日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

創価学会の日精上人に対する疑難を破す

    創価学会の日精上人に対する疑難を破す  

              時局協議会文書作成班1班  

   は じ め に

 創価学会では、和泉覚氏ら古参幹部の名をもって、宗内各尊能化に対し、虚偽捏造をもととした抗議書面を、2度にわたって提出してきた。その2度目の抗議書面において、日精上人の「造仏問題」を取り上げて、唯授一人血脈付法の御法主上人にも、宗義上の誤りがあると疑難してきたのである。学会では、言葉にこそ出していないが、これを血脈否定の論拠としようとしていることは、その文脈からいって明白である。


1.学会独立路線の具体化

 イ.学会の血脈否定論は独立路線の条件

 昨年(平成2年・1990年)末以来の対応を見る限り、学会が、宗門と袂を分かち、独立せんと策謀していることは明らかであろう。また、独立する以上、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈相承の御法主上人との本宗の命脈は、どうしても否定しなければならないのである。
 既に総本山への登山参詣の妨害を行なっているから、近い将来、必ず誑惑の論をもって、戒壇の大御本尊そのものを否定してくると予想される。
 また、御法主上人の血脈に対する否定は、池田大作氏のスピーチや、本年初頭以来の各抗議書等において、間接的にではあるが行なわれている。それらは、御法主上人の御指南の中に、「消極的反抗を容認する」旨の部分を含んだ御指南を悪用しているのである。ところが、それらが、一連の御指南の中の前後の部分を、故意に省略することによって、異なった意味にすり替える「切り文」という偽証方法でなされていることは、時局協議会文書作成班1班の「外護について」で破折したとおりである。
 しかし、各尊能化に対する文書の論旨は、それらよりさらに悪質なものであり、見る者をして、創価学会も堕ちるところまで堕ちたか、との感を懐かしめる。しかし、それはまた、これまで池田氏はじめ学会幹部が行なってきた血脈への批判に対し、自信ありげに装いながらも、実のところ、全学会員を洗脳するには不充分であったことに、危惧と焦燥感を懐いた上でのあがきともいえる、最後の手段なのである。
 現在、創価学会の行なっていることに、どのような粉飾を施そうとも、これら当家の命脈の否定を始めたことは、実質、日蓮正宗からの離脱であり、退転である。したがって、今後、学会の邪宗化は、さらに加速すると思われる。


 ロ.池田氏のかつての言動と現在の姿

 無信心、不誠実な人にとって、口というものはまことに便利なもので、何とでも言えるものである。さて、次の言葉は、誰の発言であろう。
「御法主上人猊下に随順しない人は、どのような理由があるにしても、もはや正宗の僧俗ではない。これほど根本的な誤りはないからである。」
(昭和56年11月24日の発言)
と、また、
「いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮正宗の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。」
(昭和57年7月30日の発言)
等の発言である。驚くなかれ、これらは、池田大作氏の過去の発言である。
 ところが、池田氏は、これらとは正反対に、御歴代上人の血脈を疑難する内容の文書を、牧口門下生とはいえ、「弟子」と称する者に提出させたのである。どうやら、池田氏には、「自分の発言に責任を持つ」意思はないようである。このような人を、偉大な指導者として尊敬することは、仏法上、また世法上からも大いなる誤りであり、従うも者全員が、不幸の末路を辿ることは自明の理である。


2.日精上人への造仏疑難の誤り

 イ.和泉氏等の傲慢な質問

 さて、和泉氏等牧口門下生による、各尊能化への書面には、
「総本山第十七世日精上人は、日興上人が厳に戒めた釈迦仏の造立という大謗法を犯しています。(中略)先生方の言われるように、日精上人が『戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」ならば、何故、釈迦仏の造立という大謗法を犯した上に、それを正当化する『随宜論』を著したのでしょうか。また、この書も『大聖人の仏智による御指南』であり、たとえ宗義違背の謗法の指南でも『信伏随従』しなければならないとお考えなのでしょうか。」
と、日精上人を大謗法と罵り、これを法主血脈否定の論拠としているのである。まさに不知恩の極みと言わねばならない。
 しかし、また、この問題に対して、一抹の疑念を抱いている者もいるかもしれない。そのわずかの疑念が、決定信を形成する大きな障害となり、即身成仏の道を塞ぐのである。したがって、そのような者は、ひたすら下種三宝尊の冥助を願って、その疑念迷妄を打ち破らなければならない。


