているのである。また、日興上人の書状を拝しても、「御霊供料」「盆料」「彼岸御仏料」等の表現が見られ、日興上人やその弟子達が、故人の追善供養のために、御本尊の前で、読経を行なうことを述べられているのである。
 このように、宗開両祖の時代においても、僧俗両者にわたり、僧侶による読経回向と、檀那の供養を伴う追善仏事がなされたのである。それがまた、宗開両祖の折々の御教化とともに、弟子檀那との深い信仰の絆を結びつけたのである。こうしてみれば、本宗の化儀を、江戸時代の悪しき遺風などということは、見当違いの謬論であり、むしろ宗開両祖の化儀を冒涜するものである。
 なお、小林氏は、中村元氏の所論を引き、檀家制度に絡めて、本宗寺院の儀式の形骸化を目論んでいるが、この点について、ここでは詳述しない。ただ一言だけいえば、師弟相対の仏法上の法義に照らしても、また歴史的事実からいっても、江戸時代の檀家制度よりはるか以前、宗開両祖の時代において、本宗の本末関係や師檀関係の基礎は整えられていたのである。したがって、江戸時代の檀家制度をもって、宗門儀礼を誹謗しようとも、何らその正当な根拠がないのであるから、その誹謗は全く成立しないのである。


4.時代遡及による安直な化儀否定は、仏法への誹謗

 平成3年3月20日付『聖教新聞』の「社説」には、次のように論じられている。
「塔婆供養の風習は日本だけの、しかも平安時代から始まったもので、仏教の本質でも何でもないからである。
 日蓮大聖人が御書において塔婆供養に言及された例もわずかながら存在するが、それは、仏教の本義にたがわない限り、各時代や地域の風習を否定せず、時と場所に応じた弘法を行っていく『随方毘尼』の例として拝すべきであろう。」
 この塔婆供養については、最近の『聖教新聞』では、およそ考えつく限りの誹謗を尽くしている。塔婆供養の意義については『草木成仏口決』『中興入道消息』などに説かれているが、本宗の化儀を誹謗する者に対して、ここで塔婆供養の功徳を述べても無意味かもしれない。
 ただ言えることは、大聖人自らが、
「そとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば」
と仰せになり、その功徳を教示せられているのである。その大聖人の塔婆供養の尊い化儀を、ひとつの慣習に過ぎないとし、「仏教の本質でも何でもない」と否定する暴言は、決して許されるものではない。
 たとえ、塔婆供養の風習が、かりに「日本だけの、しかも平安時代から始まったもので、仏教の本質でも何でもない」としても、御本尊を根本とする本宗の塔婆供養の化儀を、他宗謗法の塔婆供養と同じ次元で扱うこと自体、間違いなのである。また、こうした短絡的な時代遡及による考えで、本宗の化儀を冒涜する所論が、仏法それ自体の誹謗につながることに気付かないのであろうか。
 それと同じような考えをした他宗仏教の文献学者がいた。仏典の中でもより古い経典のなかに、釈尊の真意が説かれているに違いないとして、古き阿含経典を、さらに時代遡及して調べていくうちに、阿含仏教の諸説にも混乱して、ついに釈尊の生存説まで否定せざるをえなかったという、実際にあったお粗末な話である。
 その論法からいくと、創価学会では、宗祖大聖人の大慈大悲の三大秘法の御施化も、「日本だけの、しかも鎌倉時代から始まったもので、仏教の本質でも何でもない」ということになるが、そうなれば、仏法誹謗どころでは済まされないことにもなる。
 このような、時代遡及による幼稚な策を弄して、本宗の化儀を誹謗しても、何の価値的意味も持たない。大聖人の仏法の本質は、久遠元初の宗旨に立つものであり、その化儀は宗開両祖に始まるのである。大聖人の化儀・化法は、他宗でいう本質でないことは当然のことである。いやしくも大聖人の仏法を信仰する徒であるならば、あくまでも大聖人の仏法の宗旨の上から、本宗の化儀を拝すべきである。小林氏の所論の中でも、
「塔婆に限らず、現在寺院が執行する葬送儀礼のほとんどは、室町期後半から次々に準備され、江戸時代にその形が整ったもので、いわば仏教界がつくりあげた経営安定のための一大葬送体系ともいえるものだったのです。」
と述べて、本宗の葬送儀礼も経営安定のためであると、ほのめかしている。しかし、本宗の化儀は、先に述べた史実にも明らかなように、大聖人の御在世からの化儀を受け継いでおり、しかも爾前迹門の仏教の化儀を破折して、衆生の成仏のために定められた重要な化儀なのである。


