第35回本部幹部会における
池田名誉会長のスピーチの「お尋ね」以外の問題点
時局協議会文書作成班1班
(大日蓮 平成3年5月号 第543号105頁 転載)
1.「勝たねばなりません。仏法は勝負です。勝負には必ず敵がいます。敵がいないようだったら勝負できません。相撲でも、剣道でも、何でも。最後、勝つか負けるかです。」
池田名誉会長は、「仏法は勝負」ということを、スピーチの中でよく使用している。
この「仏法は勝負」ということは、恐らく『四条金吾殿御返事』の「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」、また「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つものなり」などの文が依拠となっていると思われる。したがって、「仏法は勝負」ということ自体は、何も間違ったことではない。ただ、池田名誉会長の解釈が問題なのである。
御書の中で仰せの「仏法は勝負」とは、道理を根本とすることが大前提となっている。それは、理・文・現の三証の上からも明らかである。つまり、正しい道理と文証とによって正邪を判じ、そして現証によって決するのである。したがって、道理の上から一切の教法や思想をみれば、おのずとそれらの高低、浅深の相違が判別される。このように、さまざまな教法や思想に高低、浅深の相違があるならば、必然的にそれらを基とした一切の主張や価値観にも、現実的な勝劣、正邪の別が顕われてくる。したがって、特に道理をもって根本とするのである。
大聖人の仏法における道理とは、教理的には五重相対であり、従浅至深して顕わされた文底下種独一本門が、一切の道理の根本となる。また、信仰的には、文底独一本門の所詮である本門戒壇の大御本尊、及び大御本尊と二而不二である唯授一人の血脈に対して、深く信順することが道理の本である。
同抄では、たとえ主君(ここでは四条金吾殿の主君である江間氏)が威圧し、弾圧しようとも、文底下種の妙法を固く受持していくならば、封建的な主従の世界にあっても、道理の上からおのずと勝負は決すると示されたのである。つまり、当抄の意は、四条金吾に対して、主従の秩序を無視し、主君と対等に渡り合って勝負を決せよなどというような、低次元の御指南ではない。主従の道は貫きながらも、各々の持つ教法の浅深が、道理の上から、宛然として現実世界に顕われてくることを説かれたものなのである。
つまり、仏法では、まず道理の上から妙法は勝、その他の一切の教法や思想は劣と判じて、勝法である文底独一本門の妙法を受持することが大本であり、それを「仏法は勝負をさき」とお示しなのである。更にいえば、仏道修行における敵とは、正法に背く邪法邪師の邪義であり、それを粉砕して正法を宣布し、平和な国家を建設することにあると知らなければならない。
ところが、池田名誉会長のスピーチにおける「仏法は勝負」の意味内容は、全く異なっている。すなわち、上記のスピーチのように、概ね「仏法は勝負であるから、仏法を行ずるには必ず敵がいて、その敵と勝負をする。そして、勝負である以上、勝つか負けるかであるから、必ず我々は勝たねばならない」というものである。つまり、相撲や剣道のように、仏道修行にも必ず敵を想定するのである。そして、「勝つ」という一念のもとに、その敵と戦い、そして必ず勝っていかねばならないと解釈しているのである。換言すれば、現象世界、すなわち目に見える表面的視野における勝負を意味するのである。
池田名誉会長は、他のスピーチの中でも、「仏法、信心は、永遠に前進であり、永遠に闘争である」「勝負とは絶対的なものである。勝つか負けるか。中間はない」「勝ってこそ仏法、勝ってこそ信心なのである」「“仏法は勝負”であり、『勝つ』ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい『歴史』はつくられる」「正義は歴史が証明する」「私は一切に勝った」などと発言している。
これらからも判るように、池田名誉会長は、現象世界の一面が、物事の全てであると考えている。つまり、池田名誉会長は、精神よりも表面的な事象、心法よりも見てくれの色法を大事とし、また執拗に執着しているのである。したがって、「仏法と申すは道理なり」との仏法の大前提は、池田名誉会長には全くない。故に、この「仏法は勝負」をいう場合も、「勝てば官軍」が第一義であって、それによって真実の宗教になると考えているのである。そのため、一切の事象においては、創価学会として、また池田氏自身として、決して負けてはならないのである。
