根拠なき脅迫文書「寺院退去要求書」の誑惑を破す
時局協議会文書作成班1班
最近(平成3年・1991年)、日蓮正宗の寺院住職・主管に対し、創価学会によって組織的に集められた「寺院退去」を要求する文書が、署名を添えて届けられている。しかも、その文書の内容たるや「名誉会長に服従するならば、そのまま住まわせてやる」といわんばかりに、数の権力に任せて一人の住職・主管をねじ伏せようという、まことにもって反民主的、暴力的内容の脅迫状である。
さらに、その添付されている署名簿には、ただ氏名を書き三文判の印鑑を押してあるだけで、その住所は記載されていない。つまり、署名簿として成り立たない、お粗末なものである。
○ 学会の「寺院退去要求書」は法的に根拠がない
日蓮正宗における判断基準は、何事においても正義を先とするのであって、数の多きにかかわらない。寺院の所有権についても同様である。『日蓮正宗教師必携』に、
「寺院・教会は仏祖三宝の所有であり、住職・主管または檀信徒のものではない。すなわち、住職・主管は、法主上人の命を受けて寺院・教会を管理し、寺務を執行するのである。」
とあるように、本来、日蓮正宗の寺院は、下種三宝尊の所有であり、住職・主管はもとより、信徒が所有権を主張できうるものではない。なぜならば、それは、下種三宝尊こそ正法正師の正義の正体にましますからである。
下種三宝尊とは、日蓮大聖人と戒壇の大御本尊と第2祖日興上人をはじめとする歴代の御法主上人の御事である。このうち、特に明確に認識されなければならないことは、下種三宝尊の御意を表わすお方が、現在の僧宝たる御法主上人にましますということである。このことは、「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」との御金言によっても明らかであるから、下種三宝尊の所有とは、まさに現在の御法主上人の所有と理解されなければならない。
また、日蓮正宗僧俗が規範とすべき『日蓮正宗宗制・宗規』上からみても、これら「寺院退去要求書」なるものは、全く無意味であることは明らかである。すなわち、『宗規』第172条において、
「住職及び主管並びにそれらの代務者は、教師のうちから管長が任命する。
2 管長は、宗門行政上必要と認めるときは、住職及び主管並びにそれらの代務者を免ずることができる。」
と明示されているように、日蓮正宗の住職・主管は、管長すなわち御法主上人の任命を受け、全国各地の末寺に赴任させていただいているのであり、その住職・主管を免ずることもすべて御法主上人の御意によるのである。
さらに、『宗規』第180条には、
「管長の任命した住職または主管及びそれらの代務者に対しては、いかなる者もこれを拒否することができない。」
とされ、御法主上人の任命による末寺住職・主管に対しては、いかなる僧俗も、その人事に関して拒否することができないのである。ましてや血脈付法の御法主上人の御慈悲によって、地元に住職・主管を派遣していただいているにもかかわらず、その信徒が私情を挾んでこれに言及することは、筋違いの越権行為である。
さらに、宗教法人法における判断においても、明確に任命権者の権能が謳われているのであるから、学会の行なっている寺院退去要求なるものは、法的にも全く効力のない策略であると断定する。
○ 学会は日淳上人の御指南を「切り文」引用
一方、信仰的に寺院退去要求を正当化しようとする学会は、その根拠として、日淳上人の、
「信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」
との御発言を引用している。ところが、これまた学会お得意の卑劣な「切り文」引用であるから、本来、全くその論拠となりえないものである。そこで、学会で引用している日淳上人の御指南の背景をほぼ示して、学会の誑惑と卑劣なすり替えを明らかにするものである。
そもそも、「信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」との日淳上人の御発言は、御登座の24年以前の昭和7年8月号の『大日蓮』に掲載された、「佛眼寺問題について」(日淳上人全集54頁)に記されている。
すなわち、上記の御発言は、寺院において管長・住職・檀徒の間の意志が分裂した場合における、寺院の所有権の所在を指示されたものであるが、通常とは異なり、管長・住職よりも、檀徒を重視しているのである。学会流にいえば、一見、民主的のようであるが、「寺院は仏祖三宝の所有」との宗是にも、また法的にも適合しない。それでは、日淳上人が、なぜこのようなことを御発言されたのであろうか。我々は、この御発言の背景をよく認識する必要がある。
