日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

98 「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。『其の人所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕すなり。当に知るべし。並びに題目の力用に由るなり」

98  「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。『其の人所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕すなり。当に知るべし。並びに題目の力用に由るなり」(当体義抄文段・富要4-400頁)

 



 〔御文証の解釈〕

 本門の本尊を無二に信じて南無妙法蓮華経と唱えるとき、我が身の仏性が本門戒壇の大御本尊と一体不二であることを証得するのです。
 これを「寂光当体の妙理を顕わす」ともいい、自分が住んでいるこの国土が常寂光土であり、この常寂光土はまた我が身と一体不二であることを覚知するのです。
 この戒壇の大御本尊と一体不二であり、常寂光の当体であると覚知できるのは唱題の功徳なのです。


 〔創価学会の解釈〕
○一切衆生の成仏を説かれた大聖人の仏法では、法主に限らず、全ての門下僧俗が「題目の力用」によって「法体の血脈」を受けられるのであり、「法体」である「本尊」は法主だけの専有物ではなく、信をもって求める万人に開かれたもので、法主だけが御本尊の権能を独占する根拠はどこにもない。(聖教新聞 H五・九・八 取意)


 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この『当体義抄文段』の御文は本門戒壇の大御本尊を信じて唱題する「信心の血脈」の功徳の相が述べられるのであって、「全ての門下僧俗が『題目の力用』によって『法体の血脈』を受けられる」文証などではありません。
 『法華取要抄文段』には「当に知るべし蓮祖の門弟是れ無作三身なりといえどもなお是れ因分にして究竟果分の無作三身にあらず」(富要 四-三八〇頁)と、明確に果分の仏と因分の衆生の区別を示されています。「法の本尊」こそ信仰唱題の根本たる本門の本尊です。
 本門の本尊が三大秘法総在の一大秘法であり、本門の題目も、本門の戒壇も本門の本尊に具わるのです。
 本門の本尊を離れて、題目だけが存するのではありません。
 「題目の力用」とは唯授一人の法体相承によって伝えられる大御本尊を信じて唱える題目の功徳です。もし「題目の力用」によって「法体の血脈」が受けられるならば、身延日蓮宗徒の唱える題目にも「法体の血脈」が流れることになります。
 これは明らかな邪義です。
 また、「法主だけが、御本尊の権能を独占する根拠はどこにもない」といっていますが、戒壇の大御本尊と御本尊の権能が、唯授一人の血脈相承(金口相承)として代々の御法主上人に相承されることは七百年来不変の定めであり、今になって創価学会が非難したところで無駄なことです。
 改革同盟なる者たちのいい分は、本来立て分けて論ずべき「題目の力用」と「一閻浮提総与」と「御法主上人の権能」を混同した、愚迷の論というほかありません。