更にいえば、表面的に勝つためならば、たとえ裏工作であれ、謀略であれ、手段を選ばないという創価学会の思想も、ここに窺われるのである。同時に、小説「人間革命」や様々な著作、スピーチなどでも判るように、歴史の改竄やすり替え、歪曲をすることなども、あえて厭わない。全てが、池田氏自身の、絶対化を指向するための擬装である。
要するに、池田名誉会長の、「仏法は勝負」に対する解釈は、元となる道理を等閑にし、かつ、皮相的な現象面に執われ、戦闘的に一切を制覇していくことにあるという、全く異質のものなのである。このような思想は、広範な仏教中に説かれていない。ましてや、大聖人の文底仏法の考え方であろうはずはない。まさに池田教の思想であり、それによって歪曲された解釈というよりほかにないであろう。
2.「我々こそが、本当の『歓喜の歌』をね、歌う資格があるんだもん。『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜』だってね、それで『歓喜の歌』って何ですか。よう歌えないで、しょうがない。」
「お尋ね」の(六)に関連することであるが、「歓喜の歌」を歌う証拠として、『御義口伝』の「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」との御文を挙げていることに、当然ながら問題がある。ベートーベンの第9交響曲の合唱、すなわち信心の会合で「歓喜の歌」を歌うことについては、「お尋ね」および1・12の指摘で、その非を指摘している。したがって、ここでは触れない。
問題なのは、「歓喜の歌」でいう「歓喜」と、『御義口伝』の「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」における「歓喜」とを、同一レベルに述べていることである。
「歓喜の歌」は、旧約聖書やギリシア神話などの外道の典籍を基にした歌詞である。その歌を歌うのに、なぜ「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」との御文を持ち出すのか。これでは「歓喜の歌」イコール「南無妙法蓮華経」ということになってしまう。このような、池田名誉会長のこじつけ教学は、まさに法を下げるものであり、内外一致の外道礼讃であり、日蓮正宗の仏法を弘めていく指導者として、基本的な面から失格であるといわざるを得ないものである。
3.「それでまた、ずーっと23区のねぇ(会場に展示してある多数の作品を指して言っているらしい)、パチンコの景品じゃない、ありゃ何だ、ありゃーなぁ。チンドンヤの展示会!なん、なんつったらいいかな。芸術作品!失礼しました。芸術の文化の秋。すばらしい。全部1点1点拝見し、新聞に出ると思いますが、これはもう上野の近代美術館に出しても絶対恥ずかしくないような真心込める、込もるすばらしい作品が、ずーっと並んでおって、あー東京もよくやるなぁ、よくやるなぁ、大したもんだなぁ、変わってきたなぁ。ぜんぜん関西にはかなわないけどさあ。よくやったなぁ、こう思って、感激と、ああ感激は、登場とありゃぁさぁ。あの、拝見して、一生懸命ボタン押したら、みんな電気切れなんです。動かない。ちょうど。ともかくおめでとうございました。ご苦労さまでした。」
「秋谷会長も偉くなったなぁ。青木君も偉くなったなぁ。森田一哉君も偉くなったなぁ。うちの奥さんも、もともと偉いけどさっ。」
これらの発言は、みなジョークであるから、それぞれの発言の合間に、笑いなども入っている。つまり、学会内の権威者であり、権力者である池田名誉会長ならば、いかに会員を小馬鹿にしたようなジョークを述べようと、それは許されてしまうのである。現に、出席している会員のほとんどが、無条件で受け入れ、笑っているのである。それは、数十年にわたって、学会の組織、並びに会員を、そのように洗脳してきたからにほかならない。
しかし、少しでも冷静にみた場合、また傍からみた場合は、とてもジョークでは済まされない内容である。多くの会員が真心込めて作成したものを、冗談とはいえ、「パチンコの景品」「チンドンヤの展示会」などといって蔑み、また反対に「芸術作品!」「これはもう上野の近代美術館に出しても絶対恥ずかしくない」などと持ち上げ、挙げ句の果てには「あー東京もよくやるなぁ、よくやるなぁ、大したもんだなぁ、変わってきたなぁ。ぜんぜん関西にはかなわないけどさあ」