結論的にいえば、これは、仙台の「佛眼寺問題」という特殊な状況の中での御発言ということである。
○ 「佛眼寺問題」について
この問題は、明治33年、日興門流八山(大石寺・北山本門寺・京都要法寺・富士妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺)から、大石寺が分離独立したことによって起こった寺籍の問題である。すなわち、佛眼寺等の創建が日尊師によることから、京都要法寺がその所有権を主張し、寺院の明け渡しを求めたことに始まるのである。この問題は、その後、40年余の争議を経て、昭和18年、大石寺(日蓮正宗)へ復帰し、もって解決した。
問題の渦中である昭和7年、某政治家等の影響もあって、日蓮正宗側は裁判に敗れた。これによって、佛眼寺の住職であった佐藤日照(覚仁)師は、強制退去を余儀なくされ、そのあとに要法寺側の住職が入ったのである。しかし、また検事局の妥協案によって、本堂は大石寺側の檀信徒にも使用を許可するというものであった。すなわち、日蓮正宗佛眼寺は、要法寺に乗っ取られ、管長と住職とは要法寺側となっていたが、檀信徒3百世帯のほとんど(要法寺側は約10世帯)は、大石寺側だったのである。追い出された住職佐藤日照(覚仁)師は、佛眼寺の隣に集会所を造り、解決の日まで堪え忍んだのである。
○ 寺院の存立意義は信仰の本質である本尊と教義にある
日淳上人の御発言は、まさにこの時のものである。ただし、この御発言の大前提は、「佛眼寺問題について」の冒頭の、
「寺院の成立と存在の意義は唯一に信仰にあり、而して信仰の根本は本尊と教義にある。此れが寺院の本質にして寺院のことは万事此の本質によつて律せられなければならぬ。」
との御発言にあることはいうまでもない。寺院の成立と存在の本質が、本尊と教義という信仰の根本にあることは、誰人も否定できない事実である。
佛眼寺の本尊は、大石寺御歴代上人が書写あそばされた御本尊である。ならば、その教義も大石寺法門であるのは当然である。すなわち、日淳上人は、佛眼寺の信仰の根本が、大石寺の本門戒壇の大御本尊と、正当血脈の相伝に基づく教義にあったことを、ここで仰せなのである。このことは、開基の日尊師がもともと大石寺の門人であったことや、佛眼寺自体がそれまでの長きにわたり、大石寺を本寺として熱烈な信仰を続けてきたことによっても明白である。学会は、この大前提をはずして、「信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」という文のみを挙げ、故意に信仰の本質を破壊しようとしているのである。
○ 日淳上人の御発言の真意
以上の大前提を踏まえた上で、学会が引用する箇所を見てみたい。
「現在寺院の所有権は法的に甚だ明確ならざる憾(うらみ)があるが一般に管長と住職と総代(檀徒の代表として)との共有と見なされてをる。通途に於ては此の解釈をもつて少しも不便がない。しかし若し一度何事かを差し挟んで三者(管長・住職・檀徒)の意志が分裂してその所有権を論ずる場合は寺院の本質により信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもので管長と住職とは但に管理者にすぎないといはざるを得ない。」
これは、学会の引用に、多少の前後の御発言も合わせたものである。
佛眼寺の檀徒は、もともと大石寺の信仰を行なってきたが、ここでいう管長・住職は、前述のように要法寺の僧侶を指すのであって、信仰の根本を伝持する大石寺の御法主上人並びに佐藤日照(覚仁)師を指してはいない。ここに、三者、すなわち管長と住職と檀徒との間における、信仰の本質的な食違いがある。それは、裁判における敗訴によってもたらされた、極めてまれな特殊状況といえる。
日淳上人は、このように、邪宗要法寺の僧侶に乗っ取られたという特殊状況の上から、寺院の所有権が「信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」と仰せなのである。つまり、佛眼寺における信仰の歴史的実績の上から、当時、法的な権利を有する立場にあった檀徒の、正法護持の精神に対して、「信仰の母体」を見られたのである。ならば、要法寺の管長と住職とを排斥し、佛眼寺を本当の「信仰の母体」である日蓮正宗へ復帰させるところに、日淳上人の御発言の本意があることは、むしろ明白ではないか。すなわち、日淳上人は、法的な特殊状況の上から、佛眼寺檀徒の大聖人の正法を護持せんとする勇猛な信心によって、日蓮正宗へ復帰するよう奨励されたのである。