 ロ・日精上人の化儀(現証)と疑難の根拠

 現在の御影堂の板御本尊(大聖人御図顕)と六壷の板御本尊(日興上人御書写)は、日精上人の造立である。周知のように、御影堂の御本尊の前には宗祖大聖人の御影が安置せられており、大客殿の宗祖大聖人、2祖日興上人の御影も、ほかならぬ日精上人の造立である。
 これらの事例に明らかなように、日精上人の本意は、宗祖本仏であり、大漫荼羅正意である。特に、大客殿にみられる別体三宝式は、当家の三宝の明確な表明化儀である。しかも、宗祖大聖人は寿量品を、日興上人は『観心本尊抄』を、それぞれ手にされていることからも、当家本来の信条と、寸分も違うことなく合致していることが判る。これは、日精上人が、五重三段等の当家の教判に精通されていたことの、揺るがぬ証拠である。
 それに対して、要法寺における造仏義は、種脱の迷乱によって、文上・文底の相対に暗く、寿量品の釈尊に2種あることを弁えないところから生ずる謬義である。したがって、一度、種脱の弁別を知りえた者ならば、このような誤謬を犯すことは、絶対にありえない。
 すなわち、寿量品の「我実成仏已来」の「我」を、五百塵点劫成道の色相荘厳の釈尊と読めば、文上本果脱益の釈尊であり、久遠元初の名字凡夫の釈尊、即宗祖日蓮大聖人と拝せば、文底本因下種の釈尊である。御影堂や大客殿のこうした奉安形式は、まさに宗祖日蓮大聖人を、本仏、下種の釈尊と信解されている証左である。
 確かに、御登座以前の日精上人は造読(造仏読誦)家であられたから、その頃は種脱相対に曖昧であられたかもしれない。しかし、血脈相承を受けられて以降、日精上人御自身、種脱相対どころか、
「当家甚深の相承の事。全く余仁の一言半句も申し聞く事之れ無く、唯貫首一人の外は知る能わざるなり(中略)又本尊相伝、唯授一人の相承なるが故に、代々一人の外、書写すること之れ無し」(歴全2-314)
と、宗祖の深秘義を存知せられたことを仰せである以上、再び色相荘厳の釈尊の造仏に帰ることはありえない。それを、そのように考えるのは、種脱相対さえ知らない全くの素人の教学であり、本当の「信心50年」の者の論ではない。つまり、彼の文章が、本当に和泉・辻氏等の筆になるものかすら疑わしいのである。
 後に詳述するが、日精上人に対する疑難は、常在寺に仏像があって、日精上人の滅後、日俊上人によって撤去されたとする、要法寺寿円日仁の説を、鵜呑みにすることによるのである。
 しかし、常在寺の日精上人の後住は日永上人であり、そこには若き日寛上人もおられた。さらに、そこには、金沢関係の信徒も、多く出入りしていたのである。もし、常在寺に、本尊として仏像があったならば、これらの方々に必ず影響が生ずるはずであるが、いずれの方面からも、造仏の匂いなど、微塵も感じられない。つまり、寿円日仁の説こそ、批判的な目をもって検討されるべきなのである。
 日亨上人の『富士宗学要集』は、内外に及ぶ膨大な史料の保存を目的とされたものである。したがって、「石要の関係」も、造読思想のあった要山との通用という、宗史の上の特殊な時代の史料を、原型のままで紹介し、保存しようとの配慮に基づくものであることを看過してはならない。