5.儒教は現世ばかりの孝養、仏法は三世の孝養を説く

 小林氏の所論では、仏教の先祖供養は儒教儀礼であるとする加地伸行氏の所説を紹介している。
「お葬式をし、墓参りをするのは仏教の教えに基づくと日本人は思っている。しかし葬式で死者を拝んだり、墓を作ったりの先祖供養の実質は、実は儒教儀礼である。本来的には仏教に関係のないこと」(3月13日付『毎日新聞』夕刊)
 小林氏は、この見解を受けて、葬式仏教と端的に称される江戸期以来の日本仏教は、むしろ儒教等のやり方をとり入れたものであるから、そういう風俗を仏法の本義と誤ってしまえば、本末転倒も甚だしいと述べている。
 つまり、本宗の化儀に対し、先祖供養の実質は儒教儀礼に過ぎず、本来仏教とは関係がない。したがって、先祖供養の儀式は、取り立てて必要なものではないという意向を示している。しかし、加地氏の所説における、仏教と儒教儀礼との関係についての学問的な見解の是非はどうであれ、大聖人の仏法の化儀と他宗の仏教儀礼とを、同列に扱うこと自体愚かなことは、すでに述べてきた通りである。
 小林氏の所論では、先祖供養は儒教儀礼に過ぎないと、先祖供養の化儀を否定するのである。しかし、大聖人の仏法は、儒教の現世孝養を破折して、仏法の三世の孝養を説くのである。この仏法の立場を看過して、本宗の先祖供養の化儀を否定することはできない。
 宗祖大聖人は、報恩を極めて大切にされ、『報恩抄』をはじめ諸御書の中で、四恩報謝の教えを繰り返し、力説されている。例えば『報恩抄』には、
「いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか」
また、『開目抄』にも、
「何に況や仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし」
と仰せである。しかし、大聖人は儒教と仏法を、決して同一視されたのではない。『開目抄』の趣旨に沿っていえば、確かに儒教は忠孝の教えを説くが、それは、
「但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず」
のみで、
「いまだ過去・未来を一分もしらず」
「過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり」
と破折されるのである。つまり、儒教の恩は、現世に限るのに対して、仏法の恩は、父母の三世を救う孝養を説くのである。
 宗祖大聖人は、『法華経』を「内典の孝経なり」と規定されている。本宗の血脈相伝の仏法から拝せば、御本尊はまさに主師親三徳を兼備されている。したがって、その御本尊に対し奉る報恩感謝の信心が、何よりも尊いのである。その真実報恩の信心の功徳の発露は、必ず本宗の先祖供養の化儀の上にも顕わされ、さらに自他ともに功徳を成じていくのである。『聖愚問答抄』にも、
「今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る是れ実に恩をしれる人なりと見えたり」
と説かれている。現世における諸々の恩愛は、仏法の真実の報恩行によらなければならないのである。そして、それが転じて、また自他の成仏の道へと入っていくのである。小林氏は、学会組織内における、誤った今生のみの恩愛を捨てて、御法主上人の御教示のままに、仏法の実道に入り、真実の報恩の功徳を知るべきである。