と、讃めているのか、けなしているのか、さっぱり判らないことをしゃべっているのである。しかし、結局は、自らの権威において、会員の真心を、はなから馬鹿にしているのである。
同様に、本来ならば、引退し、第一線を退いていなければならないはずの池田名誉会長が、多くの会員を前にして「秋谷会長も偉くなったなぁ。青木君も偉くなったなぁ。森田一哉君も偉くなったなぁ。」などと、現役のトップ幹部を見下す発言をしているのである。恐らく、ここでいわれている、秋谷会長以下のトップ幹部自体が、わざと馬鹿に徹し、笑って聞き流しているのであろう。しかし、このようなことは、道義的にも、また社会的にも、決して許される発言ではないはずである。
これ以前のスピーチでは、多くの会員の面前で、学会の長たる秋谷氏が、罵倒されたことさえある。池田名誉会長はもとよりおかしいが、秋谷会長をはじめとする学会首脳も、このような状況下で、平気で笑いを装っていられること自体、その精神を疑うものである。しかし、あるいはこれが、現在の学会精神なのであろうか。
ともあれ、これらのジョークにおいても判るように、池田名誉会長の心の中では、独占的権力欲や名誉欲が、猛烈に働いているのである。つまり、すべてを見下し、すべてを思いのままにしていく、という大きな慢心が、池田名誉会長の考え方の基本になっているのである。
4.「皆さん方も、御本尊もった学会っ子です。仏勅を蒙った、人です。ただごとじゃない地涌の菩薩です。自分がいるかぎり、何の心配もいらない、最高に富める者である。依正不二でみんな富める者である。そして見てください。こういう気概で、信心しなければ、何のための信心か。何のための人生か、ということをまず申し上げておきたいと思います。」
ここでは、自分たちは「地涌の菩薩」であるといいきっている。これは、明らかに6・30違反であり、僭越至極にして、不遜極まりない発言である。
6・30の質問と回答を追ってみるべきである。
5.「『深く深く敬意を表する次第であります。』ということで、ずっとずーっと褒めているんですよ、創価学会を。布教が大変だ、折伏は大変だ。700年間出来なかった。ちゃんと知ってらしたんです。今は当たり前だと思ってるけども、とんでもないことです、本当は。それで、その日淳上人、それはもう先師であり、ね、師匠ですよ、宗門の。」
「お尋ね」の(四)の前半の質問に関する発言である。学会の1・1回答では、「日蓮正宗では700年間折伏をしなかった」という発言内容に対する質問には、あえて回答を避けており、「お尋ね」で「そんなに」を「まったく」と解したことに対する疑難をするのみであった。
しかし、時局協議会文書作成班4班の指摘のごとく、この意のものは、「お尋ね」で引用した発言のみではなく、上記のように、他の部分でも同様に発言しているのであるから、「そんなに」では済まなくなるのは当然である。
6.「会館つくんだって、今大変ですよ。もう、こっちに反対がある、こっちに反対がある。ねぇ、それで今度は友好を、こう結ばなければならない。それから、また、あのー、えー、ビラを配られたりなんかして、大変。お寺も同じですよ。たくさん造っているけれども。そういう苦労わからないんですよ。もう簡単なように200箇寺が出来ると。どれほど秋谷君やね、森田君が苦労しているか、ぜんぜんわかってやしない。会館もずいぶん遅れるとこありますけども。そりゃそりゃ大変です。」
もともと、200箇寺は、当初の計画として、東京23区内に毎年1箇寺ずつ、計11箇寺が予定されていた。そして、初年度には、順調に江戸川区に大護寺が建立された。しかし、2年目以降、都区内には一向に建立されず、6箇年が過ぎた平成2年秋になっても、何の進展や連絡もなかったのである。そのため、平成2年11月14日の宗務院・学会の連絡会議において、藤本総監が、その状況について質問したのである。それに対して、学会は、宗門からそのようなことを質問すること自体が不遜であるようないい方で、宗門側をまくし立ててきたのである。この時の状況については、平成3年2月7日発行の『大日蓮』号外〔創価学会問題について(一)〕に詳しいので、追って見るべきである。
ともあれ、このような経過の上から、宗務院に対する批判として、上記のような発言がなされたのである。それは、また学会からの「お伺い」文書によっても明らかである。