 ハ.「造仏問題」の問題点

 日精上人は、京・要法寺の御出身であられる。要法寺には、大漫荼羅正意論者と造読家が混在しており、特に当時は、広蔵院日辰の影響により造読思想が強い時代であった。これは、後に大石寺の日寛上人により、逆に要法寺本末に不造不読の影響を与えるのであるが、ともかく日精上人の時代には、まだ造読の思想が強かったのである。
 当時の江戸における大石寺の教勢は、まだ微々たるものであった。大石寺と要法寺との通用は、こうした状況の中で成立していたのである。しかし、日亨上人も、
「要山より晋める山主は始め日昌日就日盈の時は著しく京風を発揮せざりし」(富要9-69)
と述べられるように、日昌上人・日就上人・日盈上人が「著しく京風を発揮」せられなかったのは、もともと要法寺の中におられた時から、大漫荼羅正意、もしくは理解者であられたからであろう。
 日精上人の江戸における有縁の檀信徒は、初期の頃は敬台院を中心とする要法寺関係者であり、造仏読誦の化儀に基づく信仰者が、大半を占めていたと想像される。日精上人の展開された御化導の前半は、造読であられた。そのために、大石寺の血脈を嗣ぎ、宗祖の正意に至った後、日精上人は、敬台院等を教導し、仏像の執着を取り除き、また仏像を撤去されるのに大変苦労せられたのである。
 日亨上人の、
「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せるが、日俊已来此を撤廃して粛清に努めたるのみならず日寛の出世に依りて富士の宗義は一層の鮮明を加へたる」(富要9-59)
あるいは、
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山には其弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か、其れも四十年ならずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し富士の古風を発揚せるより却つて元禄の事件を惹起するに至りしなり」(富要9-69)
との論評は、歯に衣を着せぬ直截なもので、大変厳しいものである。しかし、それが、日精上人の御登座以前の化儀を指すことは一目瞭然である。つまり、日精上人は、御登座以前の造読時代にも、非常に力を持っておられたが、大石寺へはその弊風を及ぼすことはなかったとの意味である。
 「其れも四十年ならずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し」とは、一往として寿円日仁の説等により、日精上人に造読のお考えがなくなった後、化儀の変更を檀信徒に納得させ、仏像を撤去するのに、相当の時間がかかったと記述されたものと拝される。また、寿円日仁の説を参考史料として挙げられたのは、その内容の吟味検討は、我々後輩に託された課題と拝すべきであるから、我々末弟は、日精上人・日亨上人の御真意を正しく拝考しなければならない。


 ニ.寿円日仁の『百六対見記』の記述は不確かな伝聞

  日亨上人は、『富士宗学要集』第9巻・史料類聚の第5章「石要の関係」の中で、史料として日精上人の造読に触れられている。日精上人著『随宜論』は、その正史料であり、参考史料として、要法寺の造読家の寿円日仁の『百六対見記』の文章を挙げられているのである。
 特に、『百六対見記』には、常在寺・常泉寺の日精上人が造立された仏像を撤廃されたのは、日俊上人であると記述している。この記述を信頼し、それと『随宜論』とを短絡的に合わせて考えると、「日精上人には、晩年まで造仏の思想があられた」との錯覚を生ずるのである。しかし、前述のように、日精上人に造読の思想がなくなっても、撤去には時間がかかった可能性があるのであるから、血脈を拝信する本宗僧俗の立場としては、このことについて邪推すべきではないのである。そのような邪推は、『随宜論』そのものの真意をも見誤る原因となり、御登座以後の日精上人にも、造仏の考えがあったとする暴論につながるのである。
 しかし、『百六対見記』の記述は不自然である。このことを考えるに当たり、事件の前後関係をはっきりさせるため、関連記事を抜粋し、年表にすれば次のようになる。

 元和9年(1623) 敬台院 法詔寺を建立
 寛永元年(1624) 随宜論を考える
 寛永9年(1632) 1月 日就 江戸法詔寺において法を日精
         に付す
★寛永10年(1633) 日精 随宜論を清書す
 寛永15年(1638) 日精 江戸下谷常在寺を再建す
 正保2年(1645) 10月27日 日精 法を日舜に付す
   同     敬台院日詔 江戸法詔寺を阿波徳島に移 
        し敬台寺を創す
 寛文6年(1666) 敬台院日詔 卒
 延宝8年(1680) 日忍 法を日俊に付す
 天和2年(1682) 日俊 法を日啓に付す
 天和3年(1683) 夏 日精 江戸常在寺を日永に付す
   同     11月5日 日精 寂
   同     12月下旬 日寛 江戸下谷常在寺日永の室
         に入る 19歳
   (要法寺からの御法主上人は23世の日啓上人までで、
    24世の日永上人からは富士の方である)