6.回向の本義は、御本尊と唯授一人の血脈におわす

 以上のように、最近の学会における「先祖供養の考え方」の誤りを指摘してきたが、本宗の化儀に対する誹謗は、大聖人の仏法上の本義をも否定する大謗法につながることを、深く自覚しなければならない。
 世界の外道宗教にしても、それぞれ独自の葬送儀礼の形式はある。学会の目指す世界宗教が、いかなるものかは定かではないが、そうした宗教儀式などは、一切必要ないというのだから、現在の世界宗教とも、方向性が異なるといえる。しかし、少なくとも、大聖人の化儀をことごとく否定し去ったならば、いくら世界宗教たる仏法と称しても、それは大聖人の仏法から道を踏み外し、ただの理念信仰へと転落するものだと指摘できる。
 昭和57年3月20日付『聖教新聞』の社説には、彼岸の意義について、次のように本宗の正論が述べられている。
「正宗と他の宗派の彼岸は根本的に違い、生きている我々自身がまず成仏への善根を積み、これを先祖に回向すべきであり、日々の信仰実践が到彼岸の修行という意味をもっている。なかんずくお彼岸の日には、先祖の追善と自身の彼岸を真剣に願って正宗寺院に参詣し、御本尊に御供養申し上げ、塔婆を立てて回向し、広布への強き決意を新たにすることが望まれる。それが真実の報恩であり先祖も自身も福徳を得る道なのである。」
 それが、平成3年3月20日付『聖教新聞』の社説になると、追善回向の真義に対し、意図的な変節が見られる。
「回向とは、彼岸や盆などの特別の時だけに行うものではなく、日常的に毎日の勤行の際にしていくことが、その基本となる。大聖人の仏法において『常盆、常彼岸』といわれるのも、その意義である。彼岸に故人の追善を行う風習が日本だけのものであることを考えれば、世界宗教である日蓮大聖人の仏法において、回向が盆・彼岸に限定される道理はない。」
「我が国では、しばしば故人追善の祈願を僧侶のみに依頼する姿があるが、そのような在り方は、自身の仏道修行を棚上げして安直に『追善』だけを行おうとするもので、回向の本義をゆがめるものといわざるをえない。」
 昭和57年3月の「社説」では、日々の修行実践を尊びながら、なかんずく彼岸等の特別の折には、正宗寺院へ参詣し追善回向を願うことが、真実の報恩であると述べている。しかし、それから9年を経た平成3年3月の「社説」では、本宗の常盆・常彼岸の精神を逆手にとり、本宗僧侶による化儀・儀式を軽んじているのである。すなわち、朝夕の勤行の際に、追善供養を行なうのだから、故人の年忌や盆・彼岸などは、付随的なものでしかないという論旨である。
 本宗の化儀・化法の上からは、当然、昭和57年の社説にある追善供養の考え方が正しいのである。しかし、ここに至って、なぜ突然に回向の本義を改変しなくてはならないのか。これは、天魔と化した学会首脳の画策である。すなわち、一般会員に対して、宗門不信、僧侶不信をあおり、寺院への参詣を阻止せんとして画策されたものであり、畢竟、学会全体の宗門離れを目的とするものなのである。そこには、当然、唯授一人血脈付法の御法主上人への誹謗の罪過がある。唯授一人の血脈を誹謗するものは、必ず師弟相対の信心を否定し、化儀・化法もなおざりになり、破仏法の罪過を生ずるのである。
 総本山への登山や、末寺の参詣は必要ないと指導し、またその指導を鵜呑みにする人は、その時点で本門戒壇の御本尊を根源とする、血脈の信心が希薄となる。そして、「御本尊はもはやどれも全部同じである」などの根本的な誤りを犯し、やがて御本尊に対する不信謗法を来すのである。すなわち、「自らの修行なくして他に功徳を与えることなど、できる道理はない」
と、自らの修行実践を誇る前に、既に御本尊を拝する師弟相対の信仰が、根底から崩れ始めていることに気が付くべきなのである。宗祖大聖人以来の血脈を相承あそばされた御法主上人を誹謗しながら、いくら修行をしてみても、そこに功徳はないのである。本宗の相伝によらず、身延流や新たな池田流で御本尊を拝する限り、自身が回向したくとも、既に回向すべき功徳はないのである。
 本宗の御本尊と、血脈相伝の二大事の上から、御本尊を正しく受持しなければ、必ず信心の道を誤るのである。本宗における回向の本義は、御本尊と唯授一人の血脈におわすことを肝に銘じ、自らの犯していることに対して、率直に自省すべきである。

 以  上