第一項
創価学会が言う「本尊書写は法主以外でも条件付きで認められて来たのが歴史上の事実」の妄説を破折
(1)本尊書写は法主以外でも条件付きで認められて来たのが歴史上の事実
御本尊の「書写」とは、戒壇の大御本尊又はそれ以外の(一機一縁の)大聖人の御本尊、日興上人の御本尊等を「書き写す」ことを言います。当然手で書くもので、印刷や彫刻等のことは「書写」とは言わず、後述するとおり「形木」「模刻」等と呼んで、書写とは全く異なる手続きによって古来より下付されてきたのが歴史上の真実なのです。
まず、御本尊の書写について「戒壇の大御本尊又はそれ以外の(一機一縁の)大聖人の御本尊、日興上人の御本尊等を『書き写す』こと」だと言いますが、他山・他門のことならいざ知らず、もし大聖人の正系門下たる大石寺における書写についてのことなら、全然、大違いです。
総本山歴代上人の御本尊書写は、大聖人の御化導の上より、三大秘法整足の大御本尊の御内証を、唯授一人の相承をもって書写申し上げるのであります。創価学会は、信心を欠く故に御内証書写の意義を没し、単に文字を書き写すことだと解釈しているのは、浅識の馬脚を表しています。
次に、印刷、彫刻の御本尊について、それは書写と言わず、形木、模刻等と呼び、「書写とは全く異なる手続きによって古来より下付されてきた」と言うのです。この「書写とは全く異なる手続きによって」とはまことにおかしな表現で、やみくもに「手続き」ということにこだわっています。
これは、彼等が、形木の場合は種々の手続きが必要であると勝手に考えて、今回の『ニセ本尊』配布を正当ならしめようということの伏線と思われます。しかし、こと御本尊における限り、いつの時代も総本山根本の筋目をもって一切の処置が行われてきたのです。
さらに大切なことは、宗門が学会の企てを『ニセ本尊』と言うのは、そんな形式上の手続きを言うのではないことを、まず一言しておきます。
本尊書写は、通常は歴代の法主が行うのですが、必要に応じて末寺でも書写しても良いと第九世日有上人が認めています。ただし、末寺で書写する場合は原則として判形(御本尊の左下の「◎世 日△ 花押」の署名)を書いてはならないこととされています(富士宗学要集第一巻 日有上人「有師化儀抄」P.71、日亨上人「有師化儀抄註解」P.111)。「第二十五条 末寺に於て弟子檀那を持つ人は守(お守り御本尊)をば書くべし、但し判形は有るべからず、本寺住持(大石寺住職)の所作に限るべし」
(通解:末寺において弟子檀那を持っている人はお守り御本尊を書いても良い。ただし判形は書いてはならず、大石寺の住職(貫首)の書くものに限らなければならない。」
「第二十六条 曼陀羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし、判形は為すべからず」
(通解:御本尊は末寺で弟子檀那を持っている人は書いても良いが、判形は書いてはならない。」
これについては、日有上人の『化儀抄』に、守乃至、漫荼羅の書写を末寺等に一時、許したのは、当時、戦国・戦乱の時代でもあり、交通の事情等によって現今のような下附の手続きのとれない状況下の、一往の許可であります。故に、書写は一往許しても、判形は絶対に許さないという意味があるのであります。
しかしまた、正しく考えれば、これを許すこと地体が、本山の唯授一人、手続の師のところに本尊書写の大権があったことを、日有上人御自身が明らかに示されているのであります。そういう根本における血脈尊厳の方式があったからこそ、その時代時代における適時の、また、漸時の応用があったのであります。
しかし、それはすべて、大局的に総本山の法主の許可を受けているのである。それを、末寺の書写を許可されているというようなことを一々挙げている意味は、それによって本筋を否定しようというところの、創価学会の主張の一つの準備であるということが言えるのであります。
しかし、あとで学会の誤った論証についてこれを打ち破るなかに第五十九世日亨上人のお言葉が出てきますけれども、こういうことは一時、日有上人の時代に許されたが、その後、こういう寛容に馴れることなく、何百年来の宗門の僧侶が敢えてそういうことをしなかったことは本当に喜ばしいということを、やはり日亨上人がおっしゃっておるわけです。
ですから、こういう形は、一時、許されたということであって、特にその後、ずっとなかったということであります。
第五十九世堀日亨上人は「此の判形こそ真仮の分るる所にして猶俗法の如し」(富士宗学要集第一巻日亨上人「有師化儀抄註解」P.113)と、判形に印鑑証明のような意味を持たせている旨を述べています。
この「印鑑証明」という言い方ですが、実にふざけきった者どもであります。つまり、日亨上人の「猶俗法の如し」の語をとらえて「判形は世の印鑑証明のような意味だ」と言う。ここに彼等の引文における最初の切り文を指摘します。