 常在寺の再興は、日精上人の御登座以後であり、常在寺に日精上人が造仏した可能性はない。しかし、何らかの因縁で、仏像があったと疑う者もいるであろうから、疑念を散ぜんがために少考してみよう。
 もし、仮に、常在寺に仏像があったとしたら、日俊上人がその仏像を撤去されたのは、果たしていつであろうか。日精上人が御存生で、住職をしておられる時の常在寺に、後輩の日俊上人が行って、仏像を取り除く、などということは考えられない。ということは、必ず日精上人の御入滅後ということになる。
 ところが、常在寺の日精上人の次の住職は、日永上人なのである。日俊上人に撤去が可能ならば、日永上人にも可能である。また、日永上人が住職となって、仏像をそのままにすることはありえない。しかも、仏像撤去の最大の難関は、敬台院であったと思われるが、その敬台院は、既に死去しているのである。
 寿円日仁も、『百六対見記』に、「常在寺・常泉寺の日精上人の仏像を撤廃されたのは日俊上人である」(取意・富要9-70)と記述しているが、そのすぐ後に、「日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず」(富要9-70)
と、日俊上人から、その話を伺っておらず、未確認であることも記しているのである。
 これによって明らかなことは、寿円日仁が、常在寺の日精上人の次の住職が日永上人であることを知らなかったということである。つまり、寿円日仁の『百六対見記』の記述は、伝聞をもとにした、事実確認のないものであることが判るのである。ただし、常泉寺は、帰伏寺院であるから、当時は、まだ仏像が存していた可能性はある。
 ともかく、寿円日仁は、自身の造読説に執著するあまり、大石寺の造読に対する破折をかわすため、絶好の材料として、日精上人に関する、不確かな伝聞を採用したのである。その辺の事情が、前出の『百六対見記』の「日俊上は予が法兄」云々の文に続く、
「元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々」(富要9-70)
との語に、明らかに看守されるのである。
 このように、『百六対見記』の記述に、考慮すべき部分がある以上、史実考察の材料としては、全面的には信頼すべきではない。それにもかかわらず、これを『随宜論』に絡めて考えるからおかしくなるのである。結論を言えば、日精上人の造読の思想は、御登座までのことであり、御登座後には、決してなかったということである。
 ところが、学会では、『百六対見記』の文によって、血脈相承に疑いを起こし、日精上人の造読問題を悪利用して、御法主上人に反抗する論拠にしているが、これは事実誤認も甚だしいと言わねばならない。
 なぜならば、『随宜論』や敬台院の書状など、現存する史料を検討するとき、そこに浮かび上がる事実は、要山の造読思想の中に在った日精上人が、血脈相承を受けられたことにより、大聖人の仏法の深義に達せられて造読を改められ、宗祖本仏、大漫荼羅正意に立たれるようになったということである。そして、遂には、造読信仰であった有縁の檀信徒を教化して、富士の正義に入らしめるに至ったということである。まさに、不思議な現証であり、凡慮の窺うあたわざるところの、法水血脈相承という当家の秘義にまします、御仏智の絶大威力を拝察するのである。


