平成十七年六月度 広布唱題会の砌
(大日蓮 平成17年7月号 第713号 転載)
今日は六月四日で、昨日と本日の二日間にわたり、総本山第六世日時上人の第六百回遠忌の法要を奉修いたしました。(中 略)
日時上人の残された御事蹟の中で、二つのことが思い出されます。一つは常に僧俗に対し、特に門下僧侶に対して非常に厳格な叱咤激励と言いますか、勤行の姿勢、態度等について実に厳重なる教えを立てられまして、いい加減なことをしておるような者に対してはその態度を正しくすべきを、また真剣になすべきを本当に厳しく教えられたことが今日、文献に残っております。そして、色々な面で僧俗に対して様々な教えを垂れられたことと思われますが、当時は今のような文明の利器と言いますか、そういう意味でのお話の内容が直ちに残るようなものもございませんので、あまり詳しくはありませんけれども、そのように常に門下を激励し、教導されたということが残っております。
特に御本尊様の御書写についても、今日残っておる御本尊の体数は、上代の御歴代上人のなかで日興上人様に次いで多いと拝せられるのであります。(中 略)
日時上人の御当職の期間は正平二十四(一三六九)年から応永十三年まで、実に三十八年もの長い間、第六世日時上人がこの総本山を董されていたのであります(中 略)
今日、色々な面で正法に対する魔が起こっております。しかし、正しい仏法を正しく信じ、行じていくところに必ずや広大なる御仏意の御利益が存するのであります。正法から離れては、我々の持っておる罪障としての貪瞋癡を正しく処理することはけっしてできません。
したがって、世間の人々のなかには正法に背き、あるいは邪法を信ずることによって、その貪瞋癡が様々な不幸な姿として現れております。我々が正法正義を信じてお題目をしっかり唱えていくところに、我々の持っておる煩悩、罪障、貪瞋癡のことごとくが煩悩即菩提の功徳として顕れることを、大聖人様の御書のなかにおいても御指南であります。
平成十七年五月度 広布唱題会の砌
(大日蓮 平成17年6月号 第712号 転載)
本日五月一日は、総本山大石寺の開基檀那である南条時光殿、法号・大行尊霊の祥月命日でありまして、先程、午前七時から当客殿においてその法要を執り行った次第であります。(中 略)南条時光殿は、今を去る六百七十四年前の元弘二年(一三三二年)の五月一日に逝去せられたのであります。(中 略)大聖人様の仏法を正しく仰ぎまいらせて、万代にわたってこの正法の護持を志された唯一の檀那である南条時光殿・大行尊霊の大きな功徳をつくづくと感ずるものであります。(中 略)
先般の虫払大法会においても少し申し述べましたが、『竜門御書』には宛名が「南条時光殿」ではなく「上野賢人殿」となっております。この「賢」という字は「かしこい」という字であります。世間一般的に賢いという言葉は使いますけれども、仏法の上からの境界においてこの「賢」という字を使うということはたいへん意義が深いのであります。「賢」に対する「聖」という語もありますが、これはさらに一段上になりますけれども、「賢聖」と熟語することもあります。この「賢人」「聖人」ということは仏法の上から、本当に事理を弁え、さらに仏法の真実の意義を深く体したところの尊い功徳を成就しておる方という意味でありまして、それをわずか二十歳の、たとえ上野の郷主ではあっても、大聖人様が「賢人」とお示しになっておるところに、当時の状況を鑑みつつ、大聖人様の御信頼が深くあらせられたということを拝するのであります。その意味からも、時光殿はこの大聖人様のお手紙に奮い立ったことと思われるのであります。
その後、大聖人様が弘安五年(一二八二年)に御入滅になるまでの間に、実に四十数通と思われますが、時光殿は大聖人様からお手紙を頂戴しております。
平成十七年四月度 広布唱題会の砌
(大日蓮 平成17年5月号 第711号 転載)
我々の心は非常に定めないものであります。ですから、その日、その時によって色々な心が起こって、いったい、どれが本当の自分の心か判らない人もあります。そのようななかで非常に迷いに迷って、生活のなかで不幸な形を表していく姿が実に多いのであります。
昔の歌で、
「心にも 及ばぬものは 何かあると 心に問えば 心なりけり」
という歌があります。我々の心というものは、実に不可思議であります。しかもその不可思議なことは、いつも迷いから迷いへと転じておるような、すなわち、どれが本当の自分か判らないような姿があり、これは世間の謗法の人達のなかには特に多いのであります。
したがって、その心を正しく見るというところに、我々の仏道修行の真実の目的があります。心を正しく見るならば、おのずとその振る舞い、行業、生活のなかの功徳ははっきりと顕れてまいります。
我々の心とはいったいなんでしょう。その実体はすなわち「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」と仰せあそばされた南無妙法蓮華経であります。我々は南無妙法蓮華経を仏様の御当体として、法として拝しておりますけれども、それはそのまま我々の心の実体なのです。ですから、我々の心の本質、本体、実体がそのまま南無妙法蓮華経であるということをはっきり知るならば、毎日の修行において、お題目を唱えることは絶対に必要なのであります。そうでなければ、我々の心は次から次へととめどなく狂いだして、不幸な状態を醸し出していくということが存するからであります。
(平成十七年三月度 広布唱題会の砌
(大日蓮 平成17年4月号 第710号 転載)
この唱題行は、申すまでもなく大聖人様が御指南である、
「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経」(御書一五九五)
の修行であります。すなわち、自行の唱題行とともに、また他を導いていくところの折伏の元となる唱題行であります。皆様方も、本年度において一人が一人の折伏を必ず行じようという志をもって唱題行に励み、縁のある多くの方々を折伏していっていただきたいと思います。
折伏の心は、色々とありますが、このことは皆様方も既に体験されておることと思います。大聖人様の御指南で、
「閻浮の内の人は病の身なり、法華経の薬あり、三事すでに相応しぬ、一身いかでかたすからざるべき」(御書八九一)
という、有名な御文があります。この御指南の如く、一閻浮提の人はことごとく病の身なのです。この病には心の病と身体の病とがあります。元気で活動しているような人でも、心の病は必ずあるのです。(中 略)
このお題目の功徳は、身体に対しても心に対しても存するのであります。多くの人々は病の身なのであります。皆様方が、唱題行の功徳によるところのしっかりとした境界から、縁のある人々の命、生活を見るとき、そこに必ず折伏をしなければならないという境界が起きるのであります。
平成十七年一月十四日 唱題行の砌
(大日蓮 平成17年3月号 第709号 転載)
仏法の功徳は行ずることによるのであります。よって、行うことがなければ仏法の功徳は全くないのであります。ですから、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」(御書六六八)
という大聖人様の御指南のとおり、行ということが大事なのであります。
境妙・智妙というのは、非常に尊い御本尊様の御当体と拝せられますが、それに対する行妙・位妙の行妙は、すなわち行うということであります。それでは何を行うことが大切なのでしょうか。世間では色々な人が色々なことを行っております。社会のなかでは善いことを行ったり悪いことを行ったりしておりますが、この善いことについても、どの程度の善いことなのかということが問題であります。善いことにも色々と段階がありますから、小さい善いことをしていても、それで本当の意味の徳が生ずるとも言えないわけであって、一切を包括してすべてに通じておるところの絶対的な意味での善の行は、南無妙法蓮華経と唱える唱題行であります。 (中 略)
この徳という字には行人偏があります。これは行ずるということでありますから、南無妙法蓮華経と唱えることが徳の本当の意味なのです。 (中 略)
なお一層、唱題行を行っていくところに、我々の本当の功徳の成就があるということをお互いに確信しつつ、精進してまいることが大切だと思います。
平成十七年一月度 広布唱題会の砌
(大日蓮 平成17年2月号 第708号 転載)
本日は全国の各寺院とともに総本山においても、第一日曜日における広布唱題会を執り行いました。毎月の第一日曜日における唱題行の意義は、正法の広宣流布のためであります。正法の広宣流布は何のために行うのかと言えば、日本乃至世界の一切衆生の真実の幸福のために行うのであります。なにもただ単に法を弘めるということではありません。この法を弘めることによって、多くの人々が本当の幸せを得ていくという、その大目的のために行うのであります。
この真実の幸福というものがどういうものかということは、なかなか難しいことでありまして、世間一般の人は、その人その人の境涯によりまして、部分的なあるものが幸福であるということしか考えられないのであります。例えば、目先の利益を追い求めて、それが満たされることだけが幸せだと思っている人もなかにはおるのであります。そういう人は、そのような狭い人生観、世界観、価値観のなかで、非常に小さな幸福のみを追い求めておるということになります。
要するに、幸福には相対的な幸福と絶対的な幸福があります。我々には相対的な幸福も当然、毎日の生活のなかにおいて必要でありますけれども、さらにそこに永遠不動の絶対的幸福というものをしっかりと得ていき、また、その境界を自らはっきり掴んでいくということこそ、本当の幸せにつながる道と存ずるのであります。(中略)
我々は現当二世の命を持っておるのでありまして、死んでから地獄へ行ってはなにもなりません。やはり、真実の正法をどこまでも命懸けでしっかり持っていくところにこそ、生死ともに三世常住の真の成仏、真の幸せがあるということを信ずるものであります。
