正林寺御住職指導(R4.9月 第224号)
古代、方向を指し示す「指南車」という車がありました。車の上に仙人の木像をのせて、歯車の仕掛けで、最初に南に向けておくと常に南を指すように設定された仕組みの乗り物のことであります。
中国で三世紀頃に作られ、伝説では皇帝である黄帝が濃霧での戦渦を回避するために作らせたとのことであります。
濃霧といえば、総本山大石寺へ登山される道中、朝霧高原付近の濃霧をご存じの方は、思い出して頂ければ想像できるのではないでしょうか。現在は、カーナビ(GPS)があるため非常に有り難い文明になりました。
この指南車は磁石を使用せずに、左右の車輪の回転の差から機械的組み立てにより方位を特定する仕組みであったとされ、現代の自動車などにおける原理に類似するものであるようです。方位磁石や羅針盤とは異なり「自ら南の方角を探し当て示し続ける」機能は無く、指南車の示す方向はあくまで操作者が最初に設定した方角になります。台車を床に置き、あらゆる方角に台車を転がし差し向けても、台上の仙人(人形)は同一の方角を指し示します。指し示す方角は南である必要はありません。指南車との由縁は、明治年号にも由来される『易経』の「聖人は南面して天下を聴き…」の文証に依るとされています。また、指南車の指南という言葉は「指し示す」という意味から「教える」という意味に使われ、同様に教師・先生のことを指南役ともいいます。
世間的に指南とは、南を指すこと。教え導くこと・教授・指導という意味があります。
さて、そこで日々の信行には肝心要であり、出世間法となる日蓮正宗での御指南についてであります。指南車の濃霧ではなく、御指南は末法五濁悪世の朦霧の迷いのなか、正しく進むべき人生の道を指し示される重要な尊崇すべき存在となります。
御指南は、拝し奉る心得が肝要です。宗祖日蓮大聖人をはじめ御歴代法主上人猊下に対し奉り、末法の成仏直道を御教導賜る上から尊崇申し上げる御表現として「御指南」と拝信申し上げます。
御法主上人猊下の御立場は、大聖人滅後の時代に生きる人々へ、末法万年尽未来際まで日蓮大聖人が現実に生身でいらした場合、大聖人に代わり純粋に御指南を伝えてくださる御尊体であられます。
日蓮正宗では、日蓮大聖人の御書・御金言、唯授一人の血脈相承を拝受あそばされた御歴代御法主上人猊下の御言葉や御著述は、すべて御指南として拝し奉り、御教示ともいわれ、仰せでありますとも申し上げます。宗門の機関誌、大日蓮・大白法・妙教等での表現の体裁を心得た拝し方が、非常に大切になり心肝に染めるべき法華講員としての心得であります。
主に御法主上人猊下の御指南(お言葉)は、一年を通して新年之辞からはじまり、元旦勤行、広布唱題会、一月・七月唱題行、宗祖御誕生会・五重塔のお塔開き、法華講連合会総会、総本山大坊在勤式、御霊宝虫払大法会(御説法)、日蓮大聖人御大会(御説法)、各講習会での御講義等の折りに、御指南を賜ります。また、各末寺での御親修の砌に御言葉を賜ることもあります。
毎年の大日蓮12月号には、索引が掲載されて項目別目次を巻末にて確認することができます。また、大白法12月16日号には、掲載企画記事 年間索引一覧として下種折伏育成に活用することができる便利な一覧があります。
当宗での御指南は、日蓮大聖人の御内証を相承あそばされた御境界から、時の御法主上人猊下は、世上の時代背景等を御照覧あそばされ、大慈悲の御意から適切に教え導いて下さる重要な意義が存します。時代々々により言葉の表現も対機説法の教導から変化は当然あります。例えば、「国立戒壇」等の御表現が該当すると拝します。『開目抄』に、「先判後判の中には後判につくべし」(御書537)との御指南を心得て、時の御法主上人猊下に随順申し上げるべきであります。
御指南は拝し奉る心得が大事であり、違背することは謹むべきことで信伏随従が必要です。その御指南を拝し奉る心がけのもと、「いよいよ信心もおこり、後生もたの(頼)もしく候。」(御書482)との御指南につながる現当二世があります。
日蓮正宗の信仰の基本は、師弟の筋目を重んずるところにあります。本宗においては、御本仏・日蓮大聖人と本師(歴代法主上人)、本師と小師(末寺の住職・主管)、小師と信徒という縦の信仰の筋目を重んじ、この師弟相対の信心によって即身成仏の大功徳を成就されていきます。
大聖人は『新池御書』に、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。」(御書1457)
と御指南であります。「心をしれる僧(僧宝)」とは、申すまでもなく大聖人の心を御相承あそばされて、そのお心を御承知でおられる歴代の御法主上人猊下であります。
住職の立場は、御法主上人猊下の名代(代理をつとめること)となり指導に当たります。住職は指導教師という指導する立場に当たり、御指南には当たりません。信徒においては、師弟相対の筋道上、指導教師から指導を受けて激励や育成等といわれ、僧俗一致のもと化他行に務めていきます。縦の信仰の筋目を重んじ、縦糸と異体同心・講中一結のためには横糸のつながりをも心がけましょう。
異体同心・講中一結には、二乗(声聞・縁覚)根性が障魔となる一人信心は改めて、御指南を拝し奉り師弟相対の信心を心得て精進することが、真の仏道修行となり絶対的幸福を成就することができます。
つまり、大聖人は『佐渡御勘気抄』に御指南である、
「仏になる道」(御書482)
との仰せには、御指南を根本とする師弟相対の信心になり、身口意の三業にわたり御指南を拝していく信行が大切であります。それはまた、御指南には、文字に依り衆生を度し、文字は仏の気命にも通じることであります。その文字は、まさに「法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書1274)と御指南あそばされた仏祖三宝尊である法宝の本門戒壇の大御本尊であり、仏宝の日蓮大聖人が残された御書であります。
その「仏になる道」には『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。」(御書268)
との御指南、僧宝であるところの第二祖日興上人を随一とする御歴代の法主上人猊下により、末法万年尽未来際まで令法久住せしめることが可能となります。
つまり、「二箇相承書」に御指南である、①「血脈相承に随順せよ」との御遺命に添い奉ることになります。
『日蓮一期弘法付嘱書』に、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。(中略)就中我が門弟等此の状を守るべきなり。」(御書1675)
と仰せられ、さらに『身延山付嘱書』には、
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。」(御書1675)
と御教示であります。
すなわち二箇の相承書の双方に、大聖人から日興上人への唯授一人の血脈相承に随順すべきことを厳命されています。
この御教示は、相伝書である『百六箇抄』にも、
「日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」(御書1702)
と仰せられていることからも明らかです。
「僧によりて住す」とは、令法久住せしめることであると拝せられ、「常住此説法」(法華経439)との御本仏の御振舞により、末法万年尽未来際まで御化導あそばされることを拝し奉ります。その御振舞は出世の御本懐として本門戒壇の大御本尊が在す御姿となり、三宝一体との重要な意義が存します。さらに、大聖人は『生死一大事血脈抄』に、
「過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云ふなり」(御書514)
と御指南の如く、大聖人から日興上人へと受け継がれた唯授一人の血脈相承(法華の血脈相承)により、大御本尊の冥の照覧による御威光に照らされて血脈相承は絶対に断絶することなく、末法万年尽未来際までも一切衆生を救済するために、信仰の寸心を改めて尊崇申し上げられるところ、三世間の浄化・仏国土実現と真の広宣流布があることを確信するものであります。
その仏国土実現のために、御法主日如上人猊下は、
「たとえいかなる大難が競い起きようが、はたまた障魔が蠢動しようが、かくなる時こそ、一生成仏への絶好のチャンスと捉え、なお一層、強盛なる信心に励んでいくところ、必ず解決の道が開かれてくる(中略)改めて妙法信受の広大無辺なる功徳を拝信し、講中一結・異体同心の団結をもって破邪顕正の折伏を行じ、もって誓願達成に向けて勇躍前進していくことが、今、最も大事であると知るべきであります。」(大日蓮 第919号 R4.9)
と御指南あそばされております。
御法主日如上人猊下の広布唱題会等での変わりなく一貫された「既に皆様には御承知の通り」との御指南は、差別平等一如の上から新入信者・貴賎上下・老若男女を問わず、異体同心・講中一結の実現に向けた支部講中組織において確実に構築するためとの期待、『日興遺誡置文』の「心肝に染め」(御書1884)との御教えから繰り返されて着実に心肝へ染めるための御指南であると拝信申し上げます。一貫性があり繰り返される御指南により、本未有善特有の思想的習気を完全払拭させて寸心が改められ、無始以来の罪障をも消滅させて頂くことのできる御指南であると再確認しましょう。
最後に御指南は、未来世に生死を繰り返すなか未来広布を見据えられて、末法万年尽未来際まで講員一人ひとりの心の財と支部講中組織の財となり、寺運興隆と盤石な地域広布の実現を御構想あそばされた、御法主日如上人猊下の大慈悲心からの尊い御指南であると拝し奉ります。その御指南は、まさに釈尊の文上脱益仏法ではなく、御本仏・日蓮大聖人が説かれた下種益である「文底の仏法」のことであります。
宗祖日蓮大聖人『佐渡御勘気抄』に曰く、
「仏になる道は、必ず身命をす(捨)つるほどの事ありてこそ、仏にはな(成)り候らめと、を(推)しはか(量)らる。既に経文のごとく『悪口罵詈(あっくめり)』『刀杖瓦礫(がりゃく)』『数々見擯出(さくさくけんひんずい)』と説かれて、かゝるめに値ひ候こそ、法華経をよ(読)むにて候らめと、いよいよ信心もおこり、後生もたの(頼)もしく候。」(御書482)