 ホ.『随宜論』の末文の考察

 さて、まず『随宜論』とは、その題の示すように、「宜しきに随った論」である。対告衆の心情に合わせた法門であり、四悉檀で言えば世界・為人悉檀に当たる。無論、当家の正義そのものであろうはずがなく、しばし誘引の法門である。したがって、この次の段階に、対治悉檀が控えており、さらに第一義悉檀へと進むことは、本宗信仰における初心者でなければ、誰でも知っていることである。
 次に、『富士宗学要集』には、『随宜論』の末文、
「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因つて門徒の真俗疑難を致す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。
  寛永十酉(原本は戌)年霜月吉旦   日精在り判。
第一浅草鏡台山法詔寺、第二牛島常泉寺是は帰伏の寺なり、
第三藤原青柳寺、四半野油野妙経本成の両寺、五赤坂久成寺浅草安立院長安寺、六豆州久成寺本源寺是は帰伏の寺なり」(富要9-69)
を引いているが、この文章に、『随宜論』がどういう書であるかが、述べ尽くされているのである。それは、まず、
「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因つて門徒の真俗疑難を致す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」
とあることから、『随宜論』は、法詔寺建立の翌年、日精上人が仏像を造立した時に起こった非難に対して、その「朦霧を散ぜんが為」の反論の法門であったことが判るのである。非難に対する反論であるから、当然、すぐに勘案されたことは、疑う余地はない。
 法詔寺の建立は、元和9年(1623)であり、日精上人が御相承を受けられたのは、寛永9年(1632)であるから、ほぼ一昔も前のことである。したがって、『随宜論』の法門は、御相承を受けられる、はるかに以前のものなのである。
 次に、「廃忘を助けんが為」、寛永10年11月に「筆を染むる」、つまり清書せられたのである。このことは、日精上人の、法門に関する御見解に、変化が生じていることを物語っているのである。すなわち、日精上人が、法門に関して同じ御見解ならば、「廃忘」しようがないからである。それを忘れないために書かれたということは、この清書の目的が、記録にあることを意味するのである。
 また、「第一浅草鏡台山法詔寺」以下に列挙される寺院中、常泉寺と妙経寺について、現在の『富士年表』によれば、常泉寺は寛永15年の帰伏、また妙経寺は正保元年の創立とされている。この時代考証を是とすると、『随宜論』のこの部分は、正保元年(1644)以降の書き入れとなる。
 しかし、古記録には諸説があって、一定しがたい場合が多い。特に、年表作成においては、確定が困難な場合、「少なくともそれ以前であることは間違いない」との慎重な判断から、年次の新しい説を採用することがある。
 常泉寺の帰伏年次については、一往、寛永15年であるが、それより7年以前の寛永8年に、日精上人が、既に常泉寺の垂迹堂を開眼されたという記録も存する。日精上人が開眼をされた事実は、まさに帰伏の証明であるから、この垂迹堂の開眼供養は、帰伏を記念して奉修せられたと考えるのが順当である。したがって、常泉寺の帰伏は、本来、寛永8年とみるべきである。
 また、妙経寺の創立年次は、正保元年とされているが、同寺の明細誌に、寛永7年4月と明記されていることから、やはり寛永7年とみるべきである。
 また、『随宜論』の記述は、筆跡からも、年代の隔たりは感じられない。すなわち、後の書き入れではなく、寛永10年のものであることは疑う余地がない。
 このように、従来の資料からも、また『随宜論』の記述からも、これら二箇寺の帰伏、または創立年次は、日精上人の御当座以前であることは明らかである。
 このことにより、「第一浅草鏡台山法詔寺、第二牛島常泉寺は帰伏の寺なり」以下は、日精上人による開創、もしくは帰伏等、有縁の寺院であろうが、ここに列挙される末寺の増設が、日精上人の御当座以前になされたことが立証されるのである。すなわち、日亨上人の、
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗して遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山には其弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か」(富要9-69)
との記述が、日精上人の御当座以前を指すことも当然である。
 日亨上人は、日精上人の造仏が、御登座以後に及んだなどとは、どこにも述べられておらず、ましてや謗法などとは、一切仰せになってはおられないのである。
 このように、この末文は、日精上人の造仏が、御登座以後に及ばないことの文証であると同時に、『随宜論』とは、「法詔寺建立の翌年」、つまり御登座以前の法門を、寛永10年に清書した書物であることが判るのである。


