このような考え方は、大変な間違いです。
なぜなら「拝する側の信力・行力」とは凡夫衆生の信心(観心)であり、「御本尊の仏力・法力」とは御本仏(本尊)の力用のことで、この仏意・機情の二義を同等に論ずることは法義の混乱になるからです。
日寛上人は、『観心本尊抄文段』に「若し観心即本尊に約せば入文の相に違うなり」(富要 四-二二二頁)と、厳しく二義の混同を戒められ、さらに同書に「若し正境に非ざれば、仮令、信力・行力を励むと雖も、仏種を成ぜず」(富要 四-二二八頁)と、信仰者の信力・行力よりも、正しい御本尊を正境として信仰することが第一番に大事であると説かれています。
もし聖教新聞のいうとおりならば、他宗の人でも信力・行力があれば御本尊の開眼ができることになり、身延日蓮宗の漫荼羅も信力・行力によって正しい本尊に開眼できることになりますが、このような説は前代未聞の愚論というべきです。
