第十一項 「手続の師匠」を精解した『化儀抄註解』の文意を歪曲し、血脈相伝の師を謗ずる妄説を破折する
「手続の師匠の所は・三世諸仏高祖已来代々上人のもたげられたる故に・師匠の所を能々取り定めて信を取るべし・又我弟子も此の如くに信を取るべし、此時は何も妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり・此を即身成仏と云ふなり」(化儀抄)とあるとおり、ご法主とご住職に信を取らなければ成仏は出来ない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)
切り文をやめて、日亨上人の註解をよくよく読んでから口をあけなさい!大聖人の手続の師匠は釈尊とされているではありませんか。これが道善坊ならば、末持の住職も手続の師匠と言えるかも知れませんが、決してそんな浅はかな師弟ではないのです。
まず、「切り文をやめて、日亨上人の註解をよくよく読んでから口をあけなさい!」との言は、ごまかし以外の何ものでもないのです。この『有師化儀抄』の文は、箇条として全文であります。創価学会の引証の如く、都合の悪い所を抜いた切り文ではありません。それとも、この浅識者は「切り文」ということすら判らないで、愚かな強がりを言っておるのでしょうか。
右の『化儀抄』の文は、明らかに「手続の師匠」すなわち、現在の師匠の大切なことを申されています。
「三世諸仏高祖已来代々上人のもたげられたる故に」(富士宗学要集一巻一二四)の「もたげられたる」とは「持ち上げられた」という意味で、正訳すれば、
「手続の師匠の仏法護持のところは、三世諸仏高祖已来代々上人の仏法所持弘通を、その時々の代表者として持ち上げられ、奉上・興起するところである。故に、その師匠の仏法所持のところをよくよく取り定め、信心を取るべし」
との御指南であり、まがう方なき現在の法主までの地位を述べられているのです。故に、明らかに当代の法主と、また、その各地に任命した住職へ信を取って成仏すべき筋道を示された文です。
彼等は、これがたいへん都合悪いため、まともな解釈を逃げて、日亨上人の『註解』を引っ張り出して「よくよく読んでから口をあけなさい」などと居丈高に罵るのは、内心、自らの誤りを認めつつ、卑劣なスリ替えを図っているのです。
それでは、その日亨上人の『註解』が『化儀抄』の本文と違っているや否や。もし違っているとしたら本文の『化儀抄』の主旨を取らねばならないはずで、この点でも学会の言うことは逆なのです。
さて、その『註解』の文を、彼の論拠をも含めて引いてみましょう。
「『手続』とは経次又は順序の義なり・仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず、世間に物件の授受は必ず手を以つて受渡しを為す故に・手続又は手継の成語生ず、惣勘文抄に三世諸仏の手継の文書を釈迦仏より相伝せられるゝ時と遊ばされたるは・師より弟子に父より子に相伝する時の手継の証文書類は・法華経なり妙法なりとの御意なり、今文は弟子より師匠に対して手続きの師匠と云へり・師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、義別にして手続の意異なる事なし、『もたげられたる』とは・もちあげたるなり・興起したるなり・奉上するなり弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌なれば・釈尊は迦葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、師弟の道は神聖ならざるべからず・世間の利害を離れて絶対ならざるべからず(乃至)『師匠の所を能々取り定めて信を取るべし』と仰なるは、千古の金言として仰ぐべき事なり、『又我弟子も此の如く我に信を取るべし』とは・三世の諸仏も高祖も開山も三祖も道師も行師も・各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ如く・有師も影師に依りて信を取り給へば・有師の弟子たらん者は・此の如く我にと即有師に信頼して信心決定すべしとなり、『此時は何も妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり』等とは・信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華の色心は即所化の弟子の色心となるが故に・生仏一如師弟不二の即身成仏の域に達する事を得、是れ葢し信の手続によりて生する所のものなり」(富士宗学要集一巻一二四)
この文を見なさい。これは、釈尊と大聖人の師弟関係のみを言われるのでなく、三世常住の仏法の正しい伝承を述べられていること、また、正直に『化儀抄』の本文を註解されていることが明らかです。なかんずく、「有師も影師に依りて信を取り給へば・有師の弟子たらん者は・此の如く我にと即有師に信頼して信心決定すべしとなり」の文をなんと見るや。それを寸断して、「大聖人の手続の師匠は釈尊とされているではありませんか」などと、しらじらしく言うのを、切り文の典型と言うのです。
日亨上人の『註解』の文も、まがう方なき仏法の正しい伝授を、師弟相対によって示された明文ではありませんか。
法華本門本有の妙法が、師弟の師資相承によって、常住不断に、もぬけられて存続するのであります。まさに七百年来の総本山大石寺の仏法伝承の相であります。