 ヘ.敬台院への善導と造仏義

 次に、
「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す」
との記述に明らかなように、敬台院の菩提寺である江戸の法詔寺には、建立の翌年、敬台院の要望によって、仏像が安置された。それは、敬台院に対する日精上人の配慮によると思われる。
 阿波の藩主蜂須賀至鎮の夫人敬台院は、徳川家康の曾孫であり、日精上人の養母である。法詔寺の落慶の模様を綴った記録は現存しないが、大檀那である敬台院の建立による寺院であるから、大石寺をはじめ、末寺からもかなりの僧侶が招かれたことであろう。この時、いかに敬台院の要望であっても、富士の化儀に反して、仏像を安置するわけにはいかない。つまり、敬台院の仏像安置という強い要望に対して、日精上人は、大石寺への配慮の上からこれを抑えられたと思われる。したがって、入仏式が終わり、諸般の落ち着いた翌年になって、敬台院待望の仏像は、法詔寺に安置されたのである。『随宜論』は、このことに驚いた門徒の真俗からの疑難に対する、日精上人の反論である。
 日精上人が、血脈をお受けになられたのは、寛永9年(1632)である。それ以前は、大石寺の僧となられたとはいえ、それまでの日精上人の御化導の対象は、要法寺系の檀信徒が中心であった。つまり、その御化導は、造読の化儀にあられたことが、この記述によって判るのである。また、日精上人に帰依する敬台院も、このような化導のもとに、大石寺の信徒となったのであるから、仏像に執情を持っていたことは、むしろ自然なことと言わねばならない。
 しかし、日精上人は、血脈相承を受けられたことによって、御自身のそれまでの御化導が、宗祖日蓮大聖人の御正意ではないことに気付かれたのである。その衝撃は、いかほどのものであろうか。造読への執情は、僧侶ですら改めがたいのである。まして、帰依をする檀信徒は、自身の化導によって造読への執情を持つに至ったのであるから、その檀信徒を、造読への執情から、一人も漏れなく、富士の正義へ改心善導しなければならない。特に、養母である敬台院は重恩の人であり、大檀那でもある。その善導に当たっての日精上人の御心労は、察するに余りあるものがある。
 日精上人のようなケースは、滅多にあることではない。造読家が、180度の転換を余儀なくされたのである。自身さえ謗法をしなければ、檀信徒はどうなってもいいというものではない。檀信徒を善導することこそ、僧侶の悲願なのである。日寛上人の、
「次第次第に次第次第に。信心の増すのも是は勧め様…」
との歌のように、檀信徒の邪義への執情を薄め、信心を向上させるためには、四悉檀の法門を駆使した、段階的な時間をかけた開導が不可欠なのである。
 日蓮正宗の本当の折伏などしたことがなく、机上の空論を振り回すだけの学会幹部には理解できないであろうが、当時の状況下にあって、不用意に強折すれば、敬台院等の檀信徒は退転してしまう危険があったのである。この御化導は、慎重を極めたことと拝察される。
 その過程には、『随宜論』に近い法門が、一部の檀信徒に対し、一段階としてあったことは、むしろ必然と考えるべきである。ただし、『随宜論』には、その本文の最後に、
「然れば富山の立義は(仏像を)造らずして戒壇勅許を待て、而して後に三箇の大事一度に成就すべき也。若し此の義に依らば、日尊の本門寺建立の時に先んじて仏像を造立し給うは一箇の相違也。」
とも書かれている。つまり、日精上人は、富士に来られてから尊門要法寺の日辰の教学の誤りに気付かれ、『随宜論』を著された頃、既に内心の真情としては、富士の人となられていたことが窺われるのであり、まったくの要法寺の思想ではなかったことを付記しておくものである。
 日精上人の従浅至深する造仏に対する制戒は、次第に鮮明になっていったと推察される。敬台院に対する指南にも、遂に造仏を制止する趣旨が強く顕れるようになったようである。ことここに至って、仏像に対する執情の強い敬台院は、とうとう日精上人に悪心を抱くようになり、仏像の背後に安置されていた日精上人の大漫荼羅本尊を外すという暴挙に出た。このことは、