なお、「どれほど秋谷君やね、森田君が苦労しているか、ぜんぜんわかってやしない」との発言は、財務勧募の手前、学会だけが苦労しているということを、吹聴したかったのであろう。しかし、秋谷会長や森田理事長が、役目柄、何らかの苦労をしたとしても、土地の選択や買収、さらに建物の建設などに関しては、一切を三菱商事が請け負っていることは、当日の会議でも、「直接三菱商事に聞いていただいたほうが、納得していただけると思います」と、秋谷会長が言っていたことから判るのである。もし、秋谷会長や森田理事長が苦労しているとすれば、池田名誉会長が気に入るように、200箇寺の土地をいかに安く買い、建物をいかに安く建てるかということであろうか。
事情はどうあれ、多くの会員の前で、200箇寺の寺院建設を恩着せがましくいうことは、御供養の精神に反するものであることを知らなければならない。
7.「体裁なんてものはすぐ判っちゃいます。本物か本物でないか。真実は隠せません。創価学会の真実のこの実績、これは隠せません。本山の繁栄も創価学会の外護です、全部。真実は隠せません。ね、それを隠して、ねぇ、『学会改革の時代だ』そういうことは言わせません。御本尊が裁きます、それから世間が何と言おうが全部歴史が裁きます。真実は隠せない。」
「日達上人は昭和46年9月1日、法華講の富士会館で、富士会館は私がつくってあげたんですよ、法華講は。『今、幸いに宗教の自由が許され、本当に民主的時代になった今日(以下略)」
上記の発言からは、小乗仏教ですら否定する我欲を、池田名誉会長は、自らに限って肯定していることがよく判る。すなわち、池田名誉会長の大きな慢心が、大変よく表われた発言なのである。
そもそも、三宝の御宝前を荘厳することは、清浄な信心に基づいていなければならないのである。したがって、それに伴う御供養なども、三宝への喜捨としてなされるべきで、見栄や自慢のためにしたり、あるいは功績・褒賞を求めてすべきものではない。
このような観点から、上記の発言は、信仰者としての基本的な姿勢を心得ていない池田名誉会長自身の、我慢偏執の本心を露呈したものと断ずるものである。
また、「真実は隠せません」「真実のこの実績」などと、「真実」の語を無造作に連発しているが、池田名誉会長は、一体どのような意味で、この「真実」の語を使用しているのか。
宗教用語として捉えた場合、「真実」の語の意は、大聖人の仏法では、当然三大秘法に当たるが、また、信行に約せば、三大秘法の受持成仏を遂げるための、行者の堅固な信心に当たる。
しかし、上記の発言からは、到底そのような殊勝な心は感じられない。とすると、池田名誉会長のいう「真実」の語の意は、「ほんとう」「偽りのないこと」「嘘ではないこと」というような、一般用法における事実という意味である。確かに、表面上の事実としての実績をいえば、池田名誉会長や創価学会には、多大な実績の事実がある。しかし、事実の中には「真実」もあるが、偽りの心を表面上で覆い隠すための事実もある。その場合、それは事実であっても、「真実」ではなく「虚偽」である。つまり、池田名誉会長の外護や供養の実績は、確かに事実であっても、外護や供養に対する意識は、上記の発言どおり、我欲に満ちたものであるから、三宝に対する「真実」の供養ではなく、「虚偽」の供養なのである。したがって、池田名誉会長は、このような発言の中で、本来、「真実」などという語を使用できる立場にはないのである。
8.「『解決するには仏教の宿業論、仏教で、仏教では誰が間違っているか、ね、どちらに罪があるかを問題にするのではない。すべての人に共通の宿業がある。それを転換することを教えている。』宿業転換、宿命転換、これが正しい。これはすごい思想であります。『ただ私は三点、質問がある』これ、これからやるんだけどねぇ、『1、悪い業の、悪い業の本質というものは何か。2、善い業というものはどういうことをいうのか。3、善い業の方へ悪い悪業を転換するにはどうすれば良いのか。』人間革命読めばいいんだけどさぁ。」
仏法の考え方を知りたいという識者の意見を取り上げて、「人間革命読めばいいんだけどさぁ」などと、平気でいえる傲慢さ、不遜さには、正宗の信徒とは思えないものがある。純真な信徒であれば、御書を繙いていくのが筋である。あるいは、また「人間革命は現代の御書である」とした、52年路線の再来であろうか。
ともあれ、信仰者として、あるまじき傲慢不遜な言動であり、池田名誉会長の信仰の狂いが、如実に表われた発言といわなければならない。