故に、現在の信徒は現在の法主、また、末寺住職に信を取ることが大御本尊への素直な信心で、成仏の要諦となるのであります。
また、道善房の例は全く道筋が異なっており、かかる例に出すことが愚かな失言、と言うべきであります。
また、決して嫡嫡付法の法主の順序ではないことも、26世日寛上人の師匠は25世日宥ではなく、24世日永だと書かれていることから理解できます。
『宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師(26世)は永師(24世)に』(富士宗学要集第1巻P.124)
また、『註解』の、
「開山は宗祖に寛師は永師に」(富士宗学要集一巻一二四)
の文をもって、けっして嫡々付法の順序ではないなどの迷乱の言を吐いております。歴代中、御寿命や在世期間の関係その他の事情から、法脈伝承がその世数と前後することは、ある程度、存在するのが、むしろ当然であります。
ただし、肝要なことは、必ず宗開両祖より伝わる血脈相承を受けた方によって、血脈が次の法主となるべき方に授けられるということであり、これを嫡々相承と言うのです。したがって、日亨上人の『註解』の言は、末法万年の嫡々付法をはっきり示されたものであり、それ以外ではないのです。全くわけの判らぬ幼稚な者どもであります。どこまで難癖をつければ気が済むのでしょうか。
日蓮正宗の化法の正依である日興上人の遺誡置文には、師匠とするべき人の基準を明確に示されています。要するに真実の仏法を教えてくれた「我より智勝れたる者」を師匠とするのです。
『下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば師匠とす可き事』(P.1618)
我々は末法で二人目の法華経の行者となった池田先生を師匠として「各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ」のです。文証は御書に明確です。
『法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし』(P.230) (※開目抄)
この師弟の道によって「師弟不二の妙理を顕わし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華経の色心は即所化の弟子の色心となる」(富士宗学要集第1巻P.125)のです。
次に、日興上人の『遺誡置文』を引いて、師匠とする人の基準を示されたとしているが、『置文』全体におけるそれぞれの箇条の文義の正しい構格を、全く弁えていません。学会で引くこの文および直前の二文は、弘通とか研学に関する門下全般への誡めであり、この「師匠」と血脈相伝の師とは、全く内容・文旨が異なっているのです。
つまり、『遺誡置文』の十四、十五、十六番目に当る三カ条は、興門下宗団のなかで、特に興学布教に関しての重大さを示す文なのです。上席者、長老僧より見て位の低い、いわゆる下劣な者でも、行体や弘通の勝れた者、法門に関し智慧の勝れた者に対しては、尊敬し、あるいは師としてその法門を聞くべしという、仏法に対する宗団内の心得について諭された文です。要するに、僧侶一般の心得なのであり、故に「下劣」「下輩」等の語を使われています。
これに対し、血脈相伝の師が存在するという意義からは、
「本寺に詣で学文すべき事」(御書一八八四)
「極理を師伝」(同)
「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(同一八八五)
等の文に示されるところです。これらの文義の区別も判らず、血脈の師を無視して、直ちにこの文が師匠とするべき人の基準だなぞと言うのは、不解・浅識の謗りを免れません。師といえばなんでも一つに考えるのが、創価学会の素人勉強の浅ましさであります。
次に、この文によって池田を師範とすることを明言し、しかも「末法で二人目の法華経の行者となった池田先生」云々と、再度、池田が大聖人に肩を並べるという、これ以上の憍慢はありえない言を吐いております。法華経の行者が大聖人であることを明かされる実証は、勧持品二十行の身読にあったはずです。その身読も全くなく、国会喚問ほどのことすら、恐れて逃げ隠れる臆病な池田大作が、大聖人より二人目の法華経の行者だと言う、学会の思い上がりに対し、大聖人は仏法破壊の者として強くお怒りのことでしょう。
池田が言う三類の強敵は、まさしく自分の過失によって招いたものであり、池田の行いは、法華経の行者にあらずして、反対に、そのまま僣聖増上慢に当たるとも言えます。
これは、日顕をはじめ日蓮正宗の僧俗が、法華本門三大秘法を正しく護持する故に招き出したものであります。
次に『註解』の、
「各ゝ其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ」(富士宗学要集一巻一二五)
の文を、臆面もなく池田大作に当てはめるのも、例によって大変な切り文であり、曲解です。その文は、前に全文を引く如く、総本山大石寺の血脈を述べられた文であり、池田らの如き者のことではありません。
続いて、以下に引用する『開目抄』の文も『註解』の師弟不二の証得の文も、正しい血脈に背く以上、すべては空文であり、全く当てはまらないのです。不当な文証をもって、厳正な仏法を汚すなかれ、と破折するものです。
それに引き替え、日蓮正宗の信徒は戒壇の大御本尊のもと、未来永劫の血脈相伝によって広布に前進し、常住の仏法の功徳を得るのであります。