「一、此度登せ申し候まん(漫)だ(荼)ら(羅)一ふく(幅)是は日情(精)筆にて御入候最前ちうんばうに帰し度候つれども其元衆檀中の返事の通もしら(知)ず、我等方より此のまん(漫)だ(荼)ら(羅)帰し申し候はゞ何ものさげずみ(測定)には日かう(興)もん(門)と(徒)ら(等)のさ(作)ほう(法)くはん(貫)じゆ(首)のさ(作)ほう(法)にて法を見かぎり(限)我等いつ(一)ち(致)にも成りかはり(替)申すか、また(又)はあく(悪)がう(業)にひか(引)れに(爾)ぜん(前)しう(宗)にもたち(立)かへり(帰)申し候かとうたがわ(疑)れ候はんはひつ(必)じやう(定)にて候はんと思ひ(中略)我等ぢ(持)ぶつ(仏)だう(堂)にはかい(開)さん(山)様のまん(漫)だ(荼)ら(羅)をかけ(掛)置申し候、此(精師筆)まん(漫)だ(荼)ら(羅)は見申す度毎にあく(悪)しん(心)もまし(増)候まゝ衆中の内に帰し申し候、何とめされ候とも其方達次第に候、其御心へ(得)有るべく候」(富要8-57)
との敬台院の書状によって判るのである。
 ちなみに、上記引用の文意を判りやすくするため、多少の注を加えて示すこととする。
「一、此の度(大石寺へ)登らせ申し候、漫荼羅一幅。是は日精筆にて御入候。最前ちうん房に帰し度く候つれども、其元衆檀中の返事の通も(使者である忠右衛門が帰っていないので、大石寺の大衆の意向を)知らず、我等(敬台院)方より此の漫荼羅を帰し申し候はば、何ものさげずみ(推測する)には、日興門徒等の作法、貫首の作法にて、(敬台院が)法を見限り、我等(が身延等の)一致にも成り替り申すか、または悪業に引れ(念仏・禅等の)爾前宗にも立ち帰り申し候かと(大石寺の衆檀中から)疑れ候はんは必定にて候はんと思ひ(中略)我等が持仏堂には開山(日興上人)様の漫荼羅を掛け置き申し候、此の(日精上人筆の)漫荼羅は見申す度毎に(敬台院が)悪心も増し候まま衆中の内に帰し申し候、何とめされ候とも其方達次第に候、其御心得有るべく候」
 この引用の、特に「我等一致にも成り替り申すか、または悪業に引れ爾前宗にも立ち帰り申し候か」から判るように、敬台院には、仏像の本尊に執情があったのである。しかし、それに対して、日精上人より「敬台院の、大漫荼羅を安置しない仏像だけの本尊は、身延日蓮宗等の一致派が、釈尊像を安置することや、爾前経の宗旨が、ただ仏像を安置することと、何ら変りがない、謗法である」との御指南を受けたのであろう。敬台院も、さすがに「一致派」「爾前宗」と言われるのには耐えられなかったらしく、日精上人の破折から逃れるために、日興上人の大漫荼羅本尊に掛け替えたのである。
 この時、日精上人に強く反発しながらも、道理を無視できないあたりに、敬台院の日精上人への根本的な信頼が感じられるのである。
 日精上人の丁寧な御化導は、造仏の制止論にとどまらず、什宝である仏像を撤去することにも及んだようである。これに対して、敬台院は、
「晋山当時兼務の侭の法詔寺にも一命に懸けて精師を拒絶し其寺什宝を目録に依て受渡しすべしと主張せり」(富要8-57)
と日亨上人が解説されるように、日精上人の拒絶に出たのである。
 「什宝を目録に依て受渡しすべし」との主張には、敬台院の仏像への執着が如実に感じられるとともに、敬台院に対する日精上人の御教導が、富士の精神そのものの厳しさであったこと、そして寛永17年頃には最終段階を迎えていたことが窺われるのである。
 このように、日精上人の敬台院に対する御登座以降の御化導は、富士の立義にいささかも違わない、尊い限りのお振る舞いなのである。それにもかかわらず、『随宜論』を用いて日精上人を難ずるとは、その教学研鑚が不熱心であるという怠惰な姿を露呈するものである。まさに「下司の勘繰り」であり、大謗法である。
 『随宜論』とは、造仏思想をお持ちであった日精上人が、血脈相承を受けられたことにより、その迷いから覚め、当家の深義に至られたという、当家の血脈相承の威力を証明する文書なのである。血脈相承を信じないから、眼前の史料の真実が見えないのである。
 そして、敬台院は、日精上人に反発しながらも、いつしか日精上人の大慈大悲の御教導を信解するようになり、仏像への厚い執情を払うに至ったのである。そして、遂には、
「其の後精師、尊尼と和睦有り、信敬已前の如し」(『続家中抄』・聖典763)
と、養母である敬台院の、日精上人に対する深い愛情に基づく信頼が、晩年には、清浄な信心へと昇華されていったのである。