9.「それで終わりに、もう少しいいですか。(はい!)また、あの日達上人の話ですね、これはやっぱり本山できちーっと将来のね、僧俗の問題として私言っておきたい。日達上人は昭和46年9月1日、法華講の富士会館で、富士会館は私がつくってあげたんですよ、法華講は。『今、幸いに宗教の自由が許され、本当に民主的時代になった今日、ここに幸いにして、我々の法華講の大指導者』、池田先生ですよ。『が出現せられたのでございます』とね、『出現』ですよ。『まことに今日、この指導者が出たということは、恐らくこの時代に広宣流布をさせんがために、仏様がそうした』、そのままの文ちょっとね、あのー、文、あんまり論理的だったけど、『仏様がそうした、大聖人様がそうなさった、と推測するのでございます。』法主ですよ。『私ども(私どもも私も)、本山において全面的に、この指導者に』そうですね、『外護を依頼し、すべて信頼して、本山もますます盛んになり、本宗の各寺院も盛んになり、年々寺院も増加して(年々として寺院も増加していく)、有り難い時代となったのであります。(ございます。)』
『この法華講総講頭という大指導者を得た今日、皆一致して、そして広宣流布へ邁進して、大聖人(大聖人様)の御意を達成していただきたいと、っていただきたいと思うのでございます。』この猊下の言葉に反した人は僧俗共に、これは猊下に対する師敵対ですから。これは明解といえましょう。」
池田名誉会長の常套手段として、御歴代、とくに日淳上人や日達上人のお言葉を巧みに利用して、自身や学会を正当化する場合がある。上記の発言も、その例に漏れず、日達上人のお言葉を意図的に引用し、自身の本心を強調しているのである。とりわけこの部分は、池田名誉会長が、実際に何を考え、何を志向しているのか、その本性がよく表れている部分である。
上記の中で、「出現せられた」とか、「仏様がそうした、大聖人様がそうなさった、と推測するのでございます」という日達上人のお言葉に対して、ことのほか思い入れが激しいのは、池田名誉会長の本心を発露するために、非常に都合のいい媒介となるお言葉だからである。つまり、池田名誉会長は、自身こそ、本仏大聖人から仏勅を被った大指導者である、あるいは本仏の再誕として生まれた大指導者であるということを、ことさら強調するとともに、御法主上人をはじめとする僧侶や、信徒の一切に、決して左右されない立場にあるということをいいたいのである。
ここで、池田名誉会長が根本的に考えていることは、まさしく池田本仏論であり、また俗上僧下(換言すれば学会は主、宗門は従)という、僧俗対等よりも、さらにひどい僧俗観である。これらは、まさに慢心そのものの表われで、破仏破法の典型というべきである。何が「あんまり論理的だったけど」なのであろうかと疑うものである。
しかも、「法主ですよ」と、あたかも日達上人が、このことを認定したかのように、すり替えて自慢し、また「この猊下の言葉に反した人は僧俗共に、これは猊下に対する師敵対ですから」と、さも自分が一番偉いのだから、自分に従わない者は師敵対であると断言するなどは、まさしく愚の骨頂にして、思い上がりの極致を露呈したものというべきである。まさに現代版の大慢婆羅門である。
10.「まっ、トルストイの話しも、この間したけども、死の準備のために言っておく、家を出て永遠の生命を求めよう、仏教の考え方ですね。それでは小乗的考え方。我々は家を出る必要ない、出される人はいるかもしれないけど、酒飲みすぎで。家を出た。本当は、出家というものは富や快楽や虚飾から離れた少欲知足でなければならないんです。出家は。」
ここに2点ある。
1点は、トルストイの考え方が小乗仏教の考え方だということである。
家を出て永遠の生命を求めることは、六師外道などをはじめとして、仏教以外の多くの宗教教団で説くことである。問題は、それぞれの宗教が、何を価値観として、どのような法を説いているかということである。
仏教では、一般に解脱(成仏)を説き、その行法として、三観三諦などの観法を説くのである。小乗では空観のみであるが、どうしてトルストイの出家の考えが空の考え方につながるのであろうか。内外混乱もはなはだしい。
2点目は、「本当は、出家というものは富や快楽や虚飾から離れた少欲知足でなければならないんです。出家は」との発言である。これはごもっともな発言であり、出家は本来、少欲知足でなければならない。しかし、煩悩即菩提を旨とする末法の大聖人の仏法において、それこそ小乗仏教で説くような「富や快楽や虚飾から離れ」ることが、果たして是といえるであろうか。それも、そうすることが末法の僧侶の本義であるかのように、「本当は」という語句を冠して述べているのである。ここに、池田名誉会長の、宗門僧侶に対する僻み的な批判が窺われるのである。
このような宗門僧侶批判を、多くの会員の前で行なうことは、明らかに宗門僧侶を陥れる行為であって、僧俗和合のためには、決してよいことではない。なぜなら、聞く者が、みな僧侶不信に陥るからである。もし、具体的に僧侶としてあるまじき行為をする者がいるとしたならば、それこそ連絡会議などの話し合いの場でなされるべきである。ここに、池田名誉会長の破和合僧の姿が顕われている。
11.「あのー、大聖人の死後、ね、在家の身としての、あなた、在家の身、信者って言わないです。在家の身としてのあなたとねぇ、あの野郎なんて言いませんよ。大したことないのにね。」
「お尋ね」の(三)に関連するが、池田名誉会長が「信者」という語を、とても嫌いな証拠である。しかも、宗門僧侶の誰もがいわない「あの野郎」などの言葉まで挙げているのである。あるいは、「なんて言いませんよ」といっていることから、本当は御法主上人や宗門僧侶を指して「あの野郎」といっているのかもしれない。どちらにせよ、池田名誉会長は、その言動においても、非常に野卑な人物であることが、よく判るのである。
このような池田名誉会長のスピーチを聞いて、学会首脳はおかしいと思わないのだろうか。それとも思ってはならないと思い込んでいるのだろうか。不思議な集団である。
12.「全宇宙がもう、いろんな歌を作ったって、その元は宇宙にあるんですから。どんな花ったって全部宇宙の中に種があるんだから。全部あるんですから。」
池田教独特の妙法観である。妙法即大聖人であり、即大曼陀羅本尊であるべき大聖人の御教えは、池田教にはない。池田教では、妙法は宇宙にあるというのである。したがって、他のスピーチなどでは、成仏は大我である宇宙と、小我である自身とが一体になったところにあるといい、御本尊は宇宙と自身とをつなぐ「幸福製造機」の役目であるというのである。まさに池田教による妙法観であって、全く日蓮正宗の教義ではない。
13.「死ということは究極の、ね、民主主義、どうしようもない。これは決定的な1つの民としてね、人間として経なければならない道なんです。」
池田名誉会長は、非常に民主主義という言葉が好きなようであるが、「死」が究極の民主主義であるということは、何をもっていえるのであろうか。
民主主義というものは、人類の歴史的発展の中で芽生えた、主権在民の政治形態のことであり、絶対君主制や貴族政治、あるいは社会主義などと区別されるものである。
一方、「死」というものは、生老病死の四苦の一つであり、生あるものの誰も逃れられないものである。これは、人類のみならず、有情界の一切にわたるものであり、成住壊空という大きな視野から見れば、情・非情の一切に訪れるものなのである。「死は一定」と大聖人は仰せであるが、この一定ということをもって、究極の民主主義であるというのは、全くの認識違いか、全くのこじつけか、あるいは池田教による生死観であって、決して民主主義の考え方でも、仏教の考え方でもない。世間の失笑を買うだけである。
もし、平等観が民主主義であり、それが仏法の考え方だとすれば、それこそ生老病死などの四苦八苦は、全民衆に、喜んで肯定されなければならないであろう。しかし、人生のすべては仏智によるものではあっても、その長短は各々違っているのである。これは差別であって、平等ではない。死に方も、人それぞれであって様々である。これも差別であって、平等ではない。また、性別も、顔も、身長も、体重も、境遇も、考え方も、みな様々である。これも差別であって、平等ではない。すべては縁起であり、因果である。したがって、差別即平等、平等即差別であって、二而不二なのである。学会は「不二を見て二而を見ず」にほかならない。
差別界にいる我々は、平等に即した差別の上で、信仰生活をすることが大事なのである。したがって、当項とは別問題であるが、僧俗にも上下の別が存するのである。これを外して、一切を平等のみで追うと、秩序を失い、規範が乱れ、道徳が滅し、人類は畜生に同ずることとなってしまうであろう。
このような、池田名誉会長の常軌を逸した思想に対して、東大や京大などの一流大学を出ている学会首脳は、何らおかしいと思わないのだろうか。先にも感想を述べたが、全くもって不思議な集団である。
以 上