引用の『註解』の文は漫荼羅の判形について述べる所ですが、彼等が切り捨てたその直後の文には何とあるか、少々引用してみましょう。
「此の判形こそ真仮の分るゝ所にして猶俗法の如し、宗祖の御書中所々に判形云云の事あり・思ふべし・中にも大曼荼羅には殊に判形を尊ぶこと唯一絶対の尊境なるを以つてなり」(富士宗学要集一巻一一三)
とあります。この「中にも……」以下の文は、大漫荼羅が唯一絶対の尊境であること、したがって、その判形はまさに御本仏の境智とその主体を顕す意義が明らかではありませんか。
しかるに、これらの文を切り捨てて頬被りを決め、前文の「俗法の如し」の所だけをとって「印鑑証明のような意味を持たせている」と、在俗的解釈のみをもって軽賎しているのです。この狡猾・無慚さは、さすがに仏法の逆賊・池田の手下どもであり、立ちどころに悪事露顕する浅はかさも、よく似ているようであります。
判形の重大性は、特に『御本尊七箇之相承』に、
「日蓮と御判を置き給う事如何。三世印判日蓮体具師の曰わく、首題も釈迦・多宝も(乃至) 天照・八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり」(日蓮正宗聖典三七九)
との根本法体を示されておる。また、これを受けて、
「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何(乃至)代代の聖人悉く日蓮なり と申す意なり」(同)
と、歴代の判形の大事をも同時に示されておるわけであります。
これは本尊書写の人でなければその正意が解らない文とも言えますが、歴代の判形も、厳然たる本尊の証明であります。
特に、ちょっと言っておきたいのは、皆様方が客殿において丑寅勤行等に拝される「譲座本尊」の御模刻の御本尊様、その御本体は御宝蔵に格護されてあり、春の霊宝虫払法要の時に奉掲申し上げますけれども、ここには本尊の唯授一人の血脈相承という上における深い意義があります。このことについてもあと(本書117頁※第七項に掲載)で出てきますけれども、そういうことから言っても、「印鑑証明」などとは全く軽しめた、ずるい言い方であり、これを書いた莫迦どもが「判形とは言っても、別にどうということはないんだ」という言い方をしたいのであり、浅識、大謗法の言であります。
この判形を勝手に書いたのならば問題であるとの指摘を受けるかも知れませんが、末寺の申し出を受けて開始された今回の学会による御本尊下付はこれとは全く異なり、「書写」ではなく、後述するとおり日亨上人が明確に承認された「形木」という方法によっていますが、活版印刷等によるこの「形木本尊」の末寺での下付を禁じるどころか、相承を受けていない者による「本尊書写」の事例さえ、古来より宗門の歴史に記録されているのです。
具体的には、日興上人、日目上人の時代に、死ぬまで相承を受けなかった寂日坊日華(本弟子六人のうちの一人)が八体の御本尊を(堀日亨「旧版富士日興上人詳伝」妙蓮寺寺宝目録より)、更に富木日常(常忍)も二体、日高が五体、日朗が五体、日仙(本弟子六人のうちの一人)が一体(日目上人滅後に更に三体)、日大が一体の御本尊を書写して判形まで書いているのです。(富士宗学要集第八巻 P.214
等、日蓮聖人門下歴代大曼陀羅本尊集成)
このうち寂日坊日華(日興・日目両上人入滅の翌年の建武元年1334年に没)と日仙は最後まで富士門流にあったのですが、日興・日目両上人の存命の間に御本尊を書写しており、そのことが問題とされた記録は一切無く、逆に日興上人は入滅の年も日仙とともに令法久住のために戦っていた記録が残されているのです。(富士宗学要集第五巻 P.190 日興上人御遺跡の事)
これらの事実から、当時は御本尊書写は決して相承を受けた者に限定されていなかったのですが、日興上人が五老僧に対する破折として述べているとおり、他門流での本尊書写や、不信の者への形木本尊の授与という事態が生じたことから(富士宗学要集第八巻第七章脇書の項参照、富士一跡門徒存知の事 P.1606)、第九世日有上人の時代になって、一定の化儀を定めたものであることが理解できます。
これについては、まず初めに、創価学会の『ニセ本尊』を「末寺の申し出を受けて」云々と述べているのですが、この「末寺」という言い方が実にずるいのです。では、末寺と言うのなら、本寺はどこなのか。
ところが、『ニセ本尊』の申し出は、創価学会に対して成田宣道が平成五年六月六日にしております。一方、平成四年十一月十二日に日蓮正宗を離脱して以来、浄圓寺はもう既に実質的に総本山大石寺の末寺ではなくなっているのです。また、成田宣道なる者も、大石寺末の僧侶でもなければ、日蓮正宗の僧侶でもなくなっておるわけです。故に、ここで「末寺」と言っている意味が解らない。これは「創価学会の末寺」ということかも知れません。
しかるに、大石寺の末寺ととれるような言い方をして、どっちともとれるような実にずるい言い方で、卑劣な形をとっておる。
故にこれは、「末寺」でなく、邪宗の坊主が勝手に学会へ申し入れたことであり、血脈伝承の総本山の全く関知しない非合理な『ニセ本尊』であると言えます。
また、今回の創価学会の『ニセ本尊』下附を彼等が「日亨上人が明確に承認された『形木』という方法による」と言っていることは、書写ではなくて形木という方式をとり、活版印刷による形木本尊の末寺での下附は禁じていなかったということですが、『ニセ本尊』に「書写之」とある以上、当然、元は書写本尊であります。
また、過去に形木の本尊を末寺より下附があったことをもって、学会の『ニセ本尊』を正当化しようとしているのです。しかし、末寺が、ある時期に弘通教化の上の必要上、形木本尊を下附したことはありますけれども、それはすべて、総本山法主の許可を受けているわけであり、法主に背いて形木を出したことなど、絶対にないのです。
また、これは宗門全体が、その中心たる血脈相伝を拝受する上で、本宗の寺院僧侶たる正式の承認を受けている立場で行っているのである。きちんとした寺で、きちんとした住職が、しかも管長の承認を受けてそこに住し法を弘通しておる住職が、その責任の上において法主の許可を得て行っておるわけですから、なんらの問題もないのであります。それを、このようなことを言って、何か宗門の過去の在り方が、いかにも自分達の『ニセ本尊』と同じなんだという言い方をしようとしておるのは、全くの欺瞞であります。
次に、寂日房日華師や日仙師、これはたしかに興門本六の方々ですけれども、この方々が本尊を書写したということを言っております。しかし、日華師筆と伝えられる本尊について日亨上人は、同書において、はたして正筆か否か疑義を呈しておられるのに、敢えてそのことを隠しているのは不正直と言うほかありません。日仙師などは讃岐に行かれているのですから、これは当時の遠隔地の弘通において、交通等の事情によって、原則的には唯授一人の付嘱の書写ということに限っておるのですけれども、日興上人が弘通者として相当すると見極められ,法門相承の真義を受けたと認められる者に対して,特に許可されたということがあったのであります。しかしそれは、その時々の状況によっておるわけである。
そういう、血脈相承を受けていない者でも本尊を書写したことがあり、しかもそれが一般的な形で、ずっと流れとしてあったように言おうとしておるわけですが、学会の言う「御本尊書写は決して相承を受けた者に限定されていなかった」などということは、中心・基本に背いた暴論であります。
これはあたかも、爾前経を云々して法華経の正意を否定するようなものであります。つまり、爾前経は方便の形で説かれたけれども、本筋は法華経にある。三世常住の法華経という本門の上から見れば、法華経は久遠以来、一貫した本仏の悟りであり、真実の教えである。それに対して、時どきに出世された仏が爾前経を説かれるわけであります。しかし、最後には真実の教えである法華経が説かれてくるのです。
その化導の全体を御本尊書写の上より見れば、本筋の唯授一人血脈相承がまず厳として存在する。そこから必要に応じて、ある時期においては方便としての「許可」が現れたけれども、ついにはきちんと元の正しい在り方へ戻ることになるのです。また、実際、今はそのとおりになっておるわけです。
ですから、そのことを例に挙げて、だから中心となる唯授一人の血脈相承はないのだ、あるいはいい加減なものだと言いくるめようとするけれども、そういうことは絶対にありえません。しかし、こういうことを言って、なんとか少しずつでも中心の血脈相承を否定していこうというのが彼等のねらいであります。
要するに、学会の『ニセ本尊』は、在家が勝手に出しているということが、まず第一に挙げられます。在家乃至その団体が血脈上の御本尊を勝手に出したことは、正系門家すなわち、日蓮正宗においてはかつて例のないことであります。したがって、まさに大謗法行為であるということが言えます。
次に、彼等は在家であり、正しい宗門の本尊を左右する資格がないにもかかわらず、これを行なったのは、まさに越権の行為である。
もう一つ大事なことは、なにびとの許しを得て『ニセ本尊』を授与したのかということです。もちろん、自分らで勝手に行った、無許可の専横である。したがって、先程も指摘したように、「末寺の申し出を受けて」云々の言葉が出てくるのです。そういう言い方をして、自分らが勝手にしたことではない、末寺から許可をもらったんだというような、まるで頭隠して尻隠さずみたいなことを言っておる。しかし、それらはすべて、ごまかしの言であります。
※『第二項 「形木本尊は古来より末寺で発行」の妄説を破折する 』へつづく