3.学会文書に見られる悪意

 このように、学会による日精上人への疑難は、全く的外れなのである。すなわち、
「先生方の言われるように、日精上人が『戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします』ならば、何故、釈迦仏の造立という大謗法を犯した上に、それを正当化する『随宜論』を著したのでしょうか。また、この書も『大聖人の仏智による御指南』であり、たとえ宗義違背の謗法の指南でも『信伏随従』しなければならないとお考えなのでしょうか。」
との非難は、全く根拠を失うのである。学会は、このような書面を提出して宗内尊能化を愚弄し、また『創価新報』にこれを掲載して、学会員の信心を洗脳破壊したことに対し、潔い懺悔と訂正の表明を、天下にすべきである。
 また、この責任を取り、池田氏はじめ全ての学会幹部は、役職を辞任し、これ以上、宗内僧俗に迷惑をかけないよう、創価学会を退会すべきである。が、傲慢不遜な彼等にそれを望むのは無理のようである。
 しかし、心ある檀信徒諸氏は日精上人に対する誤解を解いて、日蓮正宗の絶対なることを再確認し、御法主上人への絶対信を確立して、御報恩のために、ぜひ、勇猛精進していただきたいものである。


4.創価学会の職業幹部の正体をあばく

 日精上人の御功績は、伽藍の建立や江戸での布教等、実に大きいのである。特に、日寛上人の入信・出家が、日精上人の御教導によるものであることは、特筆されるものである。日精上人への不遜な疑難は、これらの大恩を、全て踏みにじるものであるから、その罪障の、いかに大なるかを知るべきである。
 翻って、このような血脈の御法主上人に対する、創価学会の傲慢な姿勢により、今まで曖昧に捉えられてきた池田氏等職業幹部の正体が、正法の大敵、すなわち僣聖増上慢であったことを明確にすることができた。このことは、魔を魔と見破る上で、実に意義のあることと言えよう。
 妙楽大師の、
「第三最も甚し後後の者は転(うたた)識(し)り難きを以ての故なり」
との指南の通り、僣聖増上慢は、実にその正体を見破るのが難しいのである。それは、三類の強敵が、聖人の振る舞いを境目として起こるからである。この法軌は、時代を越えて、常に同じである。
 彼等創価学会の職業幹部は、在俗でありながら、自ら生計を立てていない。彼等は、供養であると詐称して徴収する財務等の、会員の寄付によって生活をしているために、一般会員とは別の存在なのである。したがって、我々僧俗は、創価学会の職業幹部が、実質的に、宗教法人創価学会の私度僧であることを、深く認識しなければならない。
 この問題は、学会幹部という、在家のふりをするよこしまな私度僧達によって、日蓮大聖人の仏法をなきものにせんとする、破壊活動なのである。その中心者の池田大作氏は、まさに僣聖増上慢であり、多くの幹部は道門増上慢であり、それに盲従する一般会員が俗衆増上慢であることは、もはや明白である。


   お わ り に

 宗祖大聖人の御振る舞いによって顕れた三類の強敵が、今日、再び出現することは、とりもなおさず御法主日顕上人の御高徳のしからしむるところであろう。それは、また下種三宝尊の御威徳が、いよいよ明らかに顕現せんとしていることの証明であり、広宣流布へ向けての基盤が、まさに調いつつあることを示しているのである。

 以  上