〔御文証の通釈〕
末法の本因妙の教主の己心(仏心)は妙法五字の本尊であり、我ら衆生の仏性も妙法五字の本尊です。衆生の心と仏の心は異なっているようであるが、妙法五字という点では異なりません。
〔創価学会の解釈〕│
○大聖人の御本尊は、信心の対境となる本尊であるだけでなく、本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。この二つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊義が完結する。(聖教新聞 H五・九・一八 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
この『観心本尊抄文段』の文は、本尊段ではなく観心の意義を明かされたところのものです。
妙法五字の御本尊という場合、総別の二面から見なければなりません。すなわち、総じて平等という面からいえば衆生の己心と仏心は同一ですが、別して差別の面から見れば、仏心は能開、己心は所開という厳然たる差別があります。『曽谷殿御返事』に「総別の二義少しも相そむけば成仏思いもよらず輪廻生死のもといたらん」(全集 一〇五五頁)と仰せになっています。
学会でいう「本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具する」というこの「本尊」とはどの御本尊を指していっているのでしょうか。まさか凡夫の心に生じた戒壇の大御本尊というわけでもないでしょう。
また、“衆生の信心がなければ大聖人の本尊義が完結しない”とは、いったい何宗の教義でしょうか。これでは大聖人の仏法が未完成だということになります。
本門戒壇の大御本尊は衆生の信謗と関係なく、弘安二年に完璧に確立されています。大聖人に対して衆生の信心がそろった時に完結するのは、衆生の功徳利益であって、御本尊や御本仏の威徳ではありません。
更にいえば創価学会発行の「ニセ本尊」は、いくら会員が唱題しても「功徳ある本尊」に完結することは絶対にないのです。
