世間一般では、「学」というと学問があり、「無学」というと学識が全くないという意味になります。しかし、仏法においては正反対であり、「学」とは、まだまだ学ぶものがあるという意味になり、「無学」とは、全て学び尽くし学ぶものが無く、悟りを得た仏様に近い意味になります。
「学無学」について、第六十七世日顕上人は「開目抄御説法」において、
「『学無学二千人』は、小乗の修行によって得られる、須陀顏、斯陀含、阿那含、阿羅漢という四果がありまして、このうちの須陀閂、斯陀含、阿那含は、いまだ学ぶことがある修行中の者ということで「学」、そして声聞の最高の位である阿羅漢果を得た者は既に学ぶものが無いということから「無学」と示されたものであります。この学も無学も共に宝相如来という仏様になれると授学無学人記品に示されております。」
と御指南です。「学無学」について、『法華経』の「授学無学人記品第九」(法華経308)に説かれています。
更に「学無学」について「撰時抄御説法」において日顕上人は、
「よく『学無学』と言いますが、学とはまだ学ぶ余地を残す初果、二果、三果等の聖者を言い、無学という境界は小乗の仏教を最高まで極めて、もう学ぶものがない阿羅漢の位を言うのです。この「学無学」の人々もやはり二乗なのであります。したがって、釈尊の本当のお気持ちはそこで終わらせるつもりはないのであります。もっと引き上げて大きな境界に眼を開かせ、修行を進ませて、真実の悟りの上の大きな功徳を与えたいという大慈悲があります。」
と御指南です。
「学無学」の人々は、『法華経』である三大秘法の御本尊様を受持信行するところ、本当に成仏するのであります。
『御義口伝』には、「人記品二箇の大事」(御書1748)が説かれ、「第一 学無学の事」「第二 山海慧自在通王仏の事」という二つの大事について御教示です。
「第一 学無学(がくむがく)の事」には、
「御義口伝に云はく、学とは無智なり、無学とは有智なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは、学無学の人に如我等無異(にょがとうむい)の記を授くるに非ずや。色法(しきほう)は無学なり、心法(しんぽう)は学なり。又心法は無学なり、色法は学なり。学無学の人とは日本国の一切衆生なり。智者愚者をしなべて妙法蓮華経の記を説きて而強毒之(にごうどくし)するなり。」(御書1748)
と御教示であります。「学無学」とは、一切衆生のことを意味します。
「第二 山海慧自在通王仏(せんかいえじざいつうおうぶつ)の事」には、
「御義口伝に云はく、山とは煩悩即菩提なり、海とは生死即涅槃なり、慧とは我等が吐(は)く所の言語なり、自在とは無障碍(むしょうげ)なり、通王とは十界互具百界千如一念三千なり。又云はく、山とは迹門の意なり、海とは本門の意なり、慧とは妙法の五字なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は山海慧自在通王仏なり。全く外に非ざるなり。我等行者の外に阿難之(これ)無きなり。阿難とは歓喜なり、一念三千の開覚なり云云。」(御書1748)
と御指南です。日蓮大聖人が仰せになるように、信心をすれば必ず成仏するのです。
故に「学無学」の成仏は、爾前権教を捨て法華一乗に帰し信心することです。