学会は、日淳上人の御発言が、このような特殊な状況の中でなされたことを承知の上で、その意味するところを歪曲して、
「寺院退去要求書」に引用しているのである。このことは、自らの「信仰の母体」が、創価学会なかんずく池田大作氏にあるということを、無理に主張するものである。したがって、それは、本門戒壇の大御本尊と唯授一人血脈相伝の仏法に基づく教義にあるということを放棄することであって、まさに退転に値する行為である。
しかも、一般会員には何の説明もせず、ただ署名を求めているのである。このようなことは、信仰の上からいって欺瞞行為である。
○ 学会の卑劣な署名簿には私文書偽造の疑いも
さらに、聞くところによれば、この「寺院退去要求書」の署名運動について、「法的には問題があるが、狙いは学会員の結束の強化と脱会の予防にあるので、とにかくやりましょう」と説明する者さえいるといわれている。
もし、このことが本当であるならば、池田大作氏をはじめ学会最高首脳陣等は、この「寺院退去要求書」に、法的効力が全くないことを承知しているにもかかわらず、何も知らない会員を煽っているとしかいいようがない。このような暴挙は、日蓮正宗宗門に対する、単なる「いやがらせ」以外の何ものでもないと断定する。
事実、その署名簿の中には、何の判断もできない幼児の名前を書かせようとしたり、また署名を断ったにもかかわらず、本人の許可なく勝手に名前を使われた人もいるという。これは、明らかに「私文書偽造」に該当するものである。当然、名前を利用された人の中には、署名簿に他の筆跡で書かれた自分の名前を確認した時点で、脱会された方もいるのである。
日蓮正宗の信仰を見失った創価学会員が、たとえ何万人集ろうとも、それは烏合の衆である。「悪は多けれども一善にかつ事なし」の御金言どおり、一人の正義の住職に勝つことは、決してないのである。
○ 三宝に御供養したものを返せという無信心
その他に、封建時代と現代とを混同し、「池田名誉会長が、波木井実長と同じ道を辿りつつあるというのならば、身延離山のように、さっさと学会によって建立されたこの寺を出て行け」等と、本末転倒・支離滅裂なる論理を立ててくる輩がいる。
こういう方々には、ぜひお聞きしたい。それでは、創価学会が謗法であると自分達で認めたことになるが、いかがであろうかと。
実際、今まで真心から寺院発展のために御供養をし、また、当然、宗門外護のために使用されると信じて、一生懸命特別財務で納金してきた多くの信徒が、創価学会の誤りに気付き、既に脱会されているのである。創価学会は、その信徒達からも寺院を奪おうというのであろうか。
また、寺院建立のために特別財務で納金をしたのであるから、
「住職を追い出して寺院を創価学会で乗っ取るというなら、特別財務の納金を返して貰って創価学会を退会したい」といっている方もいる。学会では、その方が財務で納金した額の、全てを返還するというのであろうか。聞いてみたいものである。
ちなみに、御供養に対する精神を謳ったものの中から、一例を挙げておくこととする。それは、小説『人間革命』(池田大作著)第3巻に描かれている戸田2代会長の言葉である。
「当宗には、謗法の供養は受けず、という清浄そのものの鉄則さえある。御供養は、われわれ信徒の真心だけです。そのほかに何もない。
問題は、真心こめて御供養もうしあげる──ただそれだけではないか。それを、御僧侶がどうお使いになろうと、われわれ信徒には関係のないことだ。仮に、その僧侶が浄財を、とんでもないことに使ったとしても、われわれの関知するところではない。その方に、大聖人のお叱りあるは必定です。御供養はかくあるべきものと、私は思うのです」
学会員の諸賢は、このような戸田2代会長の御供養の精神を、よくよく学びなおすべきである。
○ 学会は寺院参詣者への妨害をやめよ
また、学会員の中には、寺院に参詣したいという気持ちを持つ人がかなり多くいる。しかし、毎日、幹部によって家庭を訪問されたり、尾行されたりするので、怖くて何もできないといった報告もある。このように、本当に弱い信徒からも、学会は寺院を取り上げようというのであろうか。もし、これが本当ならば、それはまさに心ある信徒から、寺院を取り上げている証拠である。これを、寺院・信徒の私物化といわずして、何というのであろう。
信徒諸賢には、日蓮大聖人の弟子である住職・主管を陥れ、追い出そうとする謀略の書類に対して、安易に署名押印することのないよう、よくよくお考えいただきたい。そして、どうか自身の成仏を懸けた信仰であるということを、つねに念頭において、日々の仏道修行に邁進していただきたいものである。
以 上
