日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

日目上人法要(目師会)

 日目上人は藤原南家の御堂関白道長の庶流、下野国(栃木県)の小野寺氏から出た奥州(宮城県)三迫の新田五郎重綱を父とし、伊豆国(静岡県)南条兵衛七郎の娘で南条時光の姉(蓮阿尼)を母として文応元年(一二六〇年)、伊豆国仁田郡畠郷でご誕生、幼名を虎王丸と云いました。

 文永九年、十三歳の時に出家得度を志して伊豆の走湯山円蔵坊に登りました。文永十一年(一二七四年)、十五歳の時、日興上人がこの寺を訪ね、山内第一の学匠といわれていた式部僧都と法義の問答をされました。その折、かたわらで問答を聴いていた日目上人は、小童ながらも日興上人の説く正義に深く心を打たれ、弟子入りを願い出たのでした。

 こえて建治二年の十一月に日興上人を慕って身延へ登り剃髪し、日蓮大聖人を大師匠として「宮内卿の公(きみ)」と名付けられ「卿公」とも呼ばれました。後には、「新田卿阿闍梨(にいだのきょうあじゃり)」・「蓮蔵阿闍梨日目」と称されました。

 身延山では日興上人には無論のこと、大師匠の日蓮大聖人にもご入滅の日まで常随給仕し、大聖人から「御義口伝」等の甚深の法義を授けられたのです。日目上人はとても行体が堅固なお方で、日に何度も身延の谷河へ下って水を汲み、桶を頭にのせて運ばれたので自然に頭の頂が凹んでいたといわれています。ちなみに、そのことは日目上人の御影像にもあらわされています。

 弘安五年大聖人が武州池上右衛門大夫宗仲の邸でご休養になっている時、鎌倉幕府の二階堂伊勢守の子で比叡山の学僧二階堂伊勢法印が大勢の供を引きつれ、親の権威を嵩にきて大聖人に問答を挑んできましたが、早速日目上人が大聖人の代理として伊勢法印に向われました。問答では、相手を一々に屈伏させ、その場に居合わせた一同を感歎させました。このように法論に巧みなことから大聖人より問答第一とお褒めのお言葉を賜ったと伝えられております。

 弘安五年十月、大聖人がご入滅の後は、常に二祖日興上人に仕え、さらに、日目上人は、ご自分が縁する奥州の地を布教され、寺院を建立されるに至りました。現在の宮城県にある、上行寺・妙教寺は大石寺よりも早く建立され、現在も日蓮正宗の寺院として法統を守り続けております。

 正応二年(一二八九年)日興上人が謗法の山となった身延の離山を共にされ、大石寺においては、まず中枢となる日興上人の六壷の間ができ上ると、日目上人は早速その東側に蓮蔵坊を建立して住まい、大御本尊をはじめ、日興上人のご守護・お給仕に励みました。草創間もない大石寺の維持経営についても俗縁関係の深い南条・新田・石川等を励まし、努力されました。日興上人も、日目上人を、ことのほか重んぜられ、本六僧の筆頭とされたほどです。

 また、この大石寺落成を契機に、日興上人から法の内付を受け、御座替りの御本尊を授与されました。永仁六年(一二九八年)日興上人が重須(北山)へ移られてからは、事実上大石寺住職として寺を守られました。元徳二年(一三三〇年)十一月には日興上人から「日興跡条々之事」を授けられて本門弘通の大導師と定められ、名実ともに一門を統率する立場に立たれました。

 日目上人の公家、武家への諌状はご一生中四十二度にも及んだといわれ、大聖人、日興上人の志と不惜身命の尊い行体を奉じられて、じつに勇猛果敢に国家の謗法諌暁のため闘かわれました。そして元弘三年(一三三三年)北条氏が亡び王政復古したのを機会に天奏を決意し、同年十月、法を日道上人に譲り、七十四歳の老体にもかゝわらず日尊・日郷の二人を従え京都をめざして旅立たれました。しかし途中美濃(岐阜県)の垂井の宿でご遷化になりました。

 この日目上人の身命をなげうって広宣流布に努められたご精神は、永遠に受け継いで行かねばなりません。また、大聖人のおそばで常にお給仕に励んだお姿は、末代の信心する者すべての鏡として長く門葉の讃仰するところです。そのご高徳を拝する末弟信徒は、報恩の誠を尽すため、祥月命日の十一月十五日を期して日目上人御正当会を奉修します。これが目師会という行事です